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 「Hoshino Parsons Project」のブログ

還暦のむかえ方

2011年02月13日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!
 わたしは、人の生き方としては、60歳がその人のキャリアのピークになるように人生設計するのが望ましいといったようなことをどこかで聞いて、それを理想と考えていました。

 おかげ様で、だいたいそれに見合ったペースで、今のところ物事はうまく運んでいるように思えたのですが、最近、この考え方も少し修正をせまられるようになりました。

 一般的には、60歳の還暦という表現からは、干支(十干十二支)が一巡し、本卦還り(ほんけがえり)一回りしたことに、ややUターン、折り返し点のニュアンスを含んでいるかにも見えます。

 ところが、仏教の次のような言葉の説明を聞くと、また違ったイメージがわいてきます。
 これは、酒井大岳さんの本『愛語に学ぶ』(すずき出版)で知ったことです。


 真宗では、「往相(おうそう)」「還相(げんそう)」ということを説いています。
 以下は紀野一義『大悲風の如く』(筑摩書房)の孫引きです。


「・・・・・・往相というのは、好きになって夢中になりどんどん入っていく方である。阿弥陀さまというのはなんだろう、仏さまというのはなんだろうとぐんぐん求めていく方、これが往相である。

そしてついに仏をはなんであるかということがわかったところからもどって来なければならぬ。自分が仏に生かされているなという安心感をつかまえたところでポーッとしていてはならぬ。すぐにくるりと向きをかえてもどって来なければならぬ。もどって来て迷っている人々の中に入り、ひとりずつ自分にご縁の深い人から順に、そのことを教えてあげなければならぬ。それを還相という。

行きっ放しではならぬ。行ったら必ず戻って来なければならぬ。苦しんだら苦しみの中でつかんだことをまわりの人々に教えてあげなければならぬと思う。嬉しかったら嬉しかったということを、また、まわりの人々に教えてあげなければならぬ。救われたら救われた世界を教えてあげなければならぬ。さとったら、さとった風光を、また、他の人に悟らせなければならぬ。こういう風に往きと帰りがちゃんとそなわっているのが仏法のやり方である」

 


 気持ちのいい表現ですね。
 こうした言葉を聞くと、「還暦」の還を「還相」の還と解釈することも十分可能に見えてくるのです。

 60歳は、キャリアのピークとしてむかえるのではなく、戻ってくる還相の折り返し点、
もしくは、これまで学んだこと、お世話になったことを返すことのピークを60歳にもっていくような考え方をしてこそ、自然で理にかなった生き方といえるのではないでしょうか。

 高齢化社会になり、今どきは50、60の若造がなにをぬかすかと先輩たちに怒られかねない時代ですが、きっと60も過ぎたら、もう学んでから教えるなんては言ってられない世代なのでしょう。

 私もプレゼンテーションなどをするたびに、自分の知っていることを伝えるつもりが、伝えるときになってはじめて、まだ何もわかっていなかったことを知り、伝える側に立ってこそより多くのことを知ることが出来るのだということを痛感させられるのです。

 教える、他人に返すということは、必ずしも上からされるものではありません。
 それは、決して上下の関係であるものではなく、他者とのつながりをつくろうとする意志のあるころにこそ生まれるものです。

 そう考えると、「還相」とは、必ずしも「往相」のあとにくるものとは限らないともいえるようにも思えます。

 そうするとやはり、還暦は還相への折り返し点ではなく、還相のピークの時期と考えてもよいのではないでしょうか。


 わたしはまだ還暦までは時間がありますが、それまでの時間の活かし方がみえたような気がしました。

 
でも、世のおじいちゃん、おばあちゃん、
もっといっぱい、いろいろ教えてくださいよ。
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