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かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

働き方が変わる、学び方が変わる、暮らしが変わる。
 「Hoshino Parsons Project」のブログ

江戸の非人頭 車善七

2008年04月26日 | 「近代化」でくくれない人々
この間に書き続けているシリーズのタイトル、
未だにしっくりしたものが浮かばないのですが、
とりあえず「近代化でくくれない人びと」としています。

今回は カテゴリーの括り方にもよるのですが、
約・第21回になります。

ここでは「近代化」という言葉を明治維新や敗戦後の戦後国家の体制づくりに限った表現としてではなく、戦国時代から江戸期にいたる天下統一のプロセスや大和朝廷など古代国家形成時期なども含めた、統一国家の形成エネルギー総体を指すものとして勝手な意味合いを込めて使っています。

そうした統一国家形成期には、必ずそれに対する抵抗勢力の存在があり、
多くの場合、権力闘争に敗れたものは敗者として退けられますが、
特別な敗者でない場合でも、そうした異なる立場を様々な方法で統一することに組みしきれない人びとは、いつの時代にも存在しています。

それは明確な中央に対する抵抗を伴わない場合でも、
中央からは執拗に排斥されるのが常でした。

わたしは、これらの流れを、中央についていけない「抵抗勢力」としてだけではなく、
単一な企画統一に組みしきれない、社会の本来あるべき多様な自然な姿を現す大事なエネルギーを持つ存在として、あらためて見直してみたいと考えているのです。
(私は密かにそれを、これからの時代の「私たち」の姿として見ています)

また、差別などの側面以外からこの問題をとらえると、
都市への人口集中や農村の貧困化や飢饉などの災害などを契機にした、
「作られ続けた差別された人々」を「安全に管理するシステム」として、
見直すこともできます。

こうした人びとの典型的な姿をみる材料として、
これまで信長の時代の一向一揆や「百姓ノ持タル国」のこと、
しばしば中央権力と手を組みながらも、絶えず組織の枠に捉われない階層としての特徴を持ち続ける修験道・山伏や忍者などについて、
さらにはといわれる士農工商の身分に入れない様々な人々、
あるいは戸籍を持たない無宿やサンカなどの非定住民たちのことを
シリーズでとりあげ、さらに書こうとしてきました。

そこで今回は、近代化とともにつくられ続けられた人びととして、
江戸時代から明治維新にかけての「」「」のこと、
とりわけそれらの階層の代表管理人的立場にある弾左衛門と
頭 車善七の視点からちょっと書いてみたいと思います。

というのも、これまで弾左衛門のことはよく取り上げられていましたが、
このたび河出文庫から出た「江戸の頭 車善七」をみるまでは、
弾左衛門の下の頭、車善七のことをほとんど私は知らなかったからです。

江戸の頭 車善七 (河出文庫)
塩見 鮮一郎
河出書房新社

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そこで、江戸城下からやがて関八州にまで、その支配下においた弾左衛門とその配下でのみを管理する車善七、それらを語るためには、大雑把に被差別でくくられる・の言葉の区別を確認することから始めなければなりません。

実は、このことは建前上差別の廃止された現代で、研究のために確認される必要があるということだけではなく、江戸時代においても身近な存在でありながらその定義は明確でないことが多く、しばしば奉行の取調べなどの機会のたびに、確認を要し、そのための由緒書が必要とされることで定説が次第に形作られた経緯もあるようです。

弾左衛門の支配下にいる者たちのリストは、以下のように記されてます。
、平家座頭、猿楽、陰陽師、壁塗り、轆轤師、鋳物師、辻売、石切、鉢叩、渡守、笠縫、、一銭剃刀、壷作、筆結、関守、舞々、ニカワ屋、皮屋、獅子舞、オサ師、ハタ大工、説教、紫屋、傀儡師、猿舞し、藍屋、鉢叩、傾城屋、鐘打

順番といい、鉢叩が2回出てくることといい、

宝永ころの人が、「農・工・商」の身分概念におさまりきれない仕事をどんどんと書き出したかのようだ。おまけに最後に「右の外にも多数ありますが、これらはみなの下です」とつけたしていた。そこに歌舞伎が入る(以下略)

いろんな記録をみるにつけ、けっこう曖昧だったことが伺える。
しかし、それらの職業、身分が並んだときには、常にどちらが上で、どちらが下であるのかは、時には生死をわけるほど重要な問題であったようだ。

それで、エタ、と明確に区別され、その下の位置におかれた、無宿などを管理する車善七にとっては、頭としての地位が固まり、その権力が増すにしたがい必然的に弾左衛門との軋轢も微妙に増していくことにもなる。


私は、今まで知らなかったこうした頭 車善七のことを本書でいろいろ知るにつれて、被差別などのイメージとは異なる江戸の風俗、文化を含めた広い視点で江戸下町の様子が見えてきました。

とりわけ、車善七の居住地が吉原が日本橋人形町付近から、新吉原と呼ばれる今の台東区千束付近に移転するに伴い、いっしょに吉原に隣接した土地へくっついたまま移転していることに、その立場の特異な性格があらわれているようでとても興味深く感じました。

それは、紙くず拾いなどによる落とし紙(トイレットペーパー)生産などのリサイクル事業が、吉原や隅田川舟運集積地に隣接していたために、最下層に差別されていながらも非常に安定した収入源として持ってたことにつながり、頭という地位が差別されながらも、結構高い地位をえていたようにも見える。

江戸という大都市が形成されるにしたがい、人口の増加と経済の発展が進み、
物流の拠点として隅田川流域は重要度を増すばかりであったにもかかわらず、
江戸城との距離という便宜性と吉原という文化の狭間で、様々な矛盾を内包しながら発展を続けていっています。


最近、ある科学者が、自然界は生産者(植物)と消費者(動物)と分解者(微生物)によって成り立っているということを書いているのを見ましたが、大都市というひとつの社会の内部をみても同じような構造が成り立っているのを感じました。

とりわけ、現代と比較しても高度なリサイクル社会であったことが知られている江戸で、差別されながらも分解者の立場におかれた人々が、同時に不可欠の存在として求められていたことがよくわかります。

そうした人々の管理者であった弾左衛門と車善七の実像は、繰り返しますが差別問題以外の視点からも、とても興味深いものがあります。

実は、弾左衛門と車善七の間に、猿飼頭という地位がもうひとつあったのですが、
今の猿回しの興行以外のもうひとつの起源を知る大事な意味も、ここで知ることができます。
頭と猿飼頭、頭の三者が処刑場の近くにセットで住んでいたのです。

それは馬との関わりにつながるのですが、興味ある人は、是非本書を読んでみてください。
小さな文庫本ですが、私は付箋だらけになるほどたくさんのことを本書で知りました。

本書に書いてあったことではありませんが、吉原との深いつながりや、その後のテキヤや元締めの起源につながる系譜などを創造すると、
フーテンの寅さんの「車寅次郎」という名前の「車」という姓はここからとっているのではないだろうかと思える。


吉原など、この辺を描いