かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

働き方が変わる、学び方が変わる、暮らしが変わる。
 「Hoshino Parsons Project」のブログ

そこはカミの依代。来る人、住む人、みなカミの里

2015年09月08日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里

 先日、東京から来た皆さんに月夜野の月見スポットや矢瀬遺跡、神社などを案内しました。

 その際立ち寄った月夜野神社で本殿の見事な彫刻をみたある人から、ご神体はどこにあるのですかと聞かれました。

 月夜野神社は、21社19祭神もが合祀されている神社です。

 全国どこの神社でも、その時々で人気のある神を合祀したり、江戸時代の一国一城令のように一村一社令がだされて近隣の神社がまとめられたり(南方熊楠が批判しましたが)、神社も長い歴史を生き延びるにはいろいろなことがあったわけですが、どうであれその歴史はきちんと伝えられるべきです。

 月夜野神社の場合、それがどのようなかたちで祀られているのでしょうか。

 「本殿のあの中にまとめられているんでしょうか」などと話していましたが、そもそも神社のほとんどは神様への拝殿場所です。

 実態がどのようになっているのか、私は案内する側でありながら残念ながらきちんと説明することは出来ませんでした。

 ご神体として鏡や神像が祀られていることは確かにありますが、本来、神様は目には見えないもののはずです。

 実際、神社の多くは、その神社の背後にある山や岩などをご神体として崇めるための場所で、建物に対して拝むわけではありません。

 鏡を御神体として祀られている神社も確かに多いようですが、鏡を御神体に祀るようになったのは明治維新以降の場合がほとんどです。

 もちろん、全国にあまた存在する神社の実態はさまざまなので、神社の中にご神体が祀られているところもたくさんあります。

 でも、そもそも目には見えない神様が降り立ったり、とりつく依代(よりしろ)こそが神社のうまれた場所です。

 

 神々の依代(よりしろ)=屋代(やしろ)=社(やしろ)というわけです。

 本来の神社、神道の御神体は、突き詰めれば

   神奈備(かむなび)=山、

   神籬(ひもろぎ)=森、

   磐座(いわくら)=岩、

   靈(ひ)=光

 の4種です。

 

 私たちは、日本の長い信仰の歴史のなかでも、あまりにも明治維新以降の特殊な姿にとらわれているように見えてなりません。

 

 その後、村主神社にある見事なケヤキの木が御神木でること、欅(ケヤキ)=槻(ツキ)=月のことや、埼玉から群馬につながる渡来人文化のことで話しが大いに盛り上がりましたが、拝殿から感じるカミではなく、木々や岩や山によりつく「依り代」こそがカミのいるところであるイメージが大きく膨らんできました。

 かねてからあたためている村主神社の神楽の写真を使った、みなカミの里を表現したポスターイメージがありますが、カミの依代という視点で思いついたイメージをなんとか磨いてみたいと思います。

 

 

 

 

 

広大な平野をうるおす水源地、

みなかみ。

そこはカミの依代(よりしろ)となるところです。

列島を分かち隔てる谷川連峰の頂き

そこはカミの依り代

小鳥や生き物たちを呼び寄せる木々

そこはカミの依り代

蝶や虫たちを呼び寄せる草花

そこはカミの依り代

大地の恵みで人びとが暮らす山里

そこもカミの依り代

それら豊かな自然を求めて人びとが集まる里

そこはカミの依り代

 

だからそこは

ここに来るひと、住むひと

「みなカミの里」

 

 

今では、この「来る人」というと観光客ばかりがイメージされ、観光協会のためのキャッチコピーのように思われがちですが、 かつての時代の「来る人」とは、必ずしも現代の観光客のイメージではありませんでした。

まずそれは「マレびと」であり、
「ほかいびと」「うかれびと」など神事芸人や勧進僧といった神仏の代理人たちでした。

そのほかに訪れる瞽女などの旅芸人や商人たち(薬売り、道具売り・・・)
渡り歩く職人たち(木地師、マタギ・・・)や出稼ぎ労働者など
それら誰もが、貴重な情報の伝達者でもありました。

そうした「来る人」の拠りどころとしての「里」「宿」「村」として大切な場所でもあったわけです。

 

 

神様がどうのこうのということより、カミの依代という視点からみると、

大自然の気の集まるところ、

人の意識の集まるところ

人間の集まるところこそが、

神様にとっても、人間にとっても大事な場所であり、

そうした気の流れを取り戻したり、つくったりすることこそがすべての基本なんだということなのでしょうね。

 

 

カタチはなく目には見えないけれども、あきらかになんらかの「力」のあるもの、それは「風」、あるいは風とともにやってくる匂いや香り、または「ことば」や人の「こころ」あるいは、それらの間をゆきかう「情報」と言えるかもしれません。

それらは必ず「熱」とともに動くものです。

 

カタチのあるものばかりつくる活動ではなく、目には見えないものの流れを大切にする活動。

カミのあるところにそれが集まるのか、それらの流れのあるところにカミが依りつくのか、どちらが先かはわかりませんが、まさに「月夜野百景」http://www.tsukiyono100.comは、そのようなことを目指した活動です。

2017年3月に月夜野神社の紹介を通じて「神さまってどこにいるの?」と題した三つ折りリーフを作成しました。

 

これからどのようにしたらそれが伝えられるのか、取り戻していけるのか、あるいは、つくっていけるのか、じっくりと考えていきたいと思います。

 

 

 


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 手作り箱膳のある暮らし | トップ | きっと今ごろお月さんは、満... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里」カテゴリの最新記事