いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

新しい街でもぶどう記録;第46週

2015年09月12日 13時24分29秒 | 草花野菜

■今週の看猫

 

■今週の樹木


北の街にて。


北の街にて。


北の街にて。

■今週の家屋


北の街にて。


北の街にて。

■今週の購書

北の街で古本屋を覗く。上記4冊を選ぶ。ブックオフとは違う品物の取り扱いではある(包装の様子を示す上画像を見よ!)。島木健作と野呂栄太郎はがきんちょの頃から知ってはいた名前。北の街の出の人達だからだ。でも、詳細は知らなかった。最近の<林芙美子とその時代>探訪で、昭和初期、あるいは1920-1930年代のモダニズム、コミュニズムの文化状況の話をする本の中でで両者の名前をちらほら目にするようになっていた。例えば;

「わたしはあなたが島木健作のような動きかたをするようなひとだとはけっして思わないけど。文壇というところは他人の脚をはらってやろうとい身構えている人間がたくさんいるから、これからは書くものには細心の注意をなさい」 (高杉一郎、『往きて還りし兵の記憶』) [註:ここで、”わたし”は、宮本百合子、”あなた”は、高杉一朗]

島木健作のような動きかたって、どんな動きかたなんだろう。すごい腰使いだったんだろうか?知りたい。なので、買う。

北の街で古本屋のある棚に、島木健作と野呂栄太郎の伝記が、あつらえように、あったのだ。

なお、参考に;

林芙美子:  1903-1951 (享年48歳)
野呂栄太郎: 1900-1934 (享年35歳)
島木健作:  1903-1945 (享年42歳)
片岡球子:    1905-2008 (享年103歳)

■今週の鳥瞰、あるいは、名は体を表す。

鬼が怒ると、坂東太郎(利根川)より、怖い。

北の街からの帰りの飛行機で、やや突然に、しかし、ゆっくりと、機体が旋回し、結構機体が傾いた。本を読んでいたおいらは、その機体の旋回と傾斜よりも、機内のざわつきに、何事だろう?と思い、顔を上げた。すると、多くの人が窓の下を見ていた。例の鬼怒川の堤防決壊の冠水地域が見えたのだ。これは機長の「サービス」だったのだろう。

■ 

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はまりに来たよその猫

2015年09月10日 20時05分10秒 | ねこ

よその猫(関連愚記事:知らない猫、初めての訪問)がまた来た。しかも目的があるらしい。愚猫がいるので、ゆっくりにじりよって来る。かなり時間をかけてこの知らないよその猫がしたことは、プランターにはまることだった。

↓ プランターから逃げ出すのではなく、はまる直前。愚猫・みけちゃんは唸らない。


菊池寛、1928年(昭和3年)、第一回男子普通選挙に無産者党から立候補

2015年09月08日 05時11分45秒 | 日本事情


第一回男子普通選挙(1928年2月)で社会民衆党から
立候補した菊地寛の選挙ポスター
(ネット上からのパクリ)

最近知って、驚いたこと (=今まで知らなかったという自分に自分で驚いたこと)。

菊池寛は、1928年(昭和3年)、第一回男子普通選挙に無産者党から立候補。落選。

注目点は保守系の既成の大政党から立候補したのではなく、社会民衆党という「無産者党」から立候補したこと。

(今の「文藝春秋」からのイメージは「保守」的、あるいは少なくとも、非左翼的というものではないだろうか?)

この時代の雰囲気は今の人には理解しづらいのかもしれない。おいらもよくわかっていない。

 20世紀初頭の日本社会は、今の時代を格差社会というのがバカらしいほどの格差・階層社会。

  
参照愚記事:日本ファシズムと日本人民戦線の幻と現実

横軸が時代。縦軸は所得の源泉。戦前は給与所得=賃金労働による収入より、利子所得・配当所得・不動産所得など不労所得などが圧倒的に多かった。

すなわち、資本者階級(頭かずでは少数派)が経済・社会でのさばっていたのだ。

そういう時代、1920年代に、例えば、マルエン全集(=マルクス・エンゲルス全集)などが出版されていた時代。ちなみに、自国語でマルエン全集が巷に流通していたのは日本だけではないだろうか?欧米では、マルエン全集はあっても原語かアカデミズム用の出版物。日本では大衆出版社/改造社が格安でマルエン全集を巷にあふれさせた。

