いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

ギブミーチョコレートにおけるパンパンの役割、あるいは、媒介者

2020年01月16日 19時38分26秒 | 日本事情

敗戦直後、日本に進駐してきた占領軍に子供たちが群がり、チョコレートなどをもらっていたことは歴史書に写真入りで出てくる。「ギブミーチョコレート」ってやつだ [1]。ところで、占領軍兵士=事実上米兵に「ギブミーチョコレート」といってチョコレートをもらいましたと書いた自伝を、おいらは、見たことがなかった。むしろ、米兵に物をもらったが父の命令で捨てたという話は読んだ(保坂正康の話;愚記事)。

[1] 西部邁と小林信彦がそれぞれ別のメディアの場において、われわれは後続の世代から「GMC=give me chocolate!」の世代と云われるが、自分は絶対そんなことはなかったと、聞かれもしないのに、言っていた。(愚記事)

一昨年読んだ本で初めてみた。米兵に「ギブミーチョコレート」といって、チョコレートをもらった人の話。海老坂武(wiki)、1934年・昭和9年生まれ。敗戦時、11歳だ。でも、事情が想像外だった。パンパンが出てくるのだ。そして、パンパンの役割が描かれている。

じっさい、私はなんの抵抗感も覚えなかった。まだ卑屈という感情を知らなかったということもある。そして生まれてはじめての英語をおそるおそる口にしたのだ。誰かが教えてくれた「ギブミーチョコレート」「ギブミーチューインガム」を何回か試みた。相手はもちろん進駐軍の兵士だ。何回目かの「ギブミー」に一箱のチューインガムが投げてよこされた。パンパンと呼ばれていたお姉さんにぶらさがられている兵隊だった。
「ギブミー」の声に鋭く反応するのは兵隊たちではなく、これらのお姉さんたちだった。いわば彼女たちの口利きで、この片言英語がその後、再三効果を発揮することになる。そして最初にハーシーのチョコレートを、忘れもしないハーシーのチョコレートを投げてくれたのは、彼女らの一人だった。こうした優しいお姉さんたちをどうして悪く言うことができよう。どうして「パンパン」という言葉を、誹謗する言葉として使うことができよう。(海老坂武、 『戦争文化と愛国心――非戦を考える』、2018 [Amazon])

そういえば、これに似た状況を踏まえて、パンパンについて考察した自伝があったなと思い出した。西部邁(1939年・昭和14年生まれ、敗戦時6歳)の記憶だ。1979年の証言である。

(西部が緬羊のための草を基地から盗んだとき、米兵から銃をつきつけられたことをふまて )銃と緬羊の構図というのでは、アメリカ占領軍の像はまるで抽象画のようですが、そこに、当時パンパンと呼ばれていたアメリカ軍人相手の娼婦が登場すると、かなり具象的になります。ジープや何やで家の前の砂利道を疾走していくアメリカ兵にしても、時おり酒をねだり身振りで台所口にぬっと現れる雲つく大男にしても、余りに異形であってつかみどころがなく彼女らがジープに便乗していたり、大男の腕にとりすがる形で仲立ちしてくれてはじめて、僕たち少年は彼らアメリカ兵たちとのつながりの可能性を感じたらしいのです。(中略)僕たち子供は、少なくとも僕の知る限り、彼女らを強く軽蔑していました。ペラペラした洋服、どぎつい口紅、いわゆるパンパン英語、アメリカ兵にぶらさがる無様な姿、そうしたものを軽蔑の念なしに眺めるには、僕たちはまだまだ世間しらずだったのです。しかし、同時に、彼女らは畏怖の対象でもあり、彼女らも方もそれを意識して傲岸な素振が上手上手だったようです。
 彼女らが僕たちと占領軍の間の媒介者であるという漠然とした感じが明確な形をとったのは、僕の妹が煮湯をかぶって大火傷をしたとき、一人の娼婦が(たぶん片言のアメリカ語を駆使して)ペニシリン軟膏を調達してくれ、そのおかげでケロイドをほとんど残さずにすんだような場合です。権力に寄生するものが権力の言葉をじゃべることができ、それによって被征服者たちに重要な恩恵をほどこしているわけです。何せ戦争の直接の被害がほとんどなかった北海道にいて、しかも親戚その他の近い知合いに戦死者が一人もいなかったのですから、子供の感じる占領軍のイメージは何かおぼろげで、娼婦たちが媒介してくれなければ、それはただ、武器という沈黙した権力の仮面みたいものに思われたでしょう。(西部邁、『蜃気楼の中へ 遅ればせのアメリカ経験』、1979 [Amazon])

この記事は、「パンパンへの視線」ということ「西部邁のパンパン、あるいは米占領軍描写の変遷」というのを今後書こうかなと思っているので、その時のための引用文章として、コピペ、打ち込みをした。