かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

働き方が変わる、学び方が変わる、暮らしが変わる。
 「Hoshino Parsons Project」のブログ

地域崩壊の姿

2008年09月12日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里
先日、日ごろ一緒にいない母親の入院でいろいろと心配をかけた親戚すじ数軒に挨拶にまわってきた。

昔の自分だったらこんなこと、頼まれてもするのは嫌だったが、今は不思議と親戚の伯父や伯母にたまに会うことが楽しい。
私は友だちとですら、とりとめのない世間話はあまりしないほうなのだけど、冠婚葬祭やこうした挨拶まわりでの世間話は、日常では避けているためか、いろりろ学ぶことも多いのでけっこう楽しみながらつきあえる。

でも、じっと年寄りの話に耳を傾けていると、ただの愚痴ではすまされない深刻な生活実態がいろいろみえてくる。

伯父の家のまわり(つまり私の実家である母の家のまわりでもある)では、このところ葬式が相次ぎ、高齢者夫婦で暮らしていた家が独居老人の家になってしまったところがほとんどになってしまった。
80歳以上で夫婦そろっている伯父の家などは、めずらしい部類に入る。
それだけに、どちらかが死んだら、残ったほうはどうしようか?などといった心配がつきない。

伯母は、耳が随分遠くなってきたが、その分伯父の方はよく聞こえる。
しかし、伯父のほうは嗅覚がまったくきかない。
ふたりで一緒にいることで生活を補いあえることが多い。
それがひとりになってしまったら、急に日常の不自由が増す。

それが近所の家々で現実に起きている。
長年連れ添った相方が亡くなると、うちのほうの田舎だと、まず田畑が荒れる。
どこも専業農家ではなく、片手間でやっているような田畑であるけれど、それだけにひとりになると、畦を補修したり、草をまめにとったりすることが、てき面になくなる。

その変化が、まわりからそのまま見えてしまうのでつらい。

そうした実体で、もっと聞いてつらいのは、それらの独居老人たちは、どこも決して子どもがいないわけではないということ。ご近所の多くは、それら独居老人のいる敷地のなかに立派な新居を建てて、そこに息子や娘夫婦が住んでいる。

ところが、それら若い夫婦はたいてい外に働きに出ており、家の田畑などの作業は、田植え稲刈りなどのとき以外はほとんど手をださない。
会社勤めに出ている人は、どこも今は楽ではなくそれぞれの苦労もあるとは思うが、家のこと、地域のことにかかわらず、それらは老人たちにまかせきりである場合が多い。

老人たちも必ずしも誰もが積極的に地域の活動をしているわけではないが、生活の場として多くはかかわらないわけにはいかないといったところだろう。
でも、外に働きに出ているものが、その働いている先でなんらかのかたちで地域を支えるような活動をしているかというと、ほとんどはサラリーマンの立場でそれは要求されていない。

これは特別な地域活動やボランティア云々ではなくて、日常の生活の場でのつきあいの環境のことである。

わたしは、これらはどれも賃労働という、特殊な働き方の問題であると思っているのですが、ほんとにここ5年、10年ほどの間に、地域の疲弊が加速してしまった。

ささやかな楽しみとして、うちの母親のように様々な趣味のお付き合いもいいかもしれないけど、地域の生活環境が崩壊してしまってはしょうがない。行政からの財政援助で済む問題じゃない。


なんとなく、即効性はないことだけれども、
今、わたしが伯母と手作り本をつくっているような、自分と向き合うことの訓練をすることがとても大事なことのように思えてくる。

もっと伯父、伯母のところに遊びにいかないといけないな。
こりゃまた、仕事なんかしてる暇ないわい。
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