いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

西部邁死去2年、3回忌、あるいは、西部自伝への些細な註

2020年01月21日 19時00分37秒 | 日本事情

西部邁が死んで今日で2年。仏教では3回忌ということになる。2年前の西部の死で印象深かったのは西部が死んで関東が雪原になったこと。西部は土曜深夜、1/21の日曜早朝に多摩川で入水自殺。その西部が死んだ日の夜から関東は大雪に見舞われ、圧雪となるほどの積雪であった。印象を深くした理由は西部に「私の原風景」という文章があり、雪原の孤独を回顧している。子ども時代の本当の雪原と東大助教授時代に勉強のし過ぎで降雪の幻想を見るという話だ。おいらは初出を新聞(道新)でみた。

 

左:新聞記事はここで読めます(出た画像をもう一度クリックすると字が読めるほどに拡大します)。右:2018年1月22日の横浜

さて、西部の最後から2番目の著書『ファシスタたらんとした者』(2017年6月刊)という自伝の些細なことについて書く。

■ 玉音放送から米軍進駐までの間

 八月の末であったかのか九月の初めであったのか、少年の一メートル目の先に「米軍」が登場することによって、「敗戦」がこの上なく明白なものとなった。国道十二号線の砂利道をアメリカの戦車、ジープ、トラックなどがやかましく音立てて、そして砂埃と土煙をもうもうと舞い上げて通過していった。それは、当時は、占領された近所の基地からやってくるのだと少年は考えていた。しかし、あんな小さな基地に何十台もの戦車が駐屯する必要がなかったはずだ。おそらくは、千歳あるいは真駒内の基地から直接に旭川方面に向けて北上する部隊だったのだろう。旭川にはかの(満州で活躍したので)有名な旭川連隊がかつてあり、その跡を対ソ防衛の拠点として襲う、というのが米軍の目論見であったに違いない。(西部邁、『ファシスタたらんとした者』、p21)

米軍が札幌に進駐したのは1945年(昭和20年)10月5日である。したがって、西部の「八月の末であったかのか九月の初めであったのか、」というのは記憶違いである。何より、八月の末というが、米軍が東京に進駐したのは9月8日 [1]。マッカーサーが厚木に降り立ったのが8月30日。特殊な先遣隊の日本上陸はまれ[2]。ミズーリ号での調印式が9月2日。こういう歴史的事情であるから、そもそも、八月末ということはない。

[1] 関連愚記事;1945年9月8日横浜(⇒東京)に進駐する米軍を米英旗で迎えるがきんちょたち

[2] 捕虜収容のため(大森:『英国人捕虜が見た大東亜戦争下の日本人』では8/29に上陸舟艇で大森捕虜収容所に米軍が捕虜を救出しに来たとある。[愚記事])、あるいは、マッカーサー到来のための先遣隊など

 西部が見た進駐軍は国道12号線を北上、旭川方面に向かったと西部は云っている。史実は、10月6日に旭川進駐 [3]。そして、この部隊は10月5日に小樽に上陸した [4]。したがって、米軍は札幌に向かった部隊とは旭川に部隊がいて、両者とも小樽から直接目的地に向かった。西部が思った「当時は、占領された近所の基地からやってくるのだと少年は考えていた。しかし、あんな小さな基地に何十台もの戦車が駐屯する必要がなかったはずだ。おそらくは、千歳あるいは真駒内の基地から直接に旭川方面に向けて北上する部隊だったのだろう。」というのは違うのだろう。何より、真駒内の基地とはキャンプ・クロフォード[5]のことだと思うが、キャンプ・クロフォードができたのは敗戦の翌年である。

[3] 進駐軍による日本全国への兵力展開は極めて迅速に行われ、9月末にはほぼ内地進駐を終え、10月には北海道の進駐(旭川・10月6日)を完了した。最も遅いのは松山で、10月22日である [31] (引用元

[31] 大江健三郎に会うことになる進駐軍はかなり彼を待たせたのだ

[4] 昭和二十年十月四日、まず米第八軍九軍団の六千名がバーネル少将の指揮下に函館港に入港、つづいて北海道進駐米軍最高司令官ライダー少将および七七師団長ブルース少将が部下八千名をしたがえて小樽港へ向かった。(奥田二郎、『北海道米軍太平記』)(愚記事より)

[5] キャンプ・クロフォード; 関連愚記事群

これらのことは西部がもつ構成された記憶が「事実」と違うことを示し、些細なことと言える。でも興味深いのは、現実は玉音放送から米軍進駐までひと月半の時間があったことである。この時間を敗戦国民たちがどうすごしたか?一般に、敵軍の進駐に不安と緊張で過ごした記録はある。例えば、横浜では玉音放送から米軍進駐の2週間に年ごろの娘をもつ父親は本気で娘を隠す穴を掘っていたという報告もある[6]。

西部の伝記では、玉音放送から米軍進駐までの間について、特にエピソードはない。

[6] 『田奈の森―学徒勤労動員の記』 (Amazon))

■ B29と北海道

彼は戦争なるものの片鱗をみせられる成り行きとなった。というのも、自宅から東南に二キロほど先に、日本軍の基地、格納庫兼弾薬庫が、野幌原生林に隠れるようにして、あったからである。飛行機はすでに一機もなく、弾薬とて残り少なかったのであろうが、そこを探索すべくグラマン戦闘機が(二機編成で)五百メートルばかり上空をすさましい爆音と速度で飛んでいった。B29爆撃機も、二度、気味の悪い爆音を残して、一万メートル上空を通り過ぎていった。今にして振り返れば、ソ連が(ヤルタ秘密協定にもとづいて)北海道の東半分を分捕ろうとしていたのであるから、アメリカもにわかに北海道に関心を向けずにおれなかったのであろう。(西部邁、『ファシスタたらんとした者』、p17)

