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 「Hoshino Parsons Project」のブログ

師(もろ)の金山(かなやま)

2014年11月27日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里

師の龍谷寺東方に、松に覆われた円形の小山が見えます。

これが師の金山です。

 

『古馬牧村史』から概要説明を以下に転記させていただきます。

 

この金山には、金鉱を採掘した三十余の坑道があり、人間がやっと這い込める程度の細いのや、運搬車の楽に入ることのできる大きなもの、垂直に掘られた竪坑、斜めに掘られた斜坑等様々なものがある。

何時の頃から掘られたかは不明であるが、享禄三年ー天文元年(1530ー1532)三浦沼田勘解由左衛門顕泰(万鬼斎)が、沼田築城に使用した金は、この金山から採ったと言伝えられて居る。

また天和元年加沢平次左衛門著の「上野国沼田領品々覚書」の中、師の金山が戸神山、東小川と共に出ていることから、沼田領内の金山としては古くから知られていたものと思う。

 

 この山の南麓からは、昔金鉱石を粉砕するのに使われた石臼が、多数発掘されているからかなり古くから原始的方法で産金されたのであろう。

また江戸時代の初期キリスト教弾圧の際には、難をのがれた切支丹の指導者東庵も鉱夫としてこの金山に潜んだとも伝えられている。

 

 この金山の特徴は、金鉱脈が全面的には無く、点々として有り、時には鉱石1トンあたり百グラムに及ぶ含金量があったと言う。普通5グラム以上あれば企業として採算がとれたのである。しかしこうした良質の鉱脈を持ちながらもその量が少ないため、企業としてはなりたたず、昔から多数の鉱山師が入り代わり立ち代わりして掘ったが、成功したものは少なかった様である。

                (引用ここまで)

 

 前に、みなかみ町のまちづくり協議会の師さんから、子どもの頃はここへ遊びに行ってよく金塊をとってきて、ちょっとした小遣い稼ぎをしたなどという話を聞いたので、早速、協議会会長の馬場さんに案内していただき、金山に行ってみることにしました。

 馬場さんも、すぐに行って来れる場所だから、いつでも案内できるとのことでしたので私も気安くお願いしてしまいました。

 ところが、後に知ったのですが、馬場さんが前日に行ってみると、久しく行っていない場所だったので、薮がひどく生い茂り、相当な草刈りをしないととても入れるような状態ではなくなっていたらしいのです。

 馬場さんには、前日に鉱山跡につながる山道の草刈りをしていただき、大変な苦労をおかけしてしまいました。

 

いたるところにイノシシの掘り返した痕があります。

業者が捕獲檻を設置したりしているそうですが、ほとんど効果はないとこのこと。

右側はずっと沢になっていて、そこはかつて田んぼ(長い棚田)として利用していたようです。

田の石組みがずっと続いていました。 

 

 しばらく進むと、ガレ場があり、

鉱山から掘り出した大量のズリを捨てた場所に出ました。

このズリの量からも、相当掘ったことが想像されます。

 

 

今でも、下を掘れば鉱石は出てくることでしょう。

 

 

左側は、鉱石を運び出したトロッコのレール跡。

薮が無ければ今でも道として使えそうなルートになってます。

 

ここも坑道の穴があった場所だと馬場さんが教えてくれましたが、今は完全に埋まっています。

 

 

右の方をあがっていくと、やっとひとつの坑道跡の穴が見えてきました。

 

のぞき込むと、奥は塞がっているように見えましたが、こうした穴にはよくコウモリが棲みついて、夏でも冷たい風が奥から出てくるといいます。 

 

このような坑道が、大小三十余りもあったという。 

 

 

鉱山の歴史をみるのはとても面白いものです。

大まかに歴史を振り返ると、奈良の大仏建立の時代、日本全国から銅、鍍金のための金や水銀が大量にかき集められました。

その頃、都の支配が日本全国にゆきわたることと同時に、全国各地から金や銅、水銀、鉄などをはじめとする資源がかき集められるようにもなりました。

以来、金を産出するところを持つ奥州藤原氏などは栄華を誇り、その噂はシルクロードを通じて遠くヨーロッパにまで伝わったほどです。

やがて戦国の時代になると武田信玄をはじめ勢力拡大のための軍資金として鉱山開発の重要性はさらに増しました。

戦国から江戸初期にかけては、鉱山開発のひとつのピークにあったと思います。

戦国時代にそれほど大きな勢力を持っていたとはいえない沼田藩が、五層の天守を持っていたことなどは、おそらく地元に豊富な金などを算出する鉱山を持っていたことも大きな要因だったのではないでしょうか。

