いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

江藤淳、『日本と私』

2009年12月27日 10時35分01秒 | 日本事情


- 今朝の筑波山麓 -

江藤淳コレクション〈2〉エセー (ちくま学芸文庫)(Amazon)に収録された「日本と私」を読む。この「日本と私」は1967年の1月から3月まで「朝日ジャーナル」に連載されたもの。その後、江藤自身の決断で、お蔵入りしていた。その「日本と私」が2001年出版の上記"江藤淳コレクション〈2〉エセー (ちくま学芸文庫)"に入っているとのこと。編者は福田和也。これらのことを猫猫センセのブログ(2009-12-17 江藤淳の暗さおよび、2009-12-18 江藤淳・続き)で知る。知らなかった。あわてて、購う。江藤淳が、東京オリンピック開催直前の東京に、プリンストンの2年の滞在からから帰国した際の記録。

なお、猫猫センセは、江藤淳が夫人を殴ったことが書いてある「日本と私」を読んだ。これは1967年に三カ月『朝日ジャーナル』に連載され、中断したもので、単行本に収められていないのみか、自筆年譜からも抹消されていたと書いているが(2009-12-17 江藤淳の暗さ)、河出書房新社の「新編 江藤淳文学集成 5 思索・随想集」の著者自筆による年譜において、昭和41年(一九六六)三十三歳の項で"十二月、「朝日ジャーナル」に『日本と私』の連載を開始す。十二回を以て一旦擱筆す"とちゃんと書いてある。したがって、猫猫センセが書いている"自筆年譜からも抹消されていた"というのは間違いである。

■<細江英公>
『日本と私』の冒頭に江藤のポートレートの話が出てくる。摩天楼を背景に江藤を撮影したもの。今回『日本と私』を読んで細江英公が撮影したものと知る。講談社の"江藤淳著作集4"(昭和48年、1973年出版)に載っているこの写真を、がきんちょの頃から目にしてはいたが、その頃古本屋で見た三島由紀夫の写真集『薔薇刑』の細江英公とはきづかなかった。そして何より、1933年生まれの氏は御存命で、活躍中。ブログもある、と知る。

■<"受難する私"を演出する江藤>あるいは、<江藤淳の暗さ>
『日本と私』の基調はこういったものだ;

・ 眼に見えるもの、金で買えるものものが大がかりに建設され、眼に見えぬもの、金では買えないものが渇き、喪われて行く時代。私はいつのまにかそういう時代に突入していた日本に帰って来たのだ。オリンピックの背後で大きな力が働き、人々の心の中のお濠を渇らせ、そこに浮かべられていたボートを干割れさせる時代。「故郷」やそれとつながりを想うことを「感傷的」と考えるほど人間が衰弱してしまった時代。しかし、不思議なことにひとりひとりは衰弱している人間が、集ってさらにおびただしい力を発揮して自己破壊に狂奔している時代。これはどんな思想の力というよりも、日本人の心理に明治以来植えつけられた「近代化」という不思議な情熱の結果であるように私には見えた。それはいいかえれば、外国人に笑われたくない一心から、われとわが身を破壊し、自分ではない者になろうとする情熱だ。だが、そういう場所に「帰ってきた」者はどうしたらいいのだろう?

・ 海老茶色の古ぼけたガウンの裾をなびかせて、ノロノロと便所に出かけ、またノロノロとすりあわせながら帰って来た祖父は、どうもそういう思想
(周囲に自分を主張し、自分の輪郭をはっきりさせること;いか@註)を生きていたような気がする。そして私がこの祖父に似ているとすれば、あらゆることにかかわらず、私はこの日本の社会での「適者」になれそうもないことになる。三十をすぎてはじめてこのことに気がつくとは迂闊な話だ。私はまアそれでもかまわない。しかし私の家族はどうだろう?もし家長が「適者」でないことになれば、彼らには安息はないということになるではないか。

 ―ルサンチマンの噴出を演出―
 プリンストンから東京へ帰って来たあとを記した随筆なのではあるが、過去にさかのぼり、母親が死んだ時のこと、高校卒業時に慶応大学文学部に進学することをばかにされたこと、小学校で小便を漏らしたこと、大学時代に結核が再発したことなどなど、いやというほど自分の不幸を、帰国後の定住先が定まらない不遇の中で、江藤は思いだす。でも、ルサンチマンが噴出するとはいえず、あたかも不遇を記憶から召喚するかのようである。ここで、ルサンチマンとは字義である、再-感受(re-sentiment)に他ならない。

