よしなごと徒然草: まつしたヒロのブログ 

自転車XアウトドアX健康法Xなど綴る雑談メモ by 松下博宣

SugarCRM御一行とブレインストーミング&密談

2006年09月11日 | オープンソース物語
パートナーのSugarCRMから特命ミッションがケアブレインズを訪れた。マークとジェフ。朝から晩まで話は尽きず。

彼らにとって、日本のIT産業、特にメーカー主導の長いチェーンバリューは奇異に写る。系列という名のジャパニーズ・グルーピズムは相互互恵というよりは閉じた利益共同体か。

いずれにせよ、彼らとの議論は話が早い。日本の大手企業と日本語で議論するより、遥かに議論ははかどる。不思議な気持ちだ。日本語で語り合っても我らケアブレインズのスピード感覚とベリー・ジャパニーズ・カンパニーズのスピード感覚との間には、埋めることのできないようなギャップがある。

でもSugarCRMとケアブレインズは同じスピード感覚で議論できるのがうれしい。全うな議論をするには共通のゴールと議論のマナー(共通のロジックを基礎に置くダイアログ)が必要だ。以心伝心や阿吽の呼吸といった和風コミュニケーションではやっていられない。

今日のセッションは総勢5人。SugarCRMから幹部2人、ケアブレインズから幹部3人。このチームは議論におけるプラグマティズムを共有している。無益な議論はなにも生まないが、いい議論には必ず明確なアウトプット=成果物がある、また、なければいけない。こうしたスピリットこそが生産的な議論を生むのだと思う。

かれら曰く、これまでアウトプット=成果物マインドが希薄な日本企業がこぞってSugarCRMを訪れて、無益なレクチャーに終始したそうな。ご苦労様でした、としかいいようがない。「本件は日本の本社に持ち帰り、報告のうえ、上司の判断を仰ぎつつ、適切に対処したいと思います」という言葉は、結局、"wait and see"と「なにもしない」という表現の薄っぺらな言い換えなのだ。

典型的な日本のIT企業に必要なものは英語教育ではなく、対話のスピリット、プラグマティックな議論の仕方じゃないのか?ナマ身の人間による五感を総動員するリアルなコミュニケーションこそが、もっとも贅沢なコミュニケーション。その贅沢さをしかと賞味するためには、それなりの方法論が必要だと痛感する。ヒューマン・レイヤーにおけるサービス・サイエンスは、古くはプラトンの対話に淵源を発するが、それが難解ならば、近年のディベートにもよく顕われている。

いずれにせよ、我々はアジェンダを共有した上で、生産的な高い濃度のディスカッションを本能的に好む。生産的ななにかを現実的に生む議論は気持ちのいいものだ。ついで夜のセッションも極めて生産的なものだった。(企業秘密なのでここでは書けないが)






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4 コメント

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対話スピリッツ (麻生川静男)
2006-10-07 18:34:23
日本人の対話スピリッツのなさは、松下氏の指摘するように日本のベンチャー企業に必要だ。これは根深い現象であるが必ずしも解決できない類の問題でないと私は考えている。



少し長くなるが、歴史的事実から説き起こしてみよう。初代のアメリカ公使タウンゼント・ハリスは幕末に来日し日本の平和的開国に非常に尽力した人である。ハリスはわずか6年しか日本に滞在しなかったが、日米修好通商条約を締結するなど、時代を大きく転換するのに多大な寄与をした。そのハリスが日本を去るに当たって、外交交渉ではたびたび意見の対立で険悪な仲にもなったことのある幕府の閣老・安藤対馬守は彼の業績にたいして、『貴下の偉大な功績に対して何を以って報ゆべきか。これに足るものはただ富士山あるのみ』と絶賛の謝辞を贈ったといわれている。(岩波文庫、『日本滞在記』)



この『日本滞在記』を読んでみると、初めのころはどこに行くにも幕府の目付けがあたかもスパイの如く(というより正真正銘のスパイとして)ハリスの行動を付回していて、ハリスがアタマにきていたことがよくわかる。日本の伝統的思考に凝り固まっていた幕府の役人にとっては彼を監視することこそが国益を守ることの如く錯覚していたのであった。しかしその内に、安藤対馬などの開明的官僚が彼の言論の本質を理解するにつれ、自分達の考えの狭量さに気づき態度を改め、最後にはハリスに大いに感謝するのであった。



