ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2016.10.22 没後100年 文豪の奥様に想う

2016-10-22 22:39:24 | 日記
 今年、没後100年という節目の年であるせいか、夏目漱石の名前をあちこちで眼にする。そういえば夏の初め、松山を訪れた時にも大きな垂れ幕がかかっていた。
 だからというわけではないが、NHKの土曜ドラマ「夏目漱石の妻」は全4回とも予約録画してしっかり視聴した。堪能した。
 役者陣は漱石夫妻を初め、脇を固める俳優さんたちも皆実に芸達者で、大したものだった。

 漱石の小説を何篇か読んだことはあったが、その生い立ちについて殆ど何も知らなかった私。奥様である鏡子さんが悪妻であったという、半ば中傷とも思える話についても全く知らなかったので、とてもフラットな気持ちで見入ることが出来た。
 
 お嬢様育ちだった鏡子さんは、早起きが大の苦手で、出勤する夫の朝食の支度が出来ないどころか、夫が出かけてしまってから起き出すといった、ちょっと笑えないエピソードもあった。慣れない地方での生活、最初の子を流産で亡くし、川に身を投げて自殺を図った後、心配した漱石が手に糸を結んで就寝したというシーンを経て、その後、たくましくも2男5女を生み育てた。

 挙句の果ては10歳年上の偏屈な夫から「ポンポンポンポン、子どもばかり生みやがって」とまで言われる。いかに天真爛漫な奥様といえども「そりゃーないでしょう」と言ったところか。一人じゃ子どもは授かりませんからね。

 貴族院の書記官長等要職を歴任した父に、蝶よ花よと、それは大切にされ、笑顔が絶えない環境で育てられたお嬢様鏡子さんと、幼くして里子や養子に出され、その後実家に戻されてからも実父にあまり尊ばれずに寂しい子ども時代を送った漱石と、“家族”というものに対する思いは全く違ったものだったろう。

 そんな二人があの“修善寺の大患”を乗り超え(それにしてももの凄い吐血シーンだった。もはやこれまでと思ったけれど「大丈夫だから、家に帰る」と妻の手を握って奇跡の復活を果たし、その後、数々の名作を書き残したのだから本当に凄い。)10数年という歳月を経て、いい夫婦になった穏やかなラストシーンにじ~んとした。(そもそも漱石は49歳で亡くなっているから、2人が夫婦であった時間は20年に過ぎない。)

 鏡子さんは悪妻どころか、気難しく小説のことしか頭にない夫を御しつつ、沢山の子どもたちを抱え、家計を切り盛りし、実に肝が据わった大した良妻賢母だと思う。失脚した実父から、漱石に借金の連帯保証人になるように頼んでほしい、と懇願されても、それはさせられないと自分から縁を切る。お金の無心に来た漱石の養父から、夫に不利な念書を取り返すために、質札を沢山手にする生活を続けながらもようやく貯めた10円をポンと渡し、お引き取り願う。漱石の「また一人、身内が減った。身内とは厄介なものだが、自分が生まれてきた証拠のようなものだからね」と呟く。この孤独感に苛まれた台詞には胸が詰まった。

 最終回で「“坊ちゃん”に登場する(主人公を案じる)ばあやの清(きよ)は私のことでしょう?」という鏡子さんからの問いかけに対する「そういうことにしておこう」という台詞に、漱石が妻・鏡子さんを深く愛し、甘えていたのだと感じたのは私だけだろうか。
 齢の離れた夫婦はどこかこんなところがあるものなのだろうな、とやはり齢の離れた夫を持つ妻である私は、ちょっぴりニヤニヤしながら思う。

 その後、鏡子さんは子どもたちや孫たちに囲まれ、夫の死後半世紀近くを生き抜いて、昭和38年に85歳で生涯を閉じたという。そして、何かあれば「私にはお父さん(漱石)が一番」と言っておられたとか。嗚呼、なんとも素敵なご夫妻である。


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