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 「Hoshino Parsons Project」のブログ

そっちじゃない。「旅」と「読書」

2018年07月06日 | 「近代化」でくくれない人々

月並みな表現ではありますが、この「旅」と「読書」という言葉は、対にしてこそ意味が活きるのではないかと思いました。

それで次のような写真デザインを作ってみたわけです。

 

旅も読書も、ともに家を飛び出して行ってみなければわからない世界、本を開いて読んでみなければわからない世界です。

その先にある世界は、どちらも日常からは想像のつかない世界であるだけに、無理に行ってみなくてもよい、強いて読まなくてもすむ世界が対比されています。

その意味では、音楽を聴く、映画を見ることなども同じかもしれません。

ただ、一般的にはこれらの圧倒的部分が娯楽市場の枠内での話になってしまっているので、その先の説明がとてもし難い面があります。

圧倒的部分が娯楽市場の枠内にあるからといって、それが悪いという話ではありません。

強調したいのは、娯楽市場の実態如何ではなく、その市場の外側にあるものを大切にして問いたいという話です。

確かにどんな娯楽市場の枠内であっても、未知の世界を体験することに変わりはないのですが、それが時間やお金の消費にとどまってしまうかどうかの違いが問われないと、「自分」「私」という主体がどこまでいっても見えてくることがないからです。

どう表現したら良いのかまだうまくつかめていないので、例によってこのあたりは追々書き足していくつもりでいます。

 

先に「自分」「私」といった主体と書きましたが、それは必ずしも抽象的な「個人」を指すものではありません。

それは、時には「地球生命」や「人類」といった類的な主体であったり、

「現代人」「戦後世代」「昭和生まれ」などといった歴史的な主体であったり、

「日本人」「◯◯県人」、田舎者・都会人、といった地域的主体であったり、

さらには、男性・女性、妻・夫、親・子、若者・高齢者といった生物的・社会的主体であったりします。

そうした様々な条件を背負った「私」や「自分」が体験する「旅」と「読書」の連続した体験を積み重ねることの意味です。

 

私には、このような視点でどうしても書かずにはいられないもう一つの背景があります。

それは最近のSNSの傾向です。

一貫して私は好みではないにもかかわらず不本意にお世話になり続けているfacebookのことなのですが、facebookが実名でのコミュニケーションを売りにしていながら、限りなく「没パーソナル」なコミュニケーションの方向にばかり加速している違和感のことです。

不特定の相手とのコミュニケーションが拡大することの必然なのかもしれませんが、いつも残念に思うのは、mixiのプラットフォームがtwitter型タイムライン重視に変わってしまったときから、mixiのコミュニティー機能で行われたようなダイナミックなコミュニケーションの場がみるみる減っていってしまいました。 

さらにインスタグラムの拡大で、画像メインのコミュニケーション比率が増え、その傾向はさらに加速しています。

いずれもタイムライン型の一本の流れの上にあらゆる情報が並ぶ方式なので、枝葉を広げる情報は避ける傾向になります。
そして「いいね」を中心とした「前向き」「了承」シールをただ貼り付けるだけの場としてのみ、広がる傾向にあります。

画像は画像で、情報量そのものは言語以上に多い面もあるので、それも進化のプロセスであると期待してはいるのですが、ここで話を戻すと、どれもが限りなく「時間の消費」にばかり向かってしまっている傾向に我慢ならないのです。

本来は、「時間」こそが「価値」の実態であるわけですから、「時間の消費」自体は悪いことではないはずなのですが、そこに「私」「自分」という主体が前に出て来ないと、どこまでいっても作り出す側になれずに、消費=買わされる、受け取る、了承するばかりの時間になってしまうのです。

この自分の時間を生み出すということで「旅」と「読書」というのは、それを問う格好の素材のはずなのですが。

 

こうした構造が、世の中の土壌作りの作業環境をどんどん減らし、土壌作りがされない環境下でのヒット商品づくりのテクニックのみをどんどん加速させていきます。

もっとも、土壌がないからこそ、ヒット商品への依存が高まっていくのかもしれません。

もちろん、いつの時代であってもマス市場こそが圧倒的多数であることに変わりはないのですから、マス市場の外側のつぶやきは相手にされなくて当然のことなのですが、その外側の少数派の発言チャンスをネット技術が革命的に保障してくれるようになったにもかかわらず、なぜかネット技術が浸透するほどに、リアルと同じマイナーな世界を排除していく傾向も同時に加速しているのです。

長い歴史の間、「旅」や「読書」の世界こそが、そうしたマス市場の側に与しない「まつろわぬ」人びとの砦であったはずなのに、市場の力、売れなければ存在価値もないかのような論理、検索にヒットしなければ存在しないに等しい論理にすべてが押しつぶされそうになってしまっています。

私が深く関わっている本屋の世界でも、本屋が減って大変だ大変だと騒がれてはいますが、先のマス市場に与しない「まつろわぬ」人びとの味方になることで経営を維持しようなどと考える業者はほとんど生き残る余地はありません。

多くの現場では、悲しいかなその気概さえ失われています。

先のmixiがコミュニティー重視よりも、一律のタイムライン重視に変わらざるをえなかったのと同じ理由で、本の世界も「文化」や「多様性」を口にしていながら実態は限りなくベストセラー依存の均質性の方向に向かっているのを感じます。

 

私は、デジタル化の恩恵もかなり受けている側なので、必ずしも紙の文化に強く固執しているわけではありませんが、アナログ的読書や旅の良さの核心は、それが紙の質感によって保たれている面もありますが、それ以上に「私」や「自分」という主体を意識した情報や体験であることにこそあるのではないかと思っています。

どんな書体でも、レイアウトでも、文字色でも、媒体でも、簡単に変換でき、移動できるデジタル情報に対して、 

時には「地球生命」や「人類」といった類的な主体であったり、「現代人」「戦後世代」「昭和生まれ」などといった歴史的な主体であったり、「日本人」「◯◯県人」、田舎者・都会人、といった地域的主体であったり、さらには、男性・女性、妻・夫、親・子、若者・高齢者といった生物的・社会的主体などの具体的制約を受けて、

容易には変換しにくい情報、転送しにくい体験。


それこそが、「旅」と「読書」の一番ダイナミックな魅力の部分なのではないかと思っているのですが、ここが問われないただアナログの文化、紙の文化だけを守ろうとする論調に終始してしまうのが私は残念でなりません。

 

 

 

毎度、頭の中が整理されないまま書き散らしている文で恐縮ですが、まとめきれないまま今日はここまでにさせていただきます。

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