かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

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 「Hoshino Parsons Project」のブログ

理不尽なことも受け入れる

2009年07月06日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!
昨日の日記は、肝心な部分の説明が少し足りなかったみたいです。

知識、教養を溜め込むことだけで、実践に至らないことの問題はもちろんなのですが、理論そのものの貫徹度から考えた場合でも、実践を軸にしないといけないということと、
自分の今、直面している問題に対しては例外規定を設けて逃げることなく考えることがとても大事であることを強調したかったのです。

えてして「学ぶ」という行為の時間は、
問題解決のための時間ではなく、
目前の問題から逃げるための口実としてつかわれている場合も多いものです。

今、それを調べている
それはこれから勉強しないとわからない、とか。

でも、常に問題を解決するひとの勉強法とは、
走りながら学んでいるのです。
事前の勉強よりも、問題に向ってまずスタートをきってしまい
必要なときだけ後ろを振り返るのです。

この場合、当然準備不足ですから、予想外の様々な問題に直面します。
それでも、こうした方法をとる人は、その準備不足を失敗とは思わずに突き進んでいきます。
準備に時間をかけない分、予想外のことが起きるのは当然と思っているからです。

スタートをきるまえに、あれこれ起こるかもしれないことを並び立てて考えていることよりも、
スタートを先にきって現実にその場で対策を考えるほうが、問題の焦点がはっきり見えて合理的であると考えるからです。


突如、自分に問題がふりかかってきたとき、

そのひとの考えることのなかに、
それは自分の専門外とか、
それはわたしの担当外とか、
それは常識外であるからとか、
それは例外とか、
そん理不尽なことまで自分が責任を負う筋合いはないとか、

そんな言葉を吐いたその瞬間、

そのひとは、真の問題解決の道から遠ざかってしまうのです。

現実に自分に降りかかる問題とは、
自分のいま持っている思考の範囲内だけで解決できるようなことは少なく、
常に、
そんな馬鹿な、
そんな無茶な
そんな理不尽な
といった現実とともに降りかかってくるものです。

その経験外のこと、常識外のことを
自分の問題解決に不可欠なこととして逃げることなく立ち向かえるかどうかこそが
ほんとうの問題解決に至れるかどうかの大きな分かれ道だと思うのです。

学び問うということは、
過去の経験のあること、考え方のわかっていることだけで済ませることではなく、
まさに経験外のこと、予想外のことに直面したときこそ、
真に「学び」、「問う」作業の真っ只中なのです。

多くのひとは、せっかくのその機会を
それは私の担当(専門)ではないから、
それは経験が無いから、
そんなことまで私がする筋合いはないから
といってその機会(チャンス)を避けてしまいます。

でも、そのときのあなたは確かにそのことの経験や知識はないかもしれませんが
また、その専門(担当)ではないかもしれませんが、
さらには、そこまでする筋合いのない人かもしれませんが、

そこにいたときは、
また、そうした声をかけられたときは、
まぎれもなく、まわりの誰よりもあなたが選ばれた存在であることに気づかなければなりません。

それは自分の専門(担当)ではないけれども、自分が選ばれた
まったく経験のないことだけれども、なぜか自分が選ばれた
そんなことまでする筋合いはないけれども、なぜか自分がそこにいた。

この瞬間こそ、神様があなたに微笑んだ瞬間とでもいうか
「わたし」というものの真の実態
または真の個性、創造的人格の発見、
がスタートするかどうかの大事な瞬間だと思うのです。

ここに踏み込むには、
自分にとっていかに理不尽なことでも受け入れる覚悟、
「理不尽なこと」というときつく感じるかもしれませんが、
自分の身にふりかかることは、すべて受け入れる心構えのようなものがとても大事だと思うのです。

この世の自然界、宇宙にはそもそも「理不尽なこと」など存在しません。
それは人間のこころだけが、勝手に決めていることで
偶然と思われることでも、理不尽と思われることでも
自然界や宇宙ではすべてが起こるべくして起きていることなのです。

それを偶然と感じたり、理不尽と感じたりしているうちは、
自然界の法則ではなく、自分勝手な都合で物事を判断しているということに他ならないのです。

この原則を受け入れられないうちは、どんなに精緻な思考や学問を積み重ねても
真実にいたることはそもそも不可能であると思います。
(その場の自分に都合のよい結果だけなら得ることができるかもしれませんが)

そういいながら私は、理不尽なことをなんでも受け入れられるような立派な人間ではありません。

でも、ひとつ、ふたつぐらいのことならば受け入れようと覚悟を決めています。
(私の場合は、今はひとつだけですが)
ひとつだけでも自分の覚悟でそれが出来ると確信できれば、
自分ひとりの考え方ひとつで、次におきた理不尽なことでも、きっと積極的に受け入れることができるようになると思います。

自分の身に起こったこと、降りかかったことは
一見どんなに不合理なこと、理不尽なことでも受け入れる姿勢があってこそ
「我」に固執しない広い世界が見えてくるのであり、
ほんとうのそのものごとの解決に至る道を見つけ出すようになれるのだと思っています。
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