よしなごと徒然草: まつしたヒロのブログ 

自転車XアウトドアX健康法Xなど綴る雑談メモ by 松下博宣

さくら咲く水辺の風景

2006年04月08日 | 自転車/アウトドア
イギリスを始めヨーロッパの国々では花といえば、バラが一番人気があるが、日本ではなんといっても桜だろう。桜におおらかな感情移入を試み、その美しさを賛嘆した歌人、文学者は数知れない。

み吉野の山べに咲けるさくら花雪かとのぞみあやまたれける (紀友則)

吉野山こずゑの花をみし日より心は身にもそはずなりにき (西行)

など。江戸時代に、「漢意」(からごころ)を離れて「古意」(いにしえごころ)に投企して、日本のオリジナリティを抽象化し、埋め込んだのは本居宣長だ。本居宣長は、現存する日本最古の歴史書『古事記』を研究し、35年をかけて『古事記伝』44巻を書き綴った。宣長は彼の生きた時代までの日本史を総括して、日本とはいったいなんなのか?日本のスピリットはどこにその核心を求めるべきなのか?を博覧強記な頭脳と類希な美意識を織り交ぜ、古事記を文献学的にクリティークし、解明しようと大胆に試みた当世一代の知識人だ。

爾来、宣長の桜はインテレクチュアル・コミュニティは言うに及ばず、一般の人口にも広く膾炙してきた。

       敷島の大和心を人とわば朝日に匂う山桜花 (本居宣長)

本居宣長にとっての「自己」は「日本」や「日本の古意」であり、まさに「日本という自己」を解明することが、その思想の出発点でもあり終着点でもあった。宣長においては「無私としての自己」があるとしても、それは日本そのものの本来であって、「惟神(かんながら)」に直結するものだったのである。

そんなことを思いながら新川のほとりを自転車で走る。岸辺にはそこはかとなく桜がたたずみ、桜の花々はその短い命を大空にむけて語りかける。一夜の雨、一陣の強風が吹けば、花は散ってしまうだろう。なんとはかない花か。なんと切ない花か。はかなくてせつないから桜は美しい。美しいから、せつなく、はかない。せつなく、はかないもののなかに凛とした気骨、気品が香る。

宣長は、揺れ動く人の心が時として感じ入る刹那の出会い、心象風景を「もののあはれ」といった。宣長が高く評価した『源氏物語』についても、「この物語、もののあはれを知るより外なし」と言っている。「源氏物語玉の小櫛」のなかでは、もののあはれを人間の魂の純粋な形態であると位置づけた。そして、人間をその如実の相に於て捉えんとする文学にとって、もののあわれは最高の価値基準でなければいけないとまで論ずる。さらに、儒教的政治理念は実に政治的君主としての聖人が自己の非行を美化し、隠蔽せんがために作為したる教説にほかならぬとラディカルに断罪するのだ。

さて『玉勝間』全14巻には、「初若菜」「桜の落葉」「たちばな」「ふぢなみ」「山菅」「つらつら椿」といった項目がつづく。そして、このようなハートフルな歌が収められている。

     「言草(ことぐさ)のすずろにたまる玉がつまつみてこころを野べのすさびに」







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2 コメント

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本居宣長の本音を探ると。。 (麻生川静男)
2006-04-10 15:56:10
本居宣長の儒教および『漢意(からごころ)』に対する非難は彼が当時の知識階級(武士)が日本本来の優しき心ばえを忘れたことに対する非難であると考える。(現代用語でいうと『グローバルスタンダード』に対する無批判的な盲従を戒めたのである。)



どの宗教、教団(とにかく開祖と言うものを祭っている集団)は全てにおいて開祖そのものの言葉や意図は開祖の死後急激に廃れてしまう定めにある。開祖がふと気まぐれに言ったことも何か深遠、かつ永続的な意図があるかの如く、深読みをしてしまい、それを墨守しようとするところに、教団の堕落が始まるのである。孔子しかり、ソクラテスしかり、ブッタしかり、イエスしかり。教祖自身は非常にオープンなものの言い方をしている。現存の記録に多少の誇張や権威付けがあるのは承知の上で言うとこれら教祖の言動を記録を読む限りでは後世これら教団の狂信的かつ権威主義は感じられない。



本居宣長の意識も儒教の本尊である孔子その人を批判したのではなく、その後の教団活動としての儒教、あるいは中国文化の代表としての儒教を、文化背景の異なる日本人が無批判的に受け入れることの、理性の欠如、という観点からの批判であった。



