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吉田勘十と古馬牧(下牧)人形浄瑠璃

2013年06月13日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里


古馬牧人形の由来

 

 下牧(古馬牧)人形が吉田座を名乗るのは、上方の人形師吉田勘十との出会いによりますが、簡潔な説明以外、知られていない大事なことが多いので、ここにその歴史を『古馬牧村史』より引用させていただきます。

 全国には上方から伝搬して根付いた人形浄瑠璃は各地にあり、吉田座を名のる座や、上方からきた吉田某の教えをうけた浄瑠璃芝居もいくつかあるようですが、吉田勘十から秘伝を受け継ぐほどの密接な関係から成り立つ下牧人形浄瑠璃は、単なる郷土芸能の枠で語られるのは惜しいと思われるほど、格別の歴史所以のあるものです。

   

 

 

 

 下牧、牧野神社境内の舞殿が落成した当時は、よくここで村人による奉納人形劇が公開されました。この建物の棟木には筆太に「元治元年上棟」(1864-1865)とあるので、人形のできたのは、これより以前のことであることは確かです。

 しかし、明治四十一年(1908)阿部善三郎宅で公開実演のみぎり、当時人形関係の諸道具のおいてあった木村政蔵宅が火災にあったため、一切の記録が灰塵に帰し、歴史を語る資料が一物もなくなってしまいました。

 人形や衣裳、諸道具などは実演中であったので幸に焼失を免れました。よって以下は、古老の言い伝えを土台にその由来を調査して記録するものとしました。

 

 元禄年間に当時の古老数名が伊勢参宮の道中で人形芝居をはじめて見て、村の若衆の遊び道具にでもと、人形の頭を五個買って帰ったのがもとで、その後一つ二つずつ買い求め、同志7、8人の所有物として演技を楽しんでいたのがそもそも下牧人形の始めでした。

 

 明治八年(1875)、上方の人形師吉田勘蔵の子、勘十は父の勘当に遇い、旅芸人となって人形を遣いながら諸国遍歴に出た。たまたま当地にさしかかった際、彼の人形の振り方の並々ならぬを見て取り、宿を提供し辞を卑うして教えを乞うたので、腰をすえて技を教えることになった。

 昼は農事にはげみ、夜分教えを受けることを若衆は楽しみにしていたが、雨の日は昼夜の別なく稽古したので一名「雨降り人形」と呼ばれるようになった。

 勘十は人形の振り方ばかりでなく、人形を刻んだり、大道具・小道具を作ったりすることに長じていたので、若衆は喜んでいろいろの指導を受け、あるいは人形を新たに造り、または襖を張り、背景の幕作りまどまでするようになった。

 主な面々は、高橋熊太郎、木村福太郎、小林政太郎、池田作次、高橋国吉、高橋藤蔵などで、その作品は現今でも大変珍重されている。

 かくて彼らは追々「ヒキヌキ」「早変わり」など吉田流の極意まで伝授するに至った。

 後に勘十は許されて実家に帰ったが、この間の事情を父にうちあけて語ったところ、父は極意を授けたことを快しとせず、怒りを発してふたたび勘当した。

 

 やむなく再度下牧に立ち戻り、村人に事情を告げたところ、村人は大いに気の毒がり、お礼を兼ねて婿入道具一式を整えて実家まで送り込み、父勘蔵に面会の上、詫口上をもって謝罪に及んだ。勘蔵もその誠意と熱心とに感動して、怒りをとき勘当を許したが、しかし極意を伝えたことは、必ず他言あるまじきよう堅く約束するところがあった。

 その翌年、父は村人の熱心さにほだされてか、人形数種を取り揃え、自ら下牧へ出向いて秘伝公開の興行を星野宅で行った。その時の記念として、人形頭二つを買いうけたのが未だに大切に保存されている。

 

 その後ますます盛んになり、鎮守の祭典にも豊年祭りにも公開するようになり、連中も年々増加するに至った。

 時代はうつりここに警察の干渉があって、人形は「河原乞食」なりとして公開を差し止められ、十五年もの間、箱詰めのままとなった。

 

 明治三十年(1897)不具者鑑札の制度ができて、代表者数名の名義鑑札を受け、久しぶりに松井田武太夫宅で公開した。それより以前にも増して公開の数も多くなり連中の数も増加の一路を辿った。

 かかる情勢を見て村の元老諸氏は、村中たれ彼の区別なく参加できるようにとの気持ちから、共同所有を唱えるにいたり、明治三十八年(1905)正月から壮健団の所有物と名義変更がなされた。

 大正七年(1918)月夜野桃栄館で公開することになったとき、高橋熊太郎から「他村まで出るには奇羅があまりにも破損し汚損していて下牧の恥になる、この際新しく仕立てるなり修繕するなりしては」との発言があり、組合総会となり、有志の寄付などで幕、裲襠などが新調された。 

 しかるに当時は欧州大戦争の最中だったので警察の干渉があり、一般にも遊芸を遠ざける風が生じたので、この時限り人形は再び箱詰めとなった。

 以来昭和八年(1933)まで毎年虫干しに僅かに姿を見せるだけとなり、遣手も漸減の運命にあったが、この年の暮れ十二月三十一日附けをもって、新しく鑑札6枚を与えられ「大いにやれ」とのお言葉をいただき、またまた世に出ることとなった。

 昭和十二年(1937)春の総会のみぎり、区長阿部伊若から、「毎年一回祭りの日には太々神楽の代わりに人形をやっては」との話があり、多数の賛成があって決議され、なお若干の補修なども行うことになり、女子青年団の奉仕で一週間にわたって修理したが、支那事変勃発により一時停止となった。

 

 終戦後はまたまた人気を得て、昭和二十二年(1947)下牧敬老会出演から引き続いて毎年公開したが、このころから後閑祐次やその他有志の方々から「文化財保存」の話が進められ百万奔走せられた結果、昭和二十七年(1952)県関係当局から「群馬県重要文化財」の指定を受け、つづいて「古馬牧人形保存会」が誕生した。

 会則を造り役員を委嘱し、連中には若手数人を勧誘して、公民館落成祝と同時に発足することになった。この年幸いにも早大演劇博物館嘱託山口平八先生の実地調査があり種々ご指導を仰いだ。また二十七年(1952)三月には東大教授文化財保存委員会審議委員藤島玄次郎博士が来村されて、人形および牧野神社の舞殿を視察なされ、種々ご指導導きくださった。

 惜しいことに舞殿は三十七年(1962)火災にあって姿を消した。それ以来四月十五日の鎮守の祭典に毎年継続出演している。

 

 かくて幾星霜を経た人形は顔が禿げ手足が損傷し、あるいは綺羅が汚損したりしたため、またまた後閑・内海両先生のご高配に預かり、修理を施すことになり、昭和四十年(1965)県および町当局から補助を受け、さらに地元部落で各戸から寄附を仰いで一大修理を行った。

 人形の頭は埼玉県本庄市の人形師「米福」に依頼し、綺羅は東京浅草から用布を買い求め、婦人会、若妻会の協力を得て裁縫し、全く面目を一新した。修理後の第一回目の興行は奥利根有料道路すなわち紅葉ラインの開通祝賀に水上町水上中学校体育館で行った。

 

 

         以上、古馬牧村誌編纂委員会編『古馬牧村史』より

        (句読点、漢字など一部、現代的な表記になおさせていただきました)

 

 

 数々の困難の乗りこえてきた歴史の証人、明治期の鑑札

                  吉田座 座長の山田忠夫さん所有

 

 

 

 

 

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