こういう時代背景で、上記菊地寛のポスターの「読書階級の人々は」とあるのだ。「読書階級の人々は」、配当所得・不動産所得など不労所得にあずかる人ではないのだ。現実の社会で利益の果実にあずかれないので、知識や観念でこの世を把握しようとする人々だ。でも、それは食べられるものではないのだ。だから、自分たちに恩恵を与えない社会はぶち壊せ!と気づいたのだ。

そして、こののち、彼らは革命と戦争の時代における重要な担い手となる。

社会の平等化、社会の平準化への運動として発現する、この運動の一環が親米鋭的特権資本家階級・富裕層を打破する運動であり、対外的には対米英蘭戦争であった。 そして、「成功」したのだ。上図(戦前富裕層の没落)。

戦前の「ファシスト」/「軍国主義者」は、無知な野蛮人なのではなく、よく本を読んだ造反者たちなのだ。


現主席の筆跡に顕われたる文革後遺症

2015年09月06日 19時12分08秒 | 中国出張/遊興/中国事情

痛いニュース: 安倍首相と習近平の字を比較した香港人が激怒 「漢字文化の真の継承者は日本だ」

日本でのネタソース: 「漢字文化を真に継承したのは日本国だ」と香港で評判に。 習ちゃんの字www

▼ 毛主席の筆跡と筆を執る様子

 

出典;毛澤東書信集

習近平さんは文化大革命の間、下放されていた。毛筆修行をする余裕はなかったのだ。一方、当の文化大革命を発動した毛主席は読書三昧、執筆三昧であった。毛澤東は反文明主義者ではない。むしろ、「文明」が大好きだ。でも、「文明」愛好者&実践者は自分ひとりでいいと考えたらしい。自分以外に読み書きが優れた人間を撲滅しようとしたのだ。 関連愚記事:殺される側の筆跡  殺す側の筆跡

■ 継承者はキミだ!or 唐様で書く三代目...




新しい街でもぶどう記録;第45週

2015年09月05日 19時38分40秒 | 草花野菜

■ 今週の看猫

■ 今週の工夫

通販で、古本を包む封筒の端が折ってあった。本の角が傷まないような工夫なのだ。

■ 今週の病欠


こいつ(村山富市、1924~ by 磯崎新

村山元総理が中国共産党の抗日勝利記念の軍事パレードの式典に参加予定と先日ニュースが言っていた。今日のネタは「今週の軍パ大好き!」にしようと思っていた。軍パ=軍事パレード。でも、病欠だって。

マッカーサー憲法を踏みにじるという政治を、自衛隊違憲論を主張してきた社会党が実践した。村山元総理さまさまである。日米安保も是認、朝鮮併合も合法的と是認。村山元総理さまさまである。

今度の安保法制だって、この「村山現実路線」とおなじ方向であり、日本国が自主的に戦争できるということではなく、米軍の肩代わりをするということだ。この今度の安保法制を成立させ、中近東での戦争に日本がいくばくかでも手伝い戦(いくさ)をしないと、日米関係がもたないと現行日本えすだぶりしゅめんとさまは考えているのだ。村山政権の思想と原理的には変わらない。憲法軽視・無視の政治の思想も同じ。

蛇足;

村山内閣を作ったのがここの漁師の子なんですよ。僕の小学校の数年先輩というのは。こいつ(村山富市、1924~)も元左翼すよ[ママ] 別府の奥にアメリカ軍の 練習場があるんですけど、彼はここに来るのに労働組合の委員長で反対闘争に行っていたやつなんですよ、あの首相は。それが社会党になってどんどん世の中で 右の方に寄っていった。だって自民党のサポートした内閣の首相になっちゃったわけだから。これは林房雄さんも文句も言えないっていう(笑)。あっちの方が 筋が通ってる確信犯なんですけど、こっちは確信犯じゃないから僕は問題なんだと思う。そういうのが僕の小学校の先輩にいるという、そういう国なんですよ。 右も左も...(略)[強調、おいら]磯崎新オーラル・ヒストリー(ソース

■今週の 表情校正線; 習さんの仏頂面はうれしいの表現。

(校正(検量)線: calibration curve= ある物性値(分析値)を示す値はその装置ごとに違う。校正(検量)線は、装置ごとの、物性値と表示値との関係を示した数値曲線。

ここでの比喩は、表情で示される感情の内容はその人ごとの表情の出し方で変わる。例えば、感情豊かでなんでも喜ぶ人が喜んでも、本当にうれしいのか?わからない。その逆(無愛想な人)の例もあるだろう)


今から振り返るに、やはり、この時、習さんはうれしかったのだよ(愚記事:やっぱり、励まし合う太子のふたり)。

そうなのだ。 この習さんの表情は「うれしい」を意味しているのだ。

なぜなら、抗日軍事パレードで...。

 

