よしなごと徒然草: まつしたヒロのブログ 

自転車XアウトドアX健康法Xなど綴る雑談メモ by 松下博宣

学校歴記号社会の病気

2005年05月17日 | ニューパラダイム人間学
人事の世界では学歴は公然と語られる。バブル経済華やかりし頃はソニーなどで学歴不問という人事的ファッションが流行っていたが近年は学歴による一次スクリーンが明らかに復活し、また強化されている。

とある一部上場企業の人事担当役員と人事部長の集まりによばれたことがある。酒の勢いもあってか、いろいろなホンネの意見が交わされた。

「ようは、スポーツ、芸術、勉強でもなんでもいいから我慢して成功体験を持つことが大事だ。世に言う2流以下の大学卒業生にはなにかに耐えて我慢して成功体験を勝ち得るという体験が少ないので社会にでてからの成功確率が低くなる!」

「そもそも10代の生活習慣のかなで、集中する、知的なものに好奇心を持つことが少なかった青年は大体大学受験にも失敗する。その失敗を引きずってコンプレックスになり、劣等感、卑屈感が成功を阻んでいる」

「評判の芳しくない大学をでるだけで、周囲の目から遠ざけられる。期待が少ないから活躍の場もあたえられない。結局いい仕事をまわせない」

人事部長諸氏の多くは、東、京、東工、一、早、慶など、世に言う著名大学出身であり、自己の屈折したプライドが織り込まれたアイデンティティにかけてホンネをやや誇張して言っていたのだろう。彼らの多くにとって学歴は学問歴ではなく、記号としての学校歴なようだ。

先進諸国のプロフェッショナルの世界はとうの昔に学部うんぬんではなく、大学院での学問歴を重視するようになっている。いまだに、記号としての学校歴、しかも学部レベルでぎゃーぎゃーいうのはやめにしませんか?だいたいサラリーマンをやっている以上大差ないんじゃやないですか?といったら、場が静まり返ってしまった。とはいえ、人事部長諸氏の観察には実は僕も極端な異を唱えるものではない。おおかたはそんなものなんだろう。

だからといって記号にすべてを帰属させるやりかたには抵抗を覚えざるをえない。人事制度の理念あたりでは「個性の尊重」とかていのいいことを言いながら、記号を通して個性を品定めするのは明らかに手抜きですね。学校歴記号社会の病気か。立派な記号を持っていても時代に流され元気のない人たちが夥しく存在するのもまた事実だ。どうせ記号を使うのなら、帰属したコミュニティーの記号ではなく、現在の自分という記号で勝負したいと思う。










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