この間に書き続けているシリーズのタイトル、
未だにしっくりしたものが浮かばないのですが、
とりあえず「近代化でくくれない人びと」としています。
今回は カテゴリーの括り方にもよるのですが、
約・第21回になります。
ここでは「近代化」という言葉を明治維新や敗戦後の戦後国家の体制づくりに限った表現としてではなく、戦国時代から江戸期にいたる天下統一のプロセスや大和朝廷など古代国家形成時期なども含めた、統一国家の形成エネルギー総体を指すものとして勝手な意味合いを込めて使っています。
そうした統一国家形成期には、必ずそれに対する抵抗勢力の存在があり、
多くの場合、権力闘争に敗れたものは敗者として退けられますが、
特別な敗者でない場合でも、そうした異なる立場を様々な方法で統一することに組みしきれない人びとは、いつの時代にも存在しています。
それは明確な中央に対する抵抗を伴わない場合でも、
中央からは執拗に排斥されるのが常でした。
わたしは、これらの流れを、中央についていけない「抵抗勢力」としてだけではなく、
単一な企画統一に組みしきれない、社会の本来あるべき多様な自然な姿を現す大事なエネルギーを持つ存在として、あらためて見直してみたいと考えているのです。
(私は密かにそれを、これからの時代の「私たち」の姿として見ています)
また、差別などの側面以外からこの問題をとらえると、
都市への人口集中や農村の貧困化や飢饉などの災害などを契機にした、
「作られ続けた差別された人々」を「安全に管理するシステム」として、
見直すこともできます。
こうした人びとの典型的な姿をみる材料として、
これまで信長の時代の一向一揆や「百姓ノ持タル国」のこと、
しばしば中央権力と手を組みながらも、絶えず組織の枠に捉われない階層としての特徴を持ち続ける修験道・山伏や忍者などについて、
さらにはといわれる士農工商の身分に入れない様々な人々、
あるいは戸籍を持たない無宿やサンカなどの非定住民たちのことを
シリーズでとりあげ、さらに書こうとしてきました。
そこで今回は、近代化とともにつくられ続けられた人びととして、
江戸時代から明治維新にかけての「」「」のこと、
とりわけそれらの階層の代表管理人的立場にある弾左衛門と
頭 車善七の視点からちょっと書いてみたいと思います。
というのも、これまで弾左衛門のことはよく取り上げられていましたが、
このたび河出文庫から出た「江戸の頭 車善七」をみるまでは、
弾左衛門の下の頭、車善七のことをほとんど私は知らなかったからです。
そこで、江戸城下からやがて関八州にまで、その支配下においた弾左衛門とその配下でのみを管理する車善七、それらを語るためには、大雑把に被差別でくくられる・の言葉の区別を確認することから始めなければなりません。
実は、このことは建前上差別の廃止された現代で、研究のために確認される必要があるということだけではなく、江戸時代においても身近な存在でありながらその定義は明確でないことが多く、しばしば奉行の取調べなどの機会のたびに、確認を要し、そのための由緒書が必要とされることで定説が次第に形作られた経緯もあるようです。
弾左衛門の支配下にいる者たちのリストは、以下のように記されてます。
、平家座頭、猿楽、陰陽師、壁塗り、轆轤師、鋳物師、辻売、石切、鉢叩、渡守、笠縫、、一銭剃刀、壷作、筆結、関守、舞々、ニカワ屋、皮屋、獅子舞、オサ師、ハタ大工、説教、紫屋、傀儡師、猿舞し、藍屋、鉢叩、傾城屋、鐘打
順番といい、鉢叩が2回出てくることといい、
宝永ころの人が、「農・工・商」の身分概念におさまりきれない仕事をどんどんと書き出したかのようだ。おまけに最後に「右の外にも多数ありますが、これらはみなの下です」とつけたしていた。そこに歌舞伎が入る(以下略)
いろんな記録をみるにつけ、けっこう曖昧だったことが伺える。
しかし、それらの職業、身分が並んだときには、常にどちらが上で、どちらが下であるのかは、時には生死をわけるほど重要な問題であったようだ。