西部は北海道にB29が来たと云っている。おいらは、おかしいではないか、と思った。なぜなら、B29の飛行距離と出撃基地から考えて、敗戦まで北海道はB29の空爆可能地域になったことはないはずだからだ(図1参照)。ちなみに、愚記事に「B-29が来なかった街に生まれて」がある。



図1(引用元)

調べた。西部が云う「B29」がわかった。B-29には同型で改造した偵察機型F-13というのがあった(wiki)。おそらく偵察機なので爆弾の代わりに燃料タンクを大きくしたのであろう、北海道にも来ていたのとわかった[7]。

[7]  で、個人的に知りたかった留萌市への偵察について・・・ありましたありました。しっかり空撮されています。本書によれば石炭の石油化実験プラントを目標にしたものとのこと。(Amazon 米軍の写真偵察と日本空襲 - 写真偵察機が記録した日本本土と空襲被害

■ パンパンへのまなざし;1979-2017

 札幌から汽車でやってきたらしい「パンパン」の三人組が「基地」へ向かって歩いていくのをみたとき、少年は「穢い女たちだと」と思ったーパンパンというのはアメリカの植民地フィリピンのある村の名前で、そこはアメリカ軍人相手の娼婦基地であったようだー。実際、その女たちには生け図々しいといった風情があった。(西部邁、『ファシスタたらんとした者』、p23)

最晩年の自伝では、パンパンを「穢い女たちだと」と思ったことだけを書いている。でも、1979年はもっと深みがあった。

西部にはいくつか伝記がある。西部の著作の最初は『ソシオ・エコノミクス』であり、学術書。2番目が『蜃気楼の中へ 遅ればせのアメリカ経験』、1979 [Amazon])である。自伝だ。西部の米英での滞在記。この後、西部は「保守」志向を明確にする。その『蜃気楼の中へ 遅ればせのアメリカ経験』では自分とアメリカの関係を述べる。小学校時代の占領米軍との遭遇と基地をめぐることがいくばくか書かれている。そして、パンパンについても書いている;

(西部が緬羊のための草を基地から盗んだとき、米兵から銃をつきつけられたことをふまえて )銃と緬羊の構図というのでは、アメリカ占領軍の像はまるで抽象画のようですが、そこに、当時パンパンと呼ばれていたアメリカ軍人相手の娼婦が登場すると、かなり具象的になります。ジープや何やで家の前の砂利道を疾走していくアメリカ兵にしても、時おり酒をねだり身振りで台所口にぬっと現れる雲つく大男にしても、余りに異形であってつかみどころがなく彼女らがジープに便乗していたり、大男の腕にとりすがる形で仲立ちしてくれてはじめて、僕たち少年は彼らアメリカ兵たちとのつながりの可能性を感じたらしいのです。(中略)僕たち子供は、少なくとも僕の知る限り、彼女らを強く軽蔑していました。ペラペラした洋服、どぎつい口紅、いわゆるパンパン英語、アメリカ兵にぶらさがる無様な姿、そうしたものを軽蔑の念なしに眺めるには、僕たちはまだまだ世間しらずだったのです。しかし、同時に、彼女らは畏怖の対象でもあり、彼女らも方もそれを意識して傲岸な素振が上手だったようです。
 彼女らが僕たちと占領軍の間の媒介者であるという漠然とした感じが明確な形をとったのは、僕の妹が煮湯をかぶって大火傷をしたとき、一人の娼婦が(たぶん片言のアメリカ語を駆使して)ペニシリン軟膏を調達してくれ、そのおかげでケロイドをほとんど残さずにすんだような場合です。権力に寄生するものが権力の言葉をじゃべることができ、それによって被征服者たちに重要な恩恵をほどこしているわけです。何せ戦争の直接の被害がほとんどなかった北海道にいて、しかも親戚その他の近い知合いに戦死者が一人もいなかったのですから、子供の感じる占領軍のイメージは何かおぼろげで、娼婦たちが媒介してくれなければ、それはただ、武器という沈黙した権力の仮面みたいものに思われたでしょう。(西部邁、『蜃気楼の中へ 遅ればせのアメリカ経験』、1979 [Amazon])

つまり、2017年の伝記とは視線が少し違う。あるいは、晩年の回顧にはパンパンの媒介者という役割については言及していない。西部の複数の自伝で、ある時期から突然、少年の頃、占領米軍にインティファーダ(抵抗運動)をしたと書き始めた。『ファシスタたらんとした者』にも書いてある。でも、『蜃気楼の中へ 遅ればせのアメリカ経験』、1979にはそんなことは書いていない。

つまり、自分のあまたの体験を現在の視点で回顧、物語の構想を行っているのあり、各時代で西部の視点が異なるのだ。これは西部のいくつかの自伝を丹念に読むとわかるので、おもしろい。

▼ 媒介者としてのパンパン

なお、「彼女らが僕たちと占領軍の間の媒介者であるという漠然とした感じが明確な形をとった」とある。パンパンの媒介者としての役割についての指摘は海老坂武が書いていると先日書いた(⇒ ギブミーチョコレートにおけるパンパンの役割、あるいは、媒介者