よしなごと徒然草: まつしたヒロのブログ 

自転車XアウトドアX健康法Xなど綴る雑談メモ by 松下博宣

習合(シンクレティズム)の磁場、京都。

2009年05月01日 | よもやま話、雑談
そうだ、京都行こう。

JR東海がかれこれ15年以上使っているキャッチコピーではないが、倉敷での仕事を終え、京都に向かった。

京都大学産官学連携センターのイノベーション・マネジメント・サイエンス研究部門の麻生川さんと落ち合い、仕事の話もそこそこによもやま花が咲く。

このところ宗教教義のイノベーションと伝搬を調べているので、そのあたりの話で熱くなる。サービスとしての宗教。そして宗教におけるサービス・イノベーションはれっきとした研究対象なのだ。

旧約聖書の創世記でheavenという単数形の表現をとるバージョンもあれば、複数形の場合もある。

学術的な正確さを誇るThe New Oxford Annotated Bibleでは、1.1節は:

"In the beginning when God created the heavens and the earth,..."となっており、果たしてheavensの"s"一文字の有無の違いで話が熱くなったのだった。



さて、太秦の広隆寺弥勒菩薩半跏思惟像や秦氏については、連載記事にも書いた。

真言「オン マイトレーヤ ソワカ」のマイトレーヤ(弥勒)は、ミスラ、ミトラと語彙は同根。

ミトラ教のルーツは、古代ペルシア人(アーリア民族)のミトラ信仰にある。ミトラ神は契約神・戦神・太陽神などの多彩な顔を持ち、古くからペルシャ、西アジア、インド西北部に浸透していた。弥勒の故郷である。

ただし、キリスト教勢力からは、ミトラ教の存在は、臭いもの、触れたくないものだった。なぜなら、ミトラ教はキリスト教の1本の隠れたルーツをなすようなものだから。

ミトラ教は、紀元4世紀あたりまではキリスト教と併存していたが、その後、歴史の隅に追いやられた影の宗教みたいなものだ。

現在キリスト教のイノベーションと看做されている儀礼、例えば洗礼や聖餐などを生みだしたのは実はミトラ教なのである。ミトラ教には、キリスト教が備えている救済宗教としての神話も神学も密儀も存在する。

初代のキリスト教会は、ミトラ教を激しく弾圧のは同根のミトラを否定しなければ正統性が成立しなかったためだ。いうなれば歪んだ近親憎悪の感情。

ミトラは概して西アジアから見て東方へはシンクレティズム(習合)を経ながら足跡をとどめてきた。弥勒がひとつの残存形態なのである。こういう背景を押さえてみると、広隆寺弥勒菩薩半跏思惟像の微笑はなるほど、奥深い。

               ***

京都駅近くのレンタサイクルで自転車を借りる。3速で1日1000円。ランドナーほど機動力はないが、京都めぐりの脚は自転車に限る。

鴨川沿いに上って丸田町通りを西へ。北野天満宮参拝のあと、妙心寺上がるのアイズ・バイシクルへ寄って店主の土屋さんと雑談。



それから渡月橋へ。



旧嵯峨御所大覚寺門跡=大覚寺。

嵯峨天皇の離宮を寺とした後、鎌倉時代には亀山天皇や後宇多天皇がここで院政を行い嵯峨御所と呼ばれた。

南北朝時代、南朝運動の拠点としても知られる格式高い門跡寺院。

ハート・スートラ=「般若心経」の根本道場。

そこで、空海と嵯峨天皇の関係や、南朝興隆運動の史料を調べる。



隣接する大沢池は平安貴族の舟遊びや月見の地。

どの角度からも嵯峨野あたりの低山が借景となっており、絶妙な池。



丸太町通りを東へ走り、哲学の道へ。自転車を押して登って法然寺。

ああ、南無阿弥陀仏。

そこでまたちょっと調べもの。これはすぐに分かった。以下メモ。

              ***

法然(1133-1212)は浄土宗の開祖。もともとは比叡山で天台密教を修行していたが、浄土三部経(無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経)を研究し、だれでも簡単に救済する方法はないのかと模索し、浄土宗による仏教イノベーション、仏教改革のアイディアを得る。

「南無阿弥陀仏」の念仏ならば文字が読めない農民、差別された人々でも唱えることができる。またどんな悪人でも念仏を唱えれば、往生できると説いた。

法然の仏教イノベーションの訴求力はすさまじく、農民、庶民、武士、貴族まで幅広く受け入れられた。しかし、叡山の既成勢力から迫害に会い、島流しになってしまった。面白いことに、法然の母親は秦氏系である。

