よしなごと徒然草: まつしたヒロのブログ 

自転車XアウトドアX健康法Xなど綴る雑談メモ by 松下博宣

プロダクトとサービスの位相、あるいは交換と贈与

2010年03月09日 | 技術経営MOT
雑念する「からだ」というサイトをリファーしてちょこっとノート。

<以下貼付け>

『交換の場合には、商品とそれを売る商人とのあいだには、 何の人格的絆もありません。またそういう商品をなかだちにして売り手と買い手が交換をおこなったとしても、 ここでも何の人格的関係も発生しません。

つまり交換は物と人、人と人とを分離する働きがあるわけです。「贈与の環が動くとき霊力が動く」 という古い表現には、贈与物が移動をおこすとそれにつれて高次元的な流動する力まで動き始め、 社会全体に停滞を打ち破る流動が発生するという感覚がこめられていたものですが、交換の場合にはこういうことはおこりません。 交換にはエモーションが介在する必要がありません。それはいたってクールな経済活動なのです。

そのかわり、私たちの生きている資本主義社会のような「巨大な商品の集積としてつくられている社会」(マルクス)では、 面倒くさい物と人との人格的絆などから解放されたおびただしい量の商品が、社会の表面を勢いよく流通していくことによって、「魂の流動」 ならぬ「富の流動」がおこっているように感じられます。贈与的社会では魂が、資本主義社会では物質化された富が流動することによって、 それぞれの社会は活気づけられているわけです。』

(中沢新一『対称性人類学』、講談社選書メチエ、2004、p96)

<以上貼付け>

上記の中沢さんの記述では、「贈与的社会では魂が、資本主義社会では物質化された富が流動する」とあるが、ここをもうちょっと深く紡ぐと、「贈与社会では物質の位相に霊魂が埋込まれ、霊魂をともなった物質が流動する。資本主義社会では、脱霊化された物質が流動する」とでも言いたいところだ。

さて、交換には物と人、人と人とを分離するはたらきがあるが、サービスには物と人、人と人を絡みつけ結びつけるはたらきがある。このような意味あいにおいて、贈与的社会は、サービス・セントリックな社会で、資本主義社会は、プロダクト・セントリックな社会なのだろう。

資本主義はなんでも交換の対象にするので、サービスも市場化される軌道に乗ってきた。サービスの脱人格化と物象化がここでは亢進する。しかし、どうしても脱人格化して物象化できないサービスも歴然として存在する。宗教的サービス(ritual service)などが典型だろう。

そのような含意の痕跡がserviceという言葉には刻印されている。Oxford English Dictionaryによればserviceには掲載順位は13番目と低いが、「服従、敬虔さ、善行によって(神に)仕えること、The serving (God) by obedience, piety and good works」とある。

このようにserviceというタームの奥深いところにはセム的一神教の精神的伝統があるが、ユーラシアの東の果ての日本には多様な宗教的な伝統が多層、多元、多神的に輻輳化しており、特殊な宗教的ヒューマン・サービスの系譜もある。

サービス・イノベーションには2つの方向性があるのだろう。

ひとつめは、サービスの脱人格化と物象化を徹底的に進め交換可能な「財」として市場化させてゆくアプローチ。ふたつめは、サービスを財としてではなく、「贈与の環の場」とでも見立てるようなアプローチ。これらを混交させる行き方とてあるだろう。

「人の生き、死に」に深く関る医療サービスにはどのようなアプローチが必要なのか??たぶん、前者のみでは大切なものを置き去りにしてしまうのだろう。

サービスの共創生、共進性、贈与性、互酬性

2010年03月08日 | 技術経営MOT
サービスについてはいろいろな定義がある。

「サービスとは、無形でありサービス提供者と消費者の相互作用を必要とするあらゆる経済活動 」(ローイ)

「サービスとは、人や組織がその目的を達成するために必要な活動を支援することである 」(故・亀岡先生@JAIST)

「サービスとは、価値を創造し取得する、提供者と顧客の相互作用である」(IBM)

「サービスとは、他者に対して提供される活動もしくは便益であり、本質的に無形で、購入者に所有権を一切もたらさないもの 」(Kotler)

2008年度「通商白書」 によれば、わが国では製造業の労働生産性を1 としたときにサービス業のそれは0.616 。同様の比率は、アメリカ0.919、イギリス0.760、ドイツ0.938、フランス0.974 。だから、サービスにはイノベーションが必要だとする論法がある。もっともな主張だ。サービスを交換の対象とする財にして市場化してゆけばたぶん生産性は上がる。だからサービス・イノベーションとは、サービスの合理化=市場化という側面がついてまわる。