この様な過去の日本人の態度から鑑みて現在の我々も松下氏が指摘する『対話のスピリット、プラグマティックな議論の仕方』に切り替えることはできない話ではないと考える。要は、躊躇する一歩、いや半歩を踏み出すか否かに懸かっているのではないか。



以上
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対話スピリッツ (ヒロ・マツシタ)
2006-10-12 20:41:07
対話のスピリット、プラグマティックな議論の仕方は習得可能なものじゃないのか、と思いますね。実際、大学院時代、面白半分で取ってみたコミュニケーション・コースで、ディベート、プレゼンテーション、ビジネスカンバセーション、交渉をみっちり教えていましたね。



教えるというのは効果があるという検証が、厳しい科目審査や教授のクレデンシャル評価を通してなされているから。実際、そのコースでもまれて、なるほど、こりゃ効果ある!と達観したわけです。



さてプラグマティックな議論、つまり特定の効用を得るという目的に対して合理的な対話の上手下手は文法の活用に依存します。



広義の文法はグラマーのみならず、音韻論 phonemics、形態論 morphology、 句構造 phrase structure などの複数のレベルから構成され、それらの目的合理的な有効活用こそが大切なわけです。



音韻的には、複式呼吸をしてのどからではなく、おなかから発音して、語尾に抑揚を持たせて文末で聞き手に印象づけると効果的、形態的には現在進行形や未来形のテンスを多用したり、わかりやすい単語でバサッと突くと効果的、句構造は、意味のない重複は避けてなるべく短めに、というようにです。



実は、このコミュニケーション・コースで学ぶ前は、日本語という言語は極めて非言語部分への依存性が高く、言語構造そのものも論理に欠く傾向がある。だから、その使い手である日本民族一般もあまり論理的な言語運用、つまり討論、議論、対話が得意ではないと思っていたのです。恥ずかしながら。



それやこれやで、MITのチョムスキーの特定の言語に限定されない普遍的な言語構造があるという仮説には今更ながら魅力を感じるしだいです。人間の脳には、普遍的な言語構造の素地が織り込まれているがゆえに、赤ん坊はシャワーのように浴びる言語を幼児、少年、青年と成長するにしたがって習得することができるのだと。だからオランダあたりの多言語環境で生まれ育てばマルチリンガルになるわけです。



話はとびましたが、だからこそ、言語の特性に全面的には依存しない対話の方法、議論の方法というのはありうる、と考えます。ただし、やっぱ、日本の環境では、そういうことはあまり重視されないということは認めるところです。



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弁論上達の極意は落語家を見習うにあり (麻生川静男)
2006-10-14 12:15:41
松下氏は米国Cornell大学でコミュニケーション・コースをとり、ディベート、プレゼンテーションなどを習得したとのことであるが、確かに日本ではこのような講義が少ない。これは大学だけの問題ではなく日本人社会全体の問題だと言ってよい。松下氏によるとこのコミュニケーション・コースでは、文法論のみならず、呼吸法、発声法など、いわば Drama Department(演劇部)の範囲まで教えていたと言う。この点について少し考えてみよう。



私も大学生のころから、自分のしゃべり方に論理性がなく、人を説得するのも下手であることに気づき(正直にいうと、嫌気がさし)『雄弁・弁論術』に興味を持つに至った。それがきっかけで、西洋および中国の弁論術についていろいろな本を読んだ。



西洋では、ソクラテスやプラトンの時代、つまり紀元前4世紀にイソクラテスという弁論術の大家がいた。下ってローマの英雄シーザーの時代、つまり紀元前1世紀には大弁論家のキケロが活躍していた。キケロは政治家・弁護士として熱弁をふるい、舌ひとつで国政を左右している。後年、自身の経験をもとに『弁論家について (De oratore)』という弁論家育成のための手引書を書き残している。この本には松下氏が習った事柄が全て指摘されている。一言でいうと、『雄弁家はすべからく俳優であるべし。』つまり、弁論家はコンテンツもさることながら、『見せる』だけでなく『魅せる』言い回しができないといけないと断言している。



私は初めはこの論点に感心していたのだが、よくよく考えてみるとこれは日本では落語家そのものだと気づいた。つまり日本人として、西洋流の弁論家を目指すなら、話振りは落語家を見習えという事になる。つまり、身振り手振り豊かに、いろいろと声色を変え、文章に抑揚をつけ、臨場感豊かに話す、というテクニックを学べということだ。



