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村の力でささえた芝居文化

2012年05月27日 | 渋川、利根・沼田周辺情報

以前、渋川市の三原田歌舞伎のすばらしさについて書いたことがありましたが、県下にはかつてそうした地芝居が各地で盛んに行われた痕跡がたくさん残っています。

関越道の上り線、沼田IC手前の左側の丘にそうした舞殿がいつも見えているのがずっと気になっていました。

畑からのぼった丘の上に桜の花に囲まれた舞殿をみて、早く行こうと思っていたものの、その機会は桜が散ってからとなってしまいました。

 

 諏訪神社境内にある舞殿。

間口5間半、奥行3間半、床高1m。

 

 

 建築の時期は定かでないようですが、昭和10年に改修新築されている。

こんな場所でミニライブでもやれたらすばらしい。

 

 

さらに、私の地元みなかみ町(旧月夜野町)下津には、中村天満宮の舞殿があります。

こちらも、私の通勤コース途上にあるもの。

ネット上の写真などでは、肝心な舞殿には戸板がはめられたままの写真ばかりで、このように普段から解放されて見れるのは最近になてのことなのだろうか。

 

江戸時代中期、村芝居として素人歌舞伎がはやり、各村々で神社境内に舞台小屋を建てて踊っていた。

その後、幕府等は時間と金のムダで風紀を乱すと禁止したが、庶民は氏神様への奉納として神楽殿の名目で舞台の低い舞殿を建て、村祭りの日に芝居を上演した。明治時代に入り盛行するが、明治末の取締り強化と戦争により衰退していった。往時、町内には十四カ所の神社に舞殿があり、改築等により舞殿の機能はないものの六社に現存するという。

                    (以上、みなかみ町教育委員会看板説明より抜粋)

 

今、面白いものを観るには、高崎、前橋や東京にまで行かなければならないのに、江戸時代や明治の時期には、村単位でこうしたものがありました。

しかも表向きは禁止されてたものが。

(もちろん、昔のことだからなにもかも杓子定規ということはなく、見て見ぬふりということもあっただろう。)

渋川の郷土史家である大島史郎先生が、お上がやってはいけないということは、たいていやっていたものだと言っていましたが、やってはいけないからといって素直に守る現代人が、なにか妙に不健康な姿に見えてきます。

守らないやつがいるから規則ができる?規則があるから破るやつがいる?

これは必ずしもイタチごっこの議論ではなく、すべて枠に収まると決めつけるほうが無理があるし、世の中をつまらなくするのです。

 

もちろんテレビにインターネットに様々な娯楽があふれる現代とは、前提が異なるかもしれませんが、今より遥かに少ない人口で所得も低い村落社会で、村人自分たちの力で勝手に守り育てていた文化を、ただの歴史保存建築物として観るのではなく、この舞台のまわりに目を輝かせて集まってきた村人たちがいたことを想像してほしいものです。

 

昨年、くしくも原田芳雄の代表作になった映画『大鹿村騒動記』で、地域で支える地芝居のエネルギーが広く紹介されましたが、渋川市でも子供たちが演じる歌舞伎の世界が大人たちに想像を超えた感動を与えています。

なにも歌舞伎や浄瑠璃にこだわる必要はまったくありません。人口の少ない地域でも、十分に自分たちで楽しむ文化は創れるはずであることを、こうした建造物が私たちにつきつけています。

他人に迷惑をかけることなく、自分たちが楽しめることは誰が何と言おうが、自分たちで創る。

行政の予算がつかないから、などということは言わないでほしい。(もちろんつくにこしたことはありませんが)

体に悪いということは、たいてい面白いし、やってはいけないと言われてもやらずにはいられないことほど価値はあるのだということ、そんなものを金のあるなしではなく、わたしたちはもっとたくさん取り戻すべきなのではないでしょうか。

これらの歴史建造物から歴史文化保存以上の価値と意味を多くの人に感じてほしいものです。

 

 

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