それで、エタ、と明確に区別され、その下の位置におかれた、無宿などを管理する車善七にとっては、頭としての地位が固まり、その権力が増すにしたがい必然的に弾左衛門との軋轢も微妙に増していくことにもなる。
私は、今まで知らなかったこうした頭 車善七のことを本書でいろいろ知るにつれて、被差別などのイメージとは異なる江戸の風俗、文化を含めた広い視点で江戸下町の様子が見えてきました。
とりわけ、車善七の居住地が吉原が日本橋人形町付近から、新吉原と呼ばれる今の台東区千束付近に移転するに伴い、いっしょに吉原に隣接した土地へくっついたまま移転していることに、その立場の特異な性格があらわれているようでとても興味深く感じました。
それは、紙くず拾いなどによる落とし紙(トイレットペーパー)生産などのリサイクル事業が、吉原や隅田川舟運集積地に隣接していたために、最下層に差別されていながらも非常に安定した収入源として持ってたことにつながり、頭という地位が差別されながらも、結構高い地位をえていたようにも見える。
江戸という大都市が形成されるにしたがい、人口の増加と経済の発展が進み、
物流の拠点として隅田川流域は重要度を増すばかりであったにもかかわらず、
江戸城との距離という便宜性と吉原という文化の狭間で、様々な矛盾を内包しながら発展を続けていっています。
最近、ある科学者が、自然界は生産者(植物)と消費者(動物)と分解者(微生物)によって成り立っているということを書いているのを見ましたが、大都市というひとつの社会の内部をみても同じような構造が成り立っているのを感じました。
とりわけ、現代と比較しても高度なリサイクル社会であったことが知られている江戸で、差別されながらも分解者の立場におかれた人々が、同時に不可欠の存在として求められていたことがよくわかります。
そうした人々の管理者であった弾左衛門と車善七の実像は、繰り返しますが差別問題以外の視点からも、とても興味深いものがあります。
実は、弾左衛門と車善七の間に、猿飼頭という地位がもうひとつあったのですが、
今の猿回しの興行以外のもうひとつの起源を知る大事な意味も、ここで知ることができます。
頭と猿飼頭、頭の三者が処刑場の近くにセットで住んでいたのです。
それは馬との関わりにつながるのですが、興味ある人は、是非本書を読んでみてください。
小さな文庫本ですが、私は付箋だらけになるほどたくさんのことを本書で知りました。
本書に書いてあったことではありませんが、吉原との深いつながりや、その後のテキヤや元締めの起源につながる系譜などを創造すると、
フーテンの寅さんの「車寅次郎」という名前の「車」という姓はここからとっているのではないだろうかと思える。
吉原など、この辺を描いた小説のなかには、周辺の地理や風俗を緻密に描いていながら、あえてこのあたりの描写を避けているものもあります。
それは遠慮というよりも、一部の団体からの糾弾を恐れてということも想像されます。
私は、差別された貧しい人々という側面だけでなく、もっとその社会で必要とされて増殖され続けたという実態から、現代に通じる問題を見てみたいと思うのです。
江戸文化を代表する最も華やかな場所に隣接して、最も差別された立場のものの居住地があった。幕府の意図もあったのだろうが、それは幕府の意図とはかかわりなくとも強烈なメッセージを含んだものであったと思われます。
そのの中心的職務からすれば、処刑場こそもっとも近くであるべきと思うのですが、
なぜか同じエリア内であっても吉原の方に特別の役割があるかのように接している。
この本には地図も豊富に掲載されています。
もう20年ほど前のことでになるか、友人と数人連れ立って江戸下町の地名を訪ねるツアーを企画してまわった思い出がありますが、今こそ、じっくり歩いてみたいものだ。
【おことわり】
ちょっと際どい表現がたくさん出ていますが、
差別的な意図はまったく無いことを
どうか文脈からご理解ください。
未だにしっくりしたものが浮かばないのですが、
とりあえず「近代化でくくれない人びと」としています。