そもそも中国の歴史を読めば(本居宣長だって当然知っていたはずだが)儒教は官僚になるための一つのポーズ(必需品)であり、中国社会は儒教の掟の埒外にある(本質的に)肉感的、世俗的、快楽的な要素に満ち満ちていたのがよく分かる。そういった現実の中国にとっては儒教の教えというのは、現代的表現をすると高速道路の制限速度の看板程度の意味しかなかったといっても過言ではなかろう。



以上の論点から本居宣長の批判対象は中国という当時の先進国に盲従する日本の指導者階級であったのだ。



このような観点から漢意を排撃し、その代替として『もののあわれ』という概念を持ち出したのが彼一流の論法(レトリック)である。私は『もののあわれ』という意識そのものは松下氏が本論に書かれているように、桜に代表されるうつろいやすい美に日本人が共通に感じる美意識・倫理観であるという意見に賛成するにやぶさかでない。



しかし、この『もののあわれ』の代表として源氏物語を推挙するのは、どうも納得しかねる。源氏物語は一言でくくると、『失楽園もどきの不倫物語』である。その上ご丁寧にも、源氏が桐壺帝に犯した不倫の因果応報が柏の宮からはね返ってくるという落ちまでついているのである。更には源氏亡き後の宇治十帖ではその不倫の落し胤の薫の君と源氏の孫・匂宮が浮舟をめぐって不倫騒動の結果、浮船が自殺未遂を起こすと言うキワドイ話で盛り上げられている。現在もしこれが本当に起こったら、ワイドショーに連日取り上げられること間違いなしの宮家の大々的なスキャンダルである。



本居宣長がこのような筋(プロット)を知りつつそれでもなお源氏物語が日本人の心情を代表する作品だというのであれば、私は納得する。というのは、名のみ高くして、最近はついぞ読まれることのない大日本史には、奈良朝、平安朝の天皇家、藤原摂関家のスキャンダル(醜聞)が思いの他たくさん盛り込まれている。その上、驚くことに、儒教では厳禁されているはずの近親結婚(叔父と姪、叔母と甥、異母兄妹同士)が非常に多く記録されている。つまり、中国文化の輸入総元締めの天皇家自身が儒教を含む中国文明のうち、自分達にとって都合の悪い所は全く無視して、必要なところだけをつまみ食いをし、自国に足りない制度を補った。そして男女関係は古来日本の伝統に則ったおおらかな性的自由(フリーセックス)を享受しているのであった。



客観的に評価すれば、彼らは当時のグローバルスタンダードの選択権は自分達(日本人)にあるという確固とした主体性を持っていたことを物語る。



つまるところ、本居宣長の主張は、『外国文化(グローバルスタンダード)は主体性をもって取捨選択せよ。けっして盲従するな』と言うことと解釈してよいのではないかと私は考える。



以上



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本居宣長の本音を探ると。。 (まつした )
2006-04-10 20:46:54
長文のコメント、畏れ多く拝読しました。本文を凌駕する分析、クリティーク、いやはや有難うございます。



たしかに、本居宣長の意識も儒教の創始者である孔子その人の思想を批判したのではなく、その後の教団活動、体制維持イデオローグとしての修正主義的儒教を批判したのだと思います。



そして、無批判的に儒教を輸入して幕藩体制維持のための受け皿として非常に恣意的に活用していた当時の江戸幕府に対する間接的な批判であった側面があると思われます。



宮廷を舞台に繰り広げられる不倫・スキャンダルのオンパレード物語のなかに「もののあはれ」を見出す本居宣長ではありますが、このあたりはちょっと限界を感じますね。むしろ、「もののあはれ」桜に代表されるうつろいやすい美に日本人が共通に感じる美意識・自然観という説明のほうがすんなりしますが。



もっとも、なにが「もののあはれ」かを正確に理解できないままでいる僕がこんなことを言うのは変なことではありますが。



本居宣長の主張を、『外国文化(グローバルスタンダード)は主体性をもって取捨選択せよ。けっして盲従するな』と受け止めると、宣長の思想は今日的意味を帯びてきますね。国学、古道が再評価されていると言われます。



そうした文脈で賀茂真淵、本居宣長、そして一般の真骨頂である平田篤胤を読み進んでゆきたいものです。今度、読書会しましょうか???









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