こんな中華帝国の絶頂に、皇帝のこの「仏頂面」。
(なお、RTはロシアテレビ。ネットでパクった画像です)

■今週の スターリン が生きている国

世界広しと言えども、スターリンの肖像画が公然と掲げられている国は、お支那さま、だけではないだろうか? おそらく、祖「国」の グルジア ジョージア でも掲げられてないないだろう。そして、ホントの祖国の継承国たるロシアでも、公然とは掲げられてないないだろう。

でも、お支那さま=「中华人民共和国」は違う。

スターリンの肖像画が公然と掲げられているのだ。

おいらは、みた;


愚記事; 大連の書店 おいらのスターリン体験! 

(蛇足; レーニン体験はこちら→愚記事:レーニンはイコン化するのか?

お支那さま=「中华人民共和国」こそ、スターリンの魂の亡命地に他ならない。

内心、スターリンが大好きに違いない強権主義者のプーチンさんは、だから、お支那さまに行ったのだ。

当代の非公然スターリニスト

▼ 13円だよ!

 
Amazon わたしのスターリン体験 (岩波現代文庫) 文庫

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林芙美子のソヴェート批判;「レーニンを少しばかりケイベツしましたよ」

2015年09月03日 19時25分24秒 | 日本事情

改造社の編集者であった高杉一郎(本名、小川五郎)は昭和19年に36歳で兵隊にとられ、満州へ。村山談話の流儀に従えば中国侵略兵として中国大陸へ、満州国を植民地支配するための侵略軍である関東軍の一員となる。そして、終戦。ソ連軍に囚われ、シベリアで強制労働に従事させられる。1949年に復員。

その改造社の編集者であった高杉一郎が林芙美子について全く言及していなことが愚ブログがもつ謎である。林芙美子は改造社がつぶされるまで、雑誌「改造」に執筆していた(愚記事)。高杉一郎は、シベリア抑留の体験記を復員後すぐに刊行。『極光のかげに』。おそらく当時最初のシベリア抑留の体験記ものではないだろうか?さらには、『極光のかげに』は、その中では明記はされていないが、のち高杉一郎が語るに、高杉一郎は戦前1920年代末から1930年代初頭のインターナショナリズム、共産主義の洗礼を浴びたらしい。そのインターナショナリズム、共産主義を頭で理解していたインテリさまのシベリア抑留の体験記が、『極光のかげに』。この本は、大江健三郎さま、鶴見俊輔さま、加藤周一さま、に評価された、と知って、おいらは、ぎょえっとしたことは書いた(愚記事)。その評価の一端がこれ;

社会主義国家についての現実的な肖像は、一九四五年に日本が戦争に負けてから、はじめて日本人にえがかれたと言ってよい。高杉一郎の『極光のかげに』は、その一つで、長谷川四朗、石原吉郎の文章とともに、戦争の捕虜として、収容所の中からこの社会主義国家を見た記録である。(鶴見俊輔、「解題」『新版・極光のかげに』(冨山房、1977)、太田哲男、『若き高杉一郎 改造社の時代』より孫引き)

シベリア抑留者たちが帰国するまで、ソ連批判がなかったような書きぶりである。

林芙美子がいるではないか!

林芙美子が「ソヴェート」(これは林芙美子がソ連にくれる呼称である)を通りすがりに見聞し、現実を穿ったのは1931年冬、満洲事変とコミンテルン32年テーゼの決定・発表の間の時期である。この時期、あちこちにこのシベリア横断記を雑文として発表するのだが、公開文や私信の中で「ロシヤは驚木桃の木さんしよの木だ」を連発している。林芙美子はロシア革命の現実を見たのだ。1931年にこういう印象を持った。