一方中国の弁論術は西洋のように体系だった書き物は存在しない。しかし雄弁家の速記録、あるいは言行録というべきものがかなり現存している。百家争鳴の時代といわれた、紀元前4、3世紀には、乱立する戦国諸侯の間を遊説する、いわばプロの政策コンサルタントが数多くいた。一番有名なのが、合従連衡策を提言した、蘇秦と張儀であろう。



張儀は宴会で宝石(璧・jade)を盗んだ嫌疑をかけられてひどく鞭打たれて家に帰ると、妻が(ソクラテスの妻、クサンチッペにも劣らぬ悪妻であろうが)『ぐうたらしているからこのざまだ』とけなすと、張儀が背中の痛みをこらえつつ、『俺の舌はまだついているか?(視吾舌尚在不?)』と聞き、妻が笑って、ありますとも、と答えると、『十分だ!(足矣!)』と言ったという。



彼らの行動には感心できない事も多いが、その弁舌は人を説得する、という観点だけから見れば、学ぶべきことが多い。一つの例として、我々日本人の国民的長所(兼、短所)である、人のいうことをあまりにも簡単に真にうけやすい(credulous)というのが如何に危険であるかを教えてくれる。そういった観点から韓非子、戦国策、淮南子を読む現代的価値は大いにある。



論語にある有名な『巧言令色,鮮矣仁』という言葉は、歴史的観点から言うと、その教えとは全く逆に、前半の語句つまり『巧言、令色』がいつの時代にも政治を大きく左右していた。この意味で良いにつけ悪しきにつけ中国でも弁舌、雄弁術が社会全体に大きな影響を与えていることが分かる。



以上
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Unknown (弁論術サブカル論)
2006-10-14 18:34:41
含蓄の深い議論をありがとうございます。弁論法/術は確かに、西洋社会では極めて重視されてきましたが、日本ではさほどでもないですね。



一般に、社会は重要な術と目しているものを世代をまたいで継承、発展させようとします。とどのつまり、それらの大切なものを次世代へと引き継ぎ、磨きをかけてゆこうとする場が学校です。



しかるに米国(ヨーロッパの事情は詳しくありませんが)では、Bやローなどプロフェッショナル・スクールでは、まず例外なくコミュニケーション関係の講座があるばかりではなく、ほとんどすべての科目にオーラル・プレゼンテーション、ディベート、討論などの要素が盛り込まれています。



小学校から"Show and Tell"などでも、人前できちんと話をして、訴求するというトレーニングがなされていますね。



さて、留学当初、シラバスのなかに、Class Participationという評価項目があり、どれだけクラスの知的アウトプットに協力したかを評価する項目です。僕が暮らしていた大学院では、10%から30%のウェイトが与えられていてびっくりしましたね。



ところが、僕が通っていた日本の大学では、当時、Class Participationもへったくりもまったくなく、ペーパーテストと出欠だけでグレードが決まっていました。ゼミにおいても、Class Participationの評価基準は公開されていなく、なんともお寒いかぎりでしたね。



わずかな例で一般化する危うさは残るものの、日本の知的社会一般は、米国のそれと比べ、はやり口頭コミュニケーションの方法論の発展、継承に熱心ではない、といえるでしょう。ご指摘のように、落語には、身振り手振り豊かに、いろいろと声色を変え、文章に抑揚をつけ、臨場感豊かに話す、というテクニックを学ぶ価値があるかもしれませんね。



振り返ってみると、雄弁術も落語も正規科目として教えられない某大学において、それらに極端な関心を示す学生たちは、それぞれ雄弁部や落語研究会で鍛錬していました。どちらにも友人がいましたが、なるほど彼らはその後のキャリアのなかで、アナウンサー、教師、弁護士、経営コンサルタント、経営者、政治家(くづれも含む)などの道で活躍していますね。



キャリア開発という意味では、雄弁部や落語研究会で継承されているもの=弁論術やコミュニケーション作法といったものは有効だとは確信します。日本社会の表では共有されない、ある種のサブカルチャーの域に弁論術は位置づけられているのかもしれません。



話が変なほうへ行ってしまいました 笑)



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