サービスには共創性(co-creation)、共進性(co-evolution)という性格があると同時に、サービスには贈与性や互酬性が埋め込まれていることにも注意しなければならない。医療サービス、福祉サービスはとくにそうだ。医療や福祉では、「お互い様」、「みんなで助け合う」、「みんなで分け合う」、「明日は我が身」という共同体的な絆や規範といったものが根底にあり、たんに市場で一回性のサービス財を交換しているわけではない。社会との関係性の中で、あるいは共同体の一員として相互に関係しながら、これらの「サービスの場」に身を置いているはずだ。

見方によっては、低い生産性は、非市場的にサービスを位置づけてきた証なのかもしれない。つまり、社会イノベーションや医療サービスを議論するときの「構え」が問われるのだ。(1)徹底して市場化して効率、生産性を高めるようなイノベーションを推進する。あるいは、(2)効率、生産性といった規準を横においておき、社会の福利を重視するイノベーションを進める。

(1)はアメリカのやり方。(2)は大きな政府、ばらまき福祉につながる危険性多し。だだし、財源逼迫でできないのだが。さて、日本の選択は?

(1)or (2)ではない。(1)and (2)だから、ことはややこしいのだ。さて、ここで自分たちを映し出す鏡が必要となる。ここで発想の展開!案外、贈与と交換が混交するイスラーム的市場のありかたが参考になるのかもしれない。公的な保険サービスはどのような契約なのだろうか。興味は尽きない。

イスラームでは医療、福祉サービスはどのようなスキームで社会に根づいているのだろう。コーネルの医療経営大学院にはパキスタン、マレーシア、ヨルダン、インドネシアから勉強に来ていたムスリムが多数いた。彼らは、医療の多くの部分を市場原理の上に置いているアメリカ医療に批判的ながらも、それぞれの国や地域の医療サービスの効率化のためも、アメリカ的管理医療やHealthcare researchの方法の習得に余念がなかった。OB/G会があれば、いろんな議論をしたいのだが・・・。

惜しむらくは、医療経済制度比較論(Comparative Health Economics and Institutions)は、アメリカ、欧州、たまに日本を比較はするが、イスラームの医療サービスまでは比較の対象にするのは稀だ。

「イスラーム的経営」の地平線

2010年03月07日 | No Book, No Life


日本的経営は他の「○○的経営」と相対化しないと話は始まらない。社会的企業を研究している研究者のSさんと先だって会って櫻井秀子氏を紹介された。話してみるとSさんは僕がいた同じ年の夏、コーネル大学で過したという。でも彼女のことを知らなったのは、僕はその年の夏はフィンランドへフィールド調査にでかけていたからだ。

ちなみにSさんや僕がアメリカの東海岸にいた頃(80年代後半)、櫻井秀子氏はイランの王立人文科学研究所に留学。う~ん、かくも対蹠的。この時代、経営学専攻の人がイランへ留学していたとは寡聞にして知らなかった・・・。

彼女の著書、「イスラーム金融」をさっそく取り寄せて一読。イスラーム金融という題名ではあるが、その中身は、イスラーム経営を鏡として相対化させる「日本的経営・再考」とでもいってよいだろう。

経営学専攻の著者ではあるが、濃密な文体の随所に味わい深い思索を漂わせるこの本をきちんと読むには比較宗教学の基礎知識は必要だろう。

多くの研究者は日本的経営を、欧・米のそれらと比較して相対化して議論してきた。大枠は、(1)日本人研究者が、欧米のフレームで日本的経営を議論する。(2)あるいは、欧米人研究者が、彼らのフレームを使って日本的経営を分析する。

古くはドイツで興隆した経済経営学、1960年代以降はアメリカ経営学。当地へ留学して先進的な理論やモデルを体得して帰国後、それらの成果を翻訳するというパターン。これらの作業により膨大な知的資産が蓄積されてきた。

これらの基盤の上に、(1)としての日本経営学は立っている。JCアベグレンを嚆矢とする日本経営研究が(2)の系譜である。(1)と(2)の比較は相乗効果をもたらし、知的刺激に満ちた議論が展開されてきている。

新しい人的資源論も比較宗教学、健康科学などの人文の知見を摂取しながら、これらの系譜の上に構築されると面白いだろう。

自然現象を説明する原理、定理、公理などを発見してゆく物理学のような自然科学と異なった方向性を社会科学としての経営学は持っている。そのひとつを「現象への介入志向」と呼んでいる。「現象の介入志向」が強い学問としては工学、医学、看護学などがある。介入には、操作、用具の開発と応用、設計、デザインなども含まれる。

眼前の経営現象に対してどんな介入、操作をしたら収益が改善するのか?どのように組織を設計したらいいのか?顧客を獲得出来るのか?社員のやる気を引き出すことができるのか?画期的な技術を開発して、知的財産権を確立して技術を製品化し、競争戦略をより優位に遂行してゆくのか?