 ―まどろみを踏みにじること、暴力、あるいは気狂い―
 江藤は父親と確執がある、という設定になっている。具体的には江藤の父は夢にまどろむ人間を許せないようである;

 ・「宿題?宿題なら仕方ないが、心にもない気障な文句を書いてはったりするのはやめなさい。だいたいお前が『敬天愛人』というがらだと思うか」
といった。その言葉はどこか私の柔らかい部分に突きささった。


そして、このふみにじりという暴力は連鎖する、しかも抑圧の委譲だ。まどろみが許せない;

・ しかしあるとき便所に起きたついでにのぞくと、弟が義母のふとんのなかにはいってなにか食べているのが見える。
「いつまでもそんなことをしていると大人になれないぞ」
と私がいった。弟が意外にもなにか口答えをし、私がむきになっていいかえした。(中略)
「あなたも小さい子をつかまえてなんです」
と義母がたしなめると、私はもう自分を抑えきれない。私は弟をふとんからひきずり出し殴り、弟が可愛がっていた猫を戸外にほうり出し、自分でも意味のわからないことをわめいている。「気狂い、気狂い!」と弟が泣き叫ぶのがきこえるが、その小さなまるい身体は、まだ私の手にふれている。これが弟か、これがおれの弟か、と思いながら私は息をはずませて殴りつづける。


 ―庶民・職人、特に親方の前では木偶の坊たるインテリ江藤―

 この『日本と私』に限らず超個人主義者ですぐに怒気をみなぎらせいきり立つ江藤は、なぜかしら、職人、特に親方に弱い。帰国後転々とするなかで市川の取り壊された母屋の横の離れに住んでいる時には、地下足袋を履いて働く頭(かしら)とその奥さんにプライバシーを侵犯され、厚かましい温情を押しつけられ、しまいには土地の押し売りまでされるのだが、江藤淳らしくなく、木偶の坊のように甘受している。そして、作り話のようで楽しいのが、この江藤が、つまりは今日現在gooleで江藤淳を引くと何番目かに「江藤淳 保守」と出る江藤淳が、日の丸を押し売りされるのである。そんなの大きなお世話だろうと拒否するわけでもなく、日本国民としての宿命を受けいることであると合理化し、これまた木偶の坊のようにいいなりになり、日の丸を購う。

なんだろう?頭(かしら)の江藤への影響力・神通力って。そういえば、江藤淳は本名を江頭淳夫(えがしらあつお)といったっけ。抜頭(ばっとう)した、頭(かしら)の亡霊なんだべか?こんなところにも晩年に西南戦争、西郷隆盛を書く伏線を埋めんたんだ。というのも、西郷隆盛こそ国家創建の頭(かしら)であって、その非理性的、つまりは狂気、すなわち勝ち目のない戦さによって自分たちを虎に自供養する僧侶かのごとくの歴史の狡知となることによって、明治国家の完成(百姓軍隊の結成)を成し遂げたからだ。西郷を屠る「抜刀隊」は治者に不可欠の手段である。江藤はあつかましい土人の"頭(かしら)"の体験を経て、抜頭=抜刀(西郷・国父殺しの意味)=治者の重要性に経験的に悟ったにちがいない。たぶん、江藤は、市川の家を去るときにはお庭にそっと"藤"の花の苗を仕込んだのだろう。恐るべし、江藤淳。

それにしても、読んでてふきだしちゃったのが、市川の江藤が借りている家屋が突然壊されることになった時の説明記述で、無料で貸してもらっているのだというところ。大丈夫か?江藤。家賃も払ってないのに、愚痴を言うのがおかしいゾ。ちゃんと、最初から金払ってしかるべき賃貸しをかりろよ! 深刻な随筆なのか、笑かしたいのか不明。 だから、お蔵入りしたんだろう。