今回は カテゴリーの括り方にもよるのですが、
約・第21回になります。
ここでは「近代化」という言葉を明治維新や敗戦後の戦後国家の体制づくりに限った表現としてではなく、戦国時代から江戸期にいたる天下統一のプロセスや大和朝廷など古代国家形成時期なども含めた、統一国家の形成エネルギー総体を指すものとして勝手な意味合いを込めて使っています。
そうした統一国家形成期には、必ずそれに対する抵抗勢力の存在があり、
多くの場合、権力闘争に敗れたものは敗者として退けられますが、
特別な敗者でない場合でも、そうした異なる立場を様々な方法で統一することに組みしきれない人びとは、いつの時代にも存在しています。
それは明確な中央に対する抵抗を伴わない場合でも、
中央からは執拗に排斥されるのが常でした。
わたしは、これらの流れを、中央についていけない「抵抗勢力」としてだけではなく、
単一な企画統一に組みしきれない、社会の本来あるべき多様な自然な姿を現す大事なエネルギーを持つ存在として、あらためて見直してみたいと考えているのです。
(私は密かにそれを、これからの時代の「私たち」の姿として見ています)
また、差別などの側面以外からこの問題をとらえると、
都市への人口集中や農村の貧困化や飢饉などの災害などを契機にした、
「作られ続けた差別された人々」を「安全に管理するシステム」として、
見直すこともできます。
こうした人びとの典型的な姿をみる材料として、
これまで信長の時代の一向一揆や「百姓ノ持タル国」のこと、
しばしば中央権力と手を組みながらも、絶えず組織の枠に捉われない階層としての特徴を持ち続ける修験道・山伏や忍者などについて、
さらにはといわれる士農工商の身分に入れない様々な人々、
あるいは戸籍を持たない無宿やサンカなどの非定住民たちのことを
シリーズでとりあげ、さらに書こうとしてきました。
そこで今回は、近代化とともにつくられ続けられた人びととして、
江戸時代から明治維新にかけての「」「」のこと、
とりわけそれらの階層の代表管理人的立場にある弾左衛門と
頭 車善七の視点からちょっと書いてみたいと思います。
というのも、これまで弾左衛門のことはよく取り上げられていましたが、
このたび河出文庫から出た「江戸の頭 車善七」をみるまでは、
弾左衛門の下の頭、車善七のことをほとんど私は知らなかったからです。
江戸の頭 車善七 (河出文庫)塩見 鮮一郎河出書房新社このアイテムの詳細を見る |
そこで、江戸城下からやがて関八州にまで、その支配下においた弾左衛門とその配下でのみを管理する車善七、それらを語るためには、大雑把に被差別でくくられる・の言葉の区別を確認することから始めなければなりません。
実は、このことは建前上差別の廃止された現代で、研究のために確認される必要があるということだけではなく、江戸時代においても身近な存在でありながらその定義は明確でないことが多く、しばしば奉行の取調べなどの機会のたびに、確認を要し、そのための由緒書が必要とされることで定説が次第に形作られた経緯もあるようです。
弾左衛門の支配下にいる者たちのリストは、以下のように記されてます。
、平家座頭、猿楽、陰陽師、壁塗り、轆轤師、鋳物師、辻売、石切、鉢叩、渡守、笠縫、、一銭剃刀、壷作、筆結、関守、舞々、ニカワ屋、皮屋、獅子舞、オサ師、ハタ大工、説教、紫屋、傀儡師、猿舞し、藍屋、鉢叩、傾城屋、鐘打
順番といい、鉢叩が2回出てくることといい、
宝永ころの人が、「農・工・商」の身分概念におさまりきれない仕事をどんどんと書き出したかのようだ。おまけに最後に「右の外にも多数ありますが、これらはみなの下です」とつけたしていた。そこに歌舞伎が入る(以下略)
いろんな記録をみるにつけ、けっこう曖昧だったことが伺える。
しかし、それらの職業、身分が並んだときには、常にどちらが上で、どちらが下であるのかは、時には生死をわけるほど重要な問題であったようだ。