言葉の通じないせいもありましょうが、全く不思議なインショウになってしまいました。何故なら私の目にはいった露西亜は、日本で知っていた露西亜と大違いだからです。日本の無産者のあこがれている露西亜はこんなものだったのでしょうか?日本の農民労働者は露西亜のおこなった何にあこがれていたのでしょう?――― それだのに、露西亜の土地は、プロレタリヤは相変わらずプロレタリアです。すべていずれの国も、特権者ははやり特権者なのではないでしょうか?その三ルーブルの食堂には、兵隊とインテリゲンチャ風な者が多くて、廊下に立って眠っている者たちの中には、兵隊もインテリもいません。ほとんど労働者の風体のものばかりでした。古い新聞(十一月八日)東京ソヴェート大使館では、お茶の会、ソヴェート友の会があったと云うことですね。貧しい人たちと一緒に汽車旅をしている私には、ちょっとこの記事はカンガイ無量でした。日本人のソヴェート愛好者を集めて、あの白いすっきりした麻布のソヴェート大使館では、茶菓が出て、そうして活動写真が見せられ、列席者、何々氏何々女史等々、――私は妙に胸寒さを感じます。棒のようにつっぱって眠っている寝床の買えない露西亜人たちの顔を私は眩しく見たのですけれど・・・・・。なぜ、ソヴェート大使館では、職場に働いている日本の農民労働者を呼んではくれないのでしょう。何々氏何々女史も結構なことですけれど、この人たちは、プロレタリア愛好者であって、有閑紳士淑女に外ならない名前ではありませんか。―――モスコーの母親へ会いに行くビオニールは何度も手を出して私にパンを呉れと云います。食堂は金を持っている者のためにのみくっついて走っているかたちです。
 だけど、けっして、私は露西亜を悪く云うわけではありません。私はロンドンまで行ってみて、一番好きな人種は、やはり露西亜人でした。

(略)

ロシヤは、どうして機械工業ばかり手にかけて、内輪の物資を豊かにしないのでせうか、悪く云えば、三等列車のプロレタリヤは皆、ガツガツ飢ゑてゐるやうでした。

(林芙美子、「西比利亜の旅」)

私信ではもっと直截に書いている;

ロシヤはこじきの国だ。ピオニールが私に、マドマゼルパンをくれと云ってくる。全く一人の英雄の蔭には幾万のギセイ者だ。五年計画と云うが、十代政治家が変わってもむつかしいだろう。五年計画があんなものだったら、ロシヤは又かくめいが来る。  (11月24日の手紙(封書))

(略)ロシヤは驚木桃の木さんしよの木だ。レーニンをケイベツしましたよ。(略) 11月25日の手紙(封書)

ロシヤは驚き桃の木さんしよの木、レーニンを少しばかりケイベツしましたよ。 (絵葉書)

これを読んで、のちに従軍作家になる林芙美子を、やっぱり根からの反動 野郎 尼なんだ!とお思いの方もいるかもしれない。でも、林芙美子は結構、心情左翼であったらしい。やはり、1920年代から1930年代初頭のモダニズム、アナーキズム、共産主義の影響を暗にうけているのであろう。例えば日記(今川英子編集、『林芙美子 巴里の恋』)にはこう書いてある;

四月六日 (水曜日 mercredi

 (略)夜、今泉、白井氏達と支那めしを食ひ、リラで茶を飲む。二人はプロレタリアートのイデーについてギロン噴出一寸ケンアクとなる。妙に胸が詰つた。帰途雨の中を、三人でモンパルナスの墓を歩む。心よし。帰り二時、途中ポオの怪談が出て来て、かへるのが厭だった。

 四月十五日 (金曜日 vendredi

(略)日本のコンミニスト沢山やられたと云うことだ。ブゼンたるものあり、あゝ皆々元気で仕事をしてゐるのに、私ばかりブラブラ遊んでゐる困ったことだ。
夜チエホフを読む。興に乗らざる事おびただしい。手紙数通かく。(略)

さらには、夫あての手紙にはこうある;

井上さんが殺されたそうだが、英国の平和主義者の与論の間には、「日本は大ヤバン国だ」と非常にゲキコウしてゐる。日支問題があるせいだろう。昨日はtラフアルガル広場で、支那コンミンタンのデモストレーションがあった。日本の浸[侵]りやく主義フアシズムもいいかげんにしないと、カイゼルの徹 [轍] を踏む。外国もそう甘くはない。満洲まではいいが上海は、仲々注目のまとらしい。 (1932年2月14日に書いた手紙)

林芙美子はロンドンに行ったとき、なぜかしら、マルクスの墓に行っている。今、自分がロンドンに行ったとき、マルクスの墓にどうやっていくかという立場になって、ネットで調べてもらえればわかるが、マルクスの墓はそう簡単にいけるところではない。墓地はわかってもその広大な墓地のどこにマルクスの墓があるのか?1932年の情報環境で林芙美子はどうやってマルクスの墓にたどりついたのだろう?おいらは邪推する。左翼の男に連れてってもらったんだよ。

なお、上記4月6日の白井氏とは、白井晟一のことで、林芙美子(人妻)とパリで恋仲であったことは公知となっている(今川英子編集、『林芙美子 巴里の恋』)。その白井晟一は、1932-33年にヨーロッパからの帰途、モスクワに1年滞在、ソ連に帰化しようとしたが叶わず帰国したとされている。帰国後、昭和研究会。