■<実は、帰国後溌剌と仕事をする江藤>あるいは、<江藤淳の明るさ>
しかしながら、実生活は帰国後、順調であったと傍からは見える。すなわち、「アメリカと私」の連載がすぐに朝日ジャーナルで始まる。(そして、この「日本と私」はこの「アメリカと私」を書いている舞台裏、私生活をこれまた朝日ジャーナルに上述の期間連載した。ただし、未完とのこと。)一方、雑誌「中央公論」(『中央公論』1964年10月号)における特集・戦後日本を創った代表論文の選定を、桑原武夫、猪木正道、永井道雄などの大御所らに交じり、たぶん最年少の選者として、行っている。
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●そして、江藤淳マニアに贈る、最近公知になった、江藤淳目撃情報;

今年出版された本、今野浩、『すべて僕に任せてください―東工大モーレツ天才助教授の悲劇』にある;

・ 吉田教授と江藤教授が犬猿の仲であることは、はじめから知っていた。これは保守本流同士の確執である。一方、永井(陽之助)教授と江藤教授の折り合いの悪さも半端ではなかった。江藤教授を口説いて連れてきたのは永井教授だが、文学が専門だったはずの江藤教授が領空侵犯して、政治問題に口を出すようになって以来、衝突を繰り返していた。

・ 一方白川は、文系教官集団を「びっくり箱」と呼んでいた。白川にとって、彼らは完全なエイリアンであった。私も赴任当初は、文系教授たちの生態を見て驚いたものだ。筑波でも多数の変人たちを見てきたが、理系の変人たちは文系の変人に比べれば遥かに可愛らしかった。 
 しかし文系の変人は一筋縄ではいかない。その代表は論壇のエース江藤淳教授である。そこで1ダース余りの逸話の中から、比較的正常なものを2つ紹介しよう。
 その1.学科主任を引受けるにあたって、吉田教授と"手打ち"をするので同席して欲しいと頼まれて出席したところ、会場の向島の「亀清」なる高級料亭で、6人の教官に1人ずつきれいどころがついた。どんな料理が出てきたのか記憶がないが、忘れられないのは、翌日送られてきた21万円也の領収証の写しである。これを6で割って3万5千円を支払わされた私は、このうち少なくとも2万円は江藤教授が負担すべきと考えた。なぜなら誰も、芸妓をよんでほしいと頼んだおぼえはないからである。
 その2.念願の鎌倉に自宅を構えたあと、市役所の役人の勤務実態に憤慨し、週刊誌でその実態を告発したことがあった。12時に職場を抜け出して、昼食を取る職員が多いのはけしからんというのである。
 東工大の教授はほとんど、朝から晩まで研究室に張り付いているから、ウイークデーの昼間に市役所で見張りをしている暇はない。学内では、他人の勤務実態はともかく、自分はどうなんだという声が多かったが、本人は"人間と社会を観察して、それを文章にするのが文学者の仕事だ"と反論した。



*1
猫を償うに猫をもってせよ のコピペ(あの人間違いをこっそり削るから保存、北海道空襲はなかったも消されてるしね。)
2009-12-17 江藤淳の暗さ

 江藤淳が夫人を殴ったことが書いてある「日本と私」を読んだ。これは1967年に三カ月『朝日ジャーナル』に連載され、中断したもので、単行本に収められていないのみか、自筆年譜からも抹消されていた。2001年にちくま学芸文庫『江藤淳コレクション』2に入ったのだが、180ページとかなりの分量がある。

 先日来、中島ギドー『ウィーン家族』とか仲正昌樹『Nの肖像』とかを読んで来て、やはり江藤が自殺しているということもあって、これがいちばん不気味だった。これは64年の米国からの帰国から、65年の山川方夫の事故死までを描いており、なぜか山川が「Y」という具合に、みなイニシャルで書かれている。

 私は修士論文を書いたころちょっとした江藤淳マニアで、古書店で『夜の紅茶』『こもんせんす』とか、果ては全四巻の『江藤淳対話集成』まで買い込んでいたのだが、これと『三匹の犬たち』とか『一族再会』とか、江藤が身辺や家族のことを書いた随筆は、いずれも独特の暗欝さを持っていて、何ともやりきれず、『夜の紅茶』と『こもんせんす』は売ってしまった。

 死して十年、「江藤淳論」は書かれているがまだ伝記はない。江藤はかなり詳しく自分について語る人だが、その割に隠されていることも多く、「日本と私」が未完とはいえ単行本に入らなかったのもそのせいだろう。妻を痣ができるほど殴り、しかもその間犬が吠えかかったというから、何度も殴ったことになるが、それは山川が交通事故に会う前日なので、2月18日の夜のことだ。だがその原因は書かれていない。昼間は二人でミュージカル映画を観に行き、江藤が大声をあげて笑っていたのに、映画館を出てみると妻は疲れ切った顔をしていたという。

