よしなごと徒然草: まつしたヒロのブログ 

自転車XアウトドアX健康法Xなど綴る雑談メモ by 松下博宣

「イスラーム的経営」の地平線

2010年03月07日 | No Book, No Life


日本的経営は他の「○○的経営」と相対化しないと話は始まらない。社会的企業を研究している研究者のSさんと先だって会って櫻井秀子氏を紹介された。話してみるとSさんは僕がいた同じ年の夏、コーネル大学で過したという。でも彼女のことを知らなったのは、僕はその年の夏はフィンランドへフィールド調査にでかけていたからだ。

ちなみにSさんや僕がアメリカの東海岸にいた頃(80年代後半)、櫻井秀子氏はイランの王立人文科学研究所に留学。う~ん、かくも対蹠的。この時代、経営学専攻の人がイランへ留学していたとは寡聞にして知らなかった・・・。

彼女の著書、「イスラーム金融」をさっそく取り寄せて一読。イスラーム金融という題名ではあるが、その中身は、イスラーム経営を鏡として相対化させる「日本的経営・再考」とでもいってよいだろう。

経営学専攻の著者ではあるが、濃密な文体の随所に味わい深い思索を漂わせるこの本をきちんと読むには比較宗教学の基礎知識は必要だろう。

多くの研究者は日本的経営を、欧・米のそれらと比較して相対化して議論してきた。大枠は、(1)日本人研究者が、欧米のフレームで日本的経営を議論する。(2)あるいは、欧米人研究者が、彼らのフレームを使って日本的経営を分析する。

古くはドイツで興隆した経済経営学、1960年代以降はアメリカ経営学。当地へ留学して先進的な理論やモデルを体得して帰国後、それらの成果を翻訳するというパターン。これらの作業により膨大な知的資産が蓄積されてきた。

これらの基盤の上に、(1)としての日本経営学は立っている。JCアベグレンを嚆矢とする日本経営研究が(2)の系譜である。(1)と(2)の比較は相乗効果をもたらし、知的刺激に満ちた議論が展開されてきている。

新しい人的資源論も比較宗教学、健康科学などの人文の知見を摂取しながら、これらの系譜の上に構築されると面白いだろう。

自然現象を説明する原理、定理、公理などを発見してゆく物理学のような自然科学と異なった方向性を社会科学としての経営学は持っている。そのひとつを「現象への介入志向」と呼んでいる。「現象の介入志向」が強い学問としては工学、医学、看護学などがある。介入には、操作、用具の開発と応用、設計、デザインなども含まれる。

眼前の経営現象に対してどんな介入、操作をしたら収益が改善するのか?どのように組織を設計したらいいのか?顧客を獲得出来るのか?社員のやる気を引き出すことができるのか?画期的な技術を開発して、知的財産権を確立して技術を製品化し、競争戦略をより優位に遂行してゆくのか?

多くの場合、これらの問に対して提供されるのは、方法論、ツール、ソリューション。提供するセクターはコンサルティング業界。この界隈にはヨコモジ3文字があふれている。

ちょっと思い浮かべても:
MBO(マネジメント・バイ・オブジェクティブ)、BSC(バランス・スコア・カード)、CRM(カスタマー・リレーション・マネジメント)、ABM(アクティビティ・ベースト・マネジメント)、SCM(サプライ・チェーン・マネジメント) VCM(バリュー・チェーン・マネジメント)、SDM(ストラテジク・デシジョン・メーキング)、OTM(ワン・ツー・ワン・マーケティング)など。

このように圧倒的に欧米からの輸入が中心。ここでの議論はこれらのツール群を捨象する。

さて、ここにきて、日本経営を相対化する鏡として従来の欧米の経営だけではまったく十分でなくなってきた。もちろん欧米をいっしょくたに議論するのではなく、欧州にもライン川の東西やUKでは顕著に経営スタイルは違うし、同じアングロサクソン系でもイギリスと米国は異なる。また、米国の金融や覇権産業では、ユダヤ人コミュニティが収斂しているので、米国の経営をアングロサクソンの脈絡のみで分析するのは間違いだ。

ポストグローバル金融市場主義を構想するにあたり、相対化する鏡としてイスラーム経営は必須だろう。

イスラーム経営とは?イスラーム共同体をつらぬくシャリーア(イスラム法)を具体化する営みとしての経営。互恵、相酬、相互補助、相互援助の共同体志向を根源に持つイスラム経営は、本質的に市場での交換、市場主義に制限を掛けている。貨幣の利用にも制限。利子の活用にも制約。現下日本では「社会的企業」の議論がにわかに起こっているが、イスラームには「社会的企業」なる概念は存在しない。なぜなら、すべてのイスラーム企業はア・プリオリに「社会的」なのだから。

近代的な「個」を前提とする(市場)交換と、共同体を基礎とする贈与の関係とが、バランスをとり共存するシステムとしてイスラーム経営は運営される。イスラーム経営とはイスラーム企業にのみ適用されるものではない。家庭、企業、コミュニティ、産業、政策にまで通底する概念。

ちなみに、他の先進国のご多分にもれず、日本でも経済駆動力は、モノ→エネルギー→情報→サービスと遷移しているのでイノベーション研究もサービスを対象にするようになっている。

サービスには贈与・互酬性が埋め込まれているので交換主体の市場原理だけでは説明がつかない。特に医療サービスには、共同体を基礎とする贈与の関係が根づいている。ここで問題なのは、「共同体」が希薄になってきており、医療はどんどん市場化してきたということ。

イスラーム経営を分析する過程で、グローバル金融経営の性質も浮き彫りになってこよう。これを論ずるのは気が重くなるが・・・。グローバル金融市場主義のデキモノのようなユダヤ金融経営。古代世界の常識だった霊魂を否定するという心象は、唯物的で合理的なユダヤ気質の発露。寄留者(ゲール)だった長い深層心理に随伴する「寄留性」が金融業で大規模にかつ戦略的に発揮され、市場に寄留して利益を簒奪するユダヤ人・・・というようなステレオタイプ(一歩あやまると叛知性的な通俗陰謀論などになりやすい!)に嵌らないようなリーズナブルな議論が必要だ。この件は、以前にちょっと書いたことがあるのだが・・・。

もっともムハンマドがメッカを逃れてメジナで政治的=経済的=軍事的=宗教的な活動を初めてからも彼は、ユダヤ・コミュニティにはほとほと手を焼いていた。リバー(金利)によって生きる民族とリバーを真っ向から否定するムハンマドの教えは対蹠的。実はこの先鋭にして対蹠的な関係は現代にも顕れているのだが・・・。

きちんとした議論をするためにも、イスラーム経営研究は、ぜひとも必要な研究ジャンルだ。そろそろ経営学にも井筒俊彦が行った「共時的構造化」が必要かも笑)。

いっちょ取り組むか。