林芙美子は1931年にこう書いた;

ロシヤは、どうして機械工業ばかり手にかけて、内輪の物資を豊かにしないのでせうか、悪く云えば、三等列車のプロレタリヤは皆、ガツガツ飢ゑてゐるやうでした。

そして、高杉一郎は、1956年にこう書いた;

 八月二十三日の朝、私たちはソヴェト軍の命令で、ハルビン市を去り、香坊にむかった。その舗装された坦々たる自動車道路のうえで、私たちは巨大なソヴェトの戦車群とすれちがった。それは圧倒的な、抵抗しがたい印象だった。(略)
 ながい戦車の列がようやくつきてしばらくすると、私たちはこんどはソヴェトの歩兵部隊とすれちがった。隊伍を組んでいるソヴェトの部隊を見るのは、これがはじめてだった。しかし、戦車の場合とは反対に、これはまたひどくお粗末だった。坊主頭(囚人部隊か?)のうえにのっている煮しめた雑巾のようなフランコ帽、よれよれのルパーシカ、破れたドタ靴。背嚢も雑嚢もなければ、飯盒や水筒もない。兵器もてんでばらばらで、私たちがマンドリンと名付けた自動小銃もあれば、剣つき歩兵銃やピストルもあるし、全然兵器をもたない手ぶらの兵隊さえかなりたくさんいる。ヨボヨボの老兵もいるかと思えば、ほんの子供もいる。根こそぎ動員以後の水ぶくれした関東軍よりももとお粗悪ではないだろうかという印象を私はうけた。 (高杉一郎、「関東軍の最後  ひとりの証人として」、『ザメンホフの家族たち』収録)

 林芙美子の眼識をみよ!

● まとめ

「レーニンを少しばかりケイベツしましたよ」と言った林芙美子はスターリンを知らなかったのだ。


芦ノ湖参り;理想と現実

2015年09月01日 19時27分56秒 | その他


    理想(小田急の広告)               現実(霧雨の芦ノ湖) 富士山も駒ヶ岳も見えず


小田原→強羅→仙郷楼→桃源台・芦ノ湖→箱根園→元箱根-<国道1号>→箱根湯本→小田原 の行程

 週末は箱根に行った。箱根に行くのは10年以上ぶり。芦ノ湖は初めて。十数年前箱根湯本で当時勤めていたブラック・ベンチャーの合宿があった。もっとも箱根湯本に泊まったという記憶はない。その時泊まった宿が皇女和宮ゆかりの宿だったという唯一の記憶で、今、ググったらわかった。その時以来。でも、天気が悪く、何も風景が見れなかった。箱根ロープウエイは大涌谷の水蒸気噴出で休業。バスで遠回りして、芦ノ湖・桃源台へ。雨。何も見えない(最上右図)。バスで箱根園へ。駒ヶ岳へのロープウエイは強風のため休止。箱根園から元箱根へ遊覧船で行く。船からは何も見えない。


箱根登山鉄道


芦ノ湖。 元箱根。

元箱根から箱根湯本までは、伊豆急行の路線バス。これがすごい。国道1号を走るのだが、国道1号の箱根域はlong & windingだけではなく、up-downも付加される。ぐりんぐるんバスが走るのだ。運転手さんは身体を振って、ハンドル回しまくりである。片側一車線。一寸でもしくじると、脱輪、あるいは、対向車との接触。そして、またもや、思い出した。おいらは西暦2000年頃この峠を自家用車で越えたことを。京都から東京まで国道1号を走りぬこうとがんばったのだ。真っ暗な時間帯だった。おいらの車は当時で生産後15年くらいの7代目スカイライン。もちろん、ミッション(マニュアル車)。当時はもう時代遅れで、足回りが甘く、カーブを廻る時は相当スピードを殺さなければならず、随分、神経を使ったことを思い出した。特にくだり坂の急カーブはびびった。

バスに乗っていると次の停留所を告げるアナウンスが「曽我兄弟の墓」と言った。なんだ!それ?「曽我兄弟の墓」。知らないよ、曽我兄弟。バス車内の掲示板の画像はデジカメで撮れた。でも、思いがけず、バスの窓から見えた「曽我兄弟の墓」そのものはシャッターチャンスを失った。

⇒ google [曽我兄弟]


小田原の宿から相模湾を望む

● 追記; 2005年8月、上記思い出話と別途箱根-芦ノ湖に行っていた。ブログに記録してあった(→愚記事:箱根ドライブ)。やはり、忘備は重要なのだ。