それで、エタ、と明確に区別され、その下の位置におかれた、無宿などを管理する車善七にとっては、頭としての地位が固まり、その権力が増すにしたがい必然的に弾左衛門との軋轢も微妙に増していくことにもなる。
私は、今まで知らなかったこうした頭 車善七のことを本書でいろいろ知るにつれて、被差別などのイメージとは異なる江戸の風俗、文化を含めた広い視点で江戸下町の様子が見えてきました。
とりわけ、車善七の居住地が吉原が日本橋人形町付近から、新吉原と呼ばれる今の台東区千束付近に移転するに伴い、いっしょに吉原に隣接した土地へくっついたまま移転していることに、その立場の特異な性格があらわれているようでとても興味深く感じました。
それは、紙くず拾いなどによる落とし紙(トイレットペーパー)生産などのリサイクル事業が、吉原や隅田川舟運集積地に隣接していたために、最下層に差別されていながらも非常に安定した収入源として持ってたことにつながり、頭という地位が差別されながらも、結構高い地位をえていたようにも見える。
江戸という大都市が形成されるにしたがい、人口の増加と経済の発展が進み、
物流の拠点として隅田川流域は重要度を増すばかりであったにもかかわらず、
江戸城との距離という便宜性と吉原という文化の狭間で、様々な矛盾を内包しながら発展を続けていっています。
最近、ある科学者が、自然界は生産者(植物)と消費者(動物)と分解者(微生物)によって成り立っているということを書いているのを見ましたが、大都市というひとつの社会の内部をみても同じような構造が成り立っているのを感じました。
とりわけ、現代と比較しても高度なリサイクル社会であったことが知られている江戸で、差別されながらも分解者の立場におかれた人々が、同時に不可欠の存在として求められていたことがよくわかります。
そうした人々の管理者であった弾左衛門と車善七の実像は、繰り返しますが差別問題以外の視点からも、とても興味深いものがあります。
実は、弾左衛門と車善七の間に、猿飼頭という地位がもうひとつあったのですが、
今の猿回しの興行以外のもうひとつの起源を知る大事な意味も、ここで知ることができます。
頭と猿飼頭、頭の三者が処刑場の近くにセットで住んでいたのです。
それは馬との関わりにつながるのですが、興味ある人は、是非本書を読んでみてください。
小さな文庫本ですが、私は付箋だらけになるほどたくさんのことを本書で知りました。
本書に書いてあったことではありませんが、吉原との深いつながりや、その後のテキヤや元締めの起源につながる系譜などを創造すると、
フーテンの寅さんの「車寅次郎」という名前の「車」という姓はここからとっているのではないだろうかと思える。
吉原など、この辺を描いた小説のなかには、周辺の地理や風俗を緻密に描いていながら、あえてこのあたりの描写を避けているものもあります。
それは遠慮というよりも、一部の団体からの糾弾を恐れてということも想像されます。
私は、差別された貧しい人々という側面だけでなく、もっとその社会で必要とされて増殖され続けたという実態から、現代に通じる問題を見てみたいと思うのです。
江戸文化を代表する最も華やかな場所に隣接して、最も差別された立場のものの居住地があった。幕府の意図もあったのだろうが、それは幕府の意図とはかかわりなくとも強烈なメッセージを含んだものであったと思われます。
そのの中心的職務からすれば、処刑場こそもっとも近くであるべきと思うのですが、
なぜか同じエリア内であっても吉原の方に特別の役割があるかのように接している。
この本には地図も豊富に掲載されています。
もう20年ほど前のことでになるか、友人と数人連れ立って江戸下町の地名を訪ねるツアーを企画してまわった思い出がありますが、今こそ、じっくり歩いてみたいものだ。
【おことわり】
ちょっと際どい表現がたくさん出ていますが、
差別的な意図はまったく無いことを
どうか文脈からご理解ください。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます