散歩日記X

札幌を中心に活動しています。食べ歩き・飲み歩き・ギャラリー巡り・読書の記録など

野沢桐子展

2012年06月16日 15時12分46秒 | ART
この展覧会に関しては、これまでにも行くたびにちょこちょこ書いていたのだが、最終的に思ったことを整理してみたい。

作品の描写力の素晴らしさは誰もが認めるところだろう。この展覧会場はビルの入口ホールなので、特にビルに勤めている人にとっては通り過ぎるだけの場所なのだろう。これまでの展覧会で、真剣に作品を見ている人はあまり多くはなかったように思う。しかし今回は、かなりの人が明らかに作品を見るためにこの場にいたのだ。それだけ、人の足を止める(足を運ばせる)力がある展覧会だったと言えるだろう。

作品を見ると、人物のリアルさ、背景の妙なゴージャス感が最初に目につく。さらに見ていると、グラスや灰皿、床や靴の質感がそれぞれ全く違うものでありながら、ハッとさせられるほどしっかり描きこまれていることに気づく。また、小さな猿のぬいぐるみ、小鹿など、その場にはそぐわないものが所々に描きこまれていることにも気づく。これは一体何を意味しているのだろうか。大作中心に、私がどんな印象を受けたのか、書いてみよう(なお、人物にはモデルがいるようなのだが、その人を知っている訳ではないので、人物評ではない。あくまでも描かれたものに対する感想である)。

「Who is Joker」:老人と若い女がカードゲームをしているシーン。若い男が、老人の頭に銃口を向けている。若い男はあまり表情がなく、用心棒というよりは、運命を象徴しているのだろう。女性は片足の靴を脱いでいるところが、うまい。蓮っ葉、小悪魔と言った印象だ。そして、メインはやはり老人だろう。老人と言っても、銃口を向けられて微動だにしないのだから、只者ではない。さぞかし修羅場をくぐりぬけてきたのだろう。しかし、彼の肩には猿のぬいぐるみが乗っていて、ユーモアを失っていない男だということが分かる。



「Honey Bitter」:椅子に腰かける何となく魂を抜かれたような女。美女という程ではなく、その辺にいそうなくらいの可愛らしさ。床に落ちたバッグからは煙草と毒薬の瓶が出ており、胸にはタランチュラのアクササリーがある。これは死への渇望だろうか。わずかな救いは、彼女の手に乗っている小さな鹿だ。この鹿が立ち続ける限り、希望はある。


→階段の所に展示されているため、正面から撮影できない。

「花屋」:ちょっとダメおやじ風の男。しょぼくれた感じもあるし、飄々としているようでもある。良く見ると、帽子や靴はかなりオシャレだ。そして決定的なのは、ちょうど胸の所に描かれたバラの花。ハートにバラを秘めた男なのだろう。



「無題」:階段から下りてくる女性はこちらも実在感が薄く、「若さ」の象徴くらいの所だろうか。「Who is Joker」と同一人物と思われる老人が、いすに腰掛けてビールの小瓶を持っている。老人があまりにも深く椅子に腰かけて、中空を見つめているので、もう立ち上がれない、回想に耽るだけなの状態なのだろうか。しかしこの老人もなかなかおしゃれさんだ。ビールといい、描写の素晴らしいガラスの灰皿(喫煙を意味する)といい、まだ枯れていないことを感じさせる。


→ガラス越しなので、こんな状態に。

「舟の左手、風の右手」:タイトルからするに中央の聖母風の女性がテーマではなくて、二人の赤ちゃんが主役なのだろう。しかし、これは私にはどうにも読みとれない。



「Japanese 2011」:何となくワルそうな男がこちらを睨んでいる。そう、ちょいワルではなく、現在進行形の本物のワルかもしれない。しかし、足元には本が何冊か積まれていて、実は読書家なのだ(多分)。知性と悪を兼ね備えた、ある意味矛盾していそうな人物なのだろう。多かれ少なかれ、誰しもそういう所はあるはずだ。



全体的に見て、人物の核心に迫るほどの描写でありながら、人は見える部分だけではないんだよということを、ワンポイント(猿、鹿、バラ)で表現してるような気がする。またそれに説得力を加えるのは、素晴らしく過剰なほどの背景だ。ここまで背景を描かれると、「あなたの言うことは分かった」と降参させられてしまう。ここまでやるのか、というところまでやることで、作品の全体に命が通っているのだと思った。

この展覧会も後、一日だ(6月17日まで)。これ見て行く人、いないかなあ。


コメントを投稿