さて、阿弥陀仏の出自。阿弥陀仏はAmitabha(無量光) Amitayus(無量寿)の音訳。

阿弥陀仏は、大乗仏教で登場したホトケで原始仏教とは無関係。その起源はゾロアスター教(拝火教)などのイラン系の信仰に由来する。大乗系のフィクションライターは、本当にクリエイティブな人々だ。カミサマをちょいと借用して、それ風に味付けして教化に活用し、後世にそっと残す。

光明の最高神アフラ・マズダーが無量光如来、無限時間の神ズルワーンが無量寿如来の原型とされる。

西方極楽浄土は、ゾロアスター教の起源であるイラン地方、もしくは肥沃で繁栄した古代バビロニア地方が背景になっていると推定される。

なるほど、浄土宗は一神教に近い構造を持っているのである。ただし、浄土宗を篤く信仰する方々は、過去の習合(シンクレティズム)は一切知る由もないだろう。

『仏説阿弥陀経』は実は仏説ではなく、大乗部派が創作した物語である。そして、阿弥陀の本籍地は日本から見ても遥か西方のイラン地方よりもっと西の方。

教義、宗教思想、神話、信仰対象の取り入れや融合が大規模に起こり、二つあるいはそれ以上の宗教のあいだで、どちらの宗教とも付かない両方・複数の宗教の要素を併せ持った宗教が成立するような事態が習合(シンクレティズム)。

しかし、それぞれの宗教、宗派の当事者たちは、自らの宗教、宗派の正統性を主張したいので、自分たちに都合の悪い来歴は消し去ろうとするのだ。消し去ることをしなければ、無視したり黙殺したりは常套手段。

都合の悪い来歴にこそ、真実が横たわる。したがって、いいも悪いも、来歴の事実をインテリジェンスを駆使して見つけなければいけないのだ。宗教サービス・イノベーションの創発と伝搬を解くには、習合の分析を抜きではままならない。

              ***



三条京阪を経て、河原町へ。最後はイノダのコーヒー。560円はまあ、高いが、いろいろ収穫があったので、よしとする。

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2 コメント

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ImprovementかInnovationか? (麻生川静男)
2009-05-02 22:27:49
松下さんとの話では、ここに書かれている、『heavensの"s"一文字の有無の違いで話が熱くなった』だけでなく、日本人の特性についてもお互いに持論を展開しあった。

私の考えでは、日本の工芸技術の発展は、緩やかな上昇カーブを描いていて、それはimprovement という言葉で表現するのが適切だと述べた。一方松下さんの意見ではそれは、incremental innovation と表現するのが正しく、日本との対比で言えば西洋の工芸の進歩はabruptive innovation と定義されるという。

私の語感では、innovation というのは、それまでにない 新規性(novus)のあるものを作り出すという意味合いを内包しているように感じる。一方 improvement は質や価値の向上という意味であり、必ずしも新規性のありなしは問う所ではない、と思える。

松下さんとの議論は常にトピックが古今東西に飛び跳ねて知的刺激を受けることおびただしい限りだ。
ImprovementかInnovationか? (ヒロマット~)
2009-05-02 23:25:06
京都ではお世話になりました。美味しい夕食、ありがとうございました。

さて、もとはと言えば、クリステンセンが「従来の技術体系の延長線上でなされた連続的な技術革新」(incremental innovation)であるのか、それとも「従来の技術体系とは根本的に異なっており不連続な抜本的変化をともなう技術革新」(radical innovation)であるのか、というようにイノベーションの技術的性格を相対化したものです。

また、持続的イノベーション(sustaining innovation)と、従来のモノコトを一気に陳腐化させて、破壊的結果を招く破壊的イノベーション(disruptive innovation)の二軸で相対化もしています。

以上はあくまでも相対的な軸であり、絶対的な区分ではありませんが・・・。

日本の工芸品の発展軌道は、どちからというとincrementalでかつsustainingである場合が多いと思われます。

京建具・京竹細工・清水焼・銅板金などの京都伝統工芸などは、数百年かけて漸進的に進化してきていますね。

西洋の工芸の進歩もおおむね日本のパターンと大差ないのではないでしょうか?

ただし、万年筆の登場によって、それまで主流だった羽ペンが一気に陳腐化してしまった例もありますが。。

酔っ払って変なコメントをしてしまったのかもしれませんが笑)、西洋の工芸の進歩は×abruptive →○disruptive なinnovationのみということは言えないと思います。

西洋vs日本で工芸品というおおきなカテゴリーでは、ちょっと比較がしずらいですよね。もうちょっと皿、食器、文具というふうに細かに見てゆきたいと思います。

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