しかし、その勢いも鉱山を掘り尽くし、奥へ奥へ、地中のより深くへ進むにしたがって、排水などの労力が要るようになり、採算をとることがどこも難しくなっていきました。

そこで安い労働力として罪人などを使うようになっていったようですが、たとえ安い労働力でも過酷な労働条件、作業環境のままでは結局生産性は上がらず、結局、多くの鉱山は衰退もしくは閉山への道をたどりました。

ところが、また明治時代になると、富国強兵政策のために資源開発は不可欠となり、さらにそこに近代技術が導入されることで、第三の隆盛期をむかえることになりました。

近代技術の導入による隆盛もありながら、他方、戦争という過酷な環境が突きつけられると、それまで見捨てられていたような鉱山にも、再び開発の波が押し寄せてきます。

それが昭和初期の姿で、群馬では太子などの草津方面や、この師の金山などが再び注目され出しました。

しかし、どこも効率は悪く、その多くが終戦とともに閉山の道をたどりました。

 

鉱脈をみつけられるかどうかは、いつの時代でも博打のようなものです。

一攫千金を夢見て、山を探索し続けた人、どれだけ採れるか確証はないまま、莫大な投資をして大損をした人、また歩合払いの賃金に憧れて、短い生涯を終えていったあまたの鉱夫たち。

どこも悲しい物語にはこと欠きませんが、狭い谷あいや穴の中での人びとの息吹をみると、一般の農村風景以上に、とても濃い人間社会があったことがわかります。

 

この師の金山に、どのような人間ドラマがあったかまではわかりません。

でも、『古馬牧村史』には、以下のような鉱山開発にかかわった人たちのことが記されています。

 

 明治四十年(1907)頃、下川田の人 平井新吉が師の高橋太市等と共に山の北面に新坑道を掘り、これを長峯下に、水車による砕石精錬工場を設けて採金したが、採算が合わず二年程度で閉鎖したという。 

 更に昭和四年(1929)後閑の人 石川実が鉱区試掘権を得て、静岡県の人 笠原某と共同経営で採掘し、鉱石を日立鉱業へ売却したが、昭和六年太田の中島商事会社に権利を譲渡、更に昭和十一年には、東京の人 高橋喜一に譲り、東京のホテル千代田館主笠原賢蔵に依って、通称千代田坑が掘られ、昭和十三年には後閑入河原に製錬所が設けられ、日産八トンの鉱石が処理された。

このころは、支那事変(ママ)も拡大の一途をたどり、軍需物資購入のための金の需要もまた増大し、国庫補助により採算を度外視しての事業が続けられた。

しかし人手不足のため、生産の合理化の必要に迫られ、一年ほどで製錬所は閉鎖され、再び日立へ鉱石のまま送られることになった。

 更に戦局の進展に伴い、昭和十六年(1941)には企業整備により、国策会社に本産金振興会社に統合されて発掘が続けられたが、昭和十八年船舶の不足と共に航海の自由も束縛され、金に依る貿易が不可能になると共に、他の軍需物資の国内生産が緊迫化したので、金産業は国策により棚上げ状態になり、遂に中止された。


 昭和二十四年終戦後の復興機運が高まるにつれて、また金産業も復活し、足尾の鉱山師仁平豊松により東西に大切り坑が掘られ、間もなく権利を山師某、更に沼田の星野宏に譲り、昭和二十八年ごろまで掘られたが、何れも採算が合わないのか、その後休止されている。

 こうして数世紀に亘り発掘された金山ではあるが、これにより採算の合った者は少なく、昔僅に下師の馬場弥吉(年代不詳)が、拾った金を売って、“大分限”になったとか言う話が語り伝えられている程度である。


 余録として、昭和二十八年ごろ掘られた坑道から多量の湧水があり、極く近くの水田では冷水と弱い鉱毒のため稲の生育が悪いが、下師方面の水田は、従来四ヵ村堰の流末のため、非常に水不足していたのが、この水のお陰で田植も他地区より早くできる様になり夏の渇水期でも大変助かっていると言う。


                             以上『古馬牧村史』より


今度は師の師さんに会って、清水の流れ出たルートのことなど教えてもらってから、北側の様子を見に行ってみようと思います。


参考brog 群馬の金山   http://www12.wind.ne.jp/tensyo/gh03/kinzan/kinzan.htm

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