いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

老舎生誕120年;1965年滞日1か月、幻の公安-警察文書

2019年02月04日 19時13分40秒 | 中国出張/遊興/中国事情


https://twitter.com/CGTNOfficial/status/1091954438153981952

ツイッターで知った。昨日2/3は老舎の誕生日で、今年は生誕120年。

なので、誰も指摘しない老舎に関すること(与太)を書く。

老舎研究に役立つはずの日本の公安情報が眠っているのではないかという指摘。

老舎は1965年3月24日に来日し、1カ月日本に滞在した。(わかる範囲では)仙台に行ったり、谷崎潤一郎(画像2)[1]に会ったりした。


滞日中、乾杯をする老舎 (老舎記念館の展示;愚記事より)


図2
[1] 1965年4月7日、谷崎潤一郎氏と松子夫人は、熱海の自宅で老舎(左端)、劉白羽(右端)に会った。(愚記事

さて、老舎の滞日詳細を記した文書があるはずである。公安―警察関係機関にである。なぜなら、当時、日本は中共と国交がなく、事実上の敵対国であった。前年1964年の東京オリンピックの頃、当然参加しない中共は核実験を行った。極論すれば、当時の中共は今の北朝鮮みたいなものである。その中共からの訪問団(老舎は中国作家グループとして、文化交流の建前で来日した)であるから、公安―警察関係機関は終始「監視」していたに違いない。

これは、敵対的であるからという動機もあるし、同時に日本の反中勢力によるテロを防がなくてはいけない任務もあった。そして、もっとも重要な公安―警察関係機関の関心事は老舎ら中国作家グループが会う日本人グループである。日本国内の中共派が老舎ら中国作家グループと会う可能性がある。

実際に老舎ら中国作家グループが対日工作をしたとは思えないが、公安―警察関係機関はお仕事なので、終始「監視」し、報告書を書いていたに違いない。老舎の滞日詳細、すなわち、老舎がどこに行って、誰に会って、そして、何を食べたかまで、あらゆる情報が記載されているに違いない。

老舎の年譜作成にはとても役立つ情報だろう。

ただし、この報告書は、日の目を見るとは思えない。

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