多くの場合、これらの問に対して提供されるのは、方法論、ツール、ソリューション。提供するセクターはコンサルティング業界。この界隈にはヨコモジ3文字があふれている。

ちょっと思い浮かべても:
MBO(マネジメント・バイ・オブジェクティブ)、BSC(バランス・スコア・カード)、CRM(カスタマー・リレーション・マネジメント)、ABM(アクティビティ・ベースト・マネジメント)、SCM(サプライ・チェーン・マネジメント) VCM(バリュー・チェーン・マネジメント)、SDM(ストラテジク・デシジョン・メーキング)、OTM(ワン・ツー・ワン・マーケティング)など。

このように圧倒的に欧米からの輸入が中心。ここでの議論はこれらのツール群を捨象する。

さて、ここにきて、日本経営を相対化する鏡として従来の欧米の経営だけではまったく十分でなくなってきた。もちろん欧米をいっしょくたに議論するのではなく、欧州にもライン川の東西やUKでは顕著に経営スタイルは違うし、同じアングロサクソン系でもイギリスと米国は異なる。また、米国の金融や覇権産業では、ユダヤ人コミュニティが収斂しているので、米国の経営をアングロサクソンの脈絡のみで分析するのは間違いだ。

ポストグローバル金融市場主義を構想するにあたり、相対化する鏡としてイスラーム経営は必須だろう。

イスラーム経営とは?イスラーム共同体をつらぬくシャリーア(イスラム法)を具体化する営みとしての経営。互恵、相酬、相互補助、相互援助の共同体志向を根源に持つイスラム経営は、本質的に市場での交換、市場主義に制限を掛けている。貨幣の利用にも制限。利子の活用にも制約。現下日本では「社会的企業」の議論がにわかに起こっているが、イスラームには「社会的企業」なる概念は存在しない。なぜなら、すべてのイスラーム企業はア・プリオリに「社会的」なのだから。

近代的な「個」を前提とする(市場)交換と、共同体を基礎とする贈与の関係とが、バランスをとり共存するシステムとしてイスラーム経営は運営される。イスラーム経営とはイスラーム企業にのみ適用されるものではない。家庭、企業、コミュニティ、産業、政策にまで通底する概念。

ちなみに、他の先進国のご多分にもれず、日本でも経済駆動力は、モノ→エネルギー→情報→サービスと遷移しているのでイノベーション研究もサービスを対象にするようになっている。

サービスには贈与・互酬性が埋め込まれているので交換主体の市場原理だけでは説明がつかない。特に医療サービスには、共同体を基礎とする贈与の関係が根づいている。ここで問題なのは、「共同体」が希薄になってきており、医療はどんどん市場化してきたということ。

イスラーム経営を分析する過程で、グローバル金融経営の性質も浮き彫りになってこよう。これを論ずるのは気が重くなるが・・・。グローバル金融市場主義のデキモノのようなユダヤ金融経営。古代世界の常識だった霊魂を否定するという心象は、唯物的で合理的なユダヤ気質の発露。寄留者(ゲール)だった長い深層心理に随伴する「寄留性」が金融業で大規模にかつ戦略的に発揮され、市場に寄留して利益を簒奪するユダヤ人・・・というようなステレオタイプ(一歩あやまると叛知性的な通俗陰謀論などになりやすい!)に嵌らないようなリーズナブルな議論が必要だ。この件は、以前にちょっと書いたことがあるのだが・・・。

もっともムハンマドがメッカを逃れてメジナで政治的=経済的=軍事的=宗教的な活動を初めてからも彼は、ユダヤ・コミュニティにはほとほと手を焼いていた。リバー(金利)によって生きる民族とリバーを真っ向から否定するムハンマドの教えは対蹠的。実はこの先鋭にして対蹠的な関係は現代にも顕れているのだが・・・。

きちんとした議論をするためにも、イスラーム経営研究は、ぜひとも必要な研究ジャンルだ。そろそろ経営学にも井筒俊彦が行った「共時的構造化」が必要かも笑)。

いっちょ取り組むか。


サービス・イノベーションの経営学(3)

2010年03月02日 | 技術経営MOT


2010年03月号 (通常号) ( Vol.20 No.3) 

3回目は、「医療保険・医療供給システムに見るサービス疲労」p244~

書いているうちに、いろいろ考えさせられました。

今回は、健康基盤としての医療政策の話です。健全な経営を維持し,良質のサービスを提供することのアイディアに繋がればいいと思います。