 ここに描かれていることで一番大きいのは、実父との複雑な関係である。江藤は幼くして実母を亡くし、父は再婚して弟妹が生まれている。そのことが複雑さを招いているのだろうが、それを江藤は全的には語らない。父を憎んでいるというのでもなく、疎ましく思っているふうに描かれている。それはまるで、『成熟と喪失』の、子が成長して旅立っていくのを嫌がる母のようなのである。かといって、父が江藤をかわいがったというのでもない。さらに江藤は、義母に対する感情をほとんど描いていないから、余計に分からない。

 江藤の妻は、病弱なのか、『アメリカと私』で、米国到着後いきなり激しい腹痛に襲われるさまが描かれていたが、その後もそういうことがあったようで、帰国後も蕁麻疹や霜焼けに悩んでいる。江藤はずいぶん若くして、同年の妻と結婚しているが、その経緯が描かれたのはまだ読んだことがない。夫人は慶大卒業後、高校教師でもしていたのだったろうか。ここで江藤は、カネがないことを憂えていて、それだけならほかの文学者にもあることだ。だが不思議なのは、夫人が働くという話がまったく出ないことである。江藤はここで、夫人が割烹着を着て働いていることが嬉しいと書いているから、江藤の意向だったのだろうか。

 幼くして実母を亡くし、義母が来たといえば、志賀直哉がいる。しかし志賀と江藤は、何かひどく対極的である。鶴田欣也もそうだが、これは米国留学中に父を失っている。江藤は家に住むための借金の保証人を、嫌々ながら父に頼む。ここで、夫人の父に頼む、という発想はないようだ。夫人の父は関東州長官だった三浦直助である。江藤はこの人のことも書かない。江藤が描く夫人は、まるで孤児のようだ。江藤夫人の母親も戦後49年、夫人が中学生のころ死去して父は後妻を迎えているから、江藤と似た境遇ということになるが、江藤のように後妻に弟妹ができたというのではないようだ。

 江藤は慶大時代、西脇順三郎に嫌われたというが、教師が学生を嫌うといっても、その嫌い方はすさまじく、いったい江藤に何があったのかと思うほどである。

 全体として、江藤は、戦前的な家長として振舞おうとしている。その一方で、近代的な個人であろうともしている。家族が鬱陶しいというのは誰しも感じることだが、やはりこの場合、夫婦ともに実母がいないということが、ある陰惨さの理由であろう。 



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2 コメント

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Unknown (海坂)
2012-04-21 21:11:02
 こんにちは。江藤淳は私も以前ちょっと読んだので、この記事は懐かしかったです。私の場合は堀辰雄との絡みでした。昔は表面的に堀辰雄の方に心酔していたのですけども、江藤の暴露(と言いたくなるほど執拗な)を読んで混乱したというか、文学そのものの抱える闇という風なものを漠然と感じたのでした。
 その後、さらに江藤その人のエッセイをちょっと読んで、なるほどこの人はそんな訳で堀を許せなかったのかと判ったような気がして、いよいよ文学者とその仕事というのは大変なものだなあと思ったのでした。勝手な書き込み失礼しました。
堀辰雄を耽読していた江藤 (いか@)
2012-04-23 04:03:21
海坂さん

コメントありがとうございます。

江藤の堀論とは、『昭和の文人』の文章ですね。

この中で、江藤は自分自身「ある時期堀辰雄を耽読していた」といっています。

そして、「偽画」と気付いた、と。

でも、おいらはこの江藤の堀論は深い次元での肯定だと思っています。別に江藤は堀の悪口をいいたかったわけではない。あたりまえだが。

別に"嘘"、意図的な重要事項秘匿が悪いと批判しているわけではない。むしろ、"嘘"をついてまで、事実と異なる、あるいは、"誤った"情報を世間に与え、世人を操作する表現作品とは何だろう?という指摘である(http://blog.goo.ne.jp/ikagenki/e/32e32ed81e4c88dd3ae573dc6aca23ec)。

そういう"誤った"情報を世間に与え、世人を操作する表現作品が出現したのが昭和。そして、その精神が日に日に増大していえると江藤は指摘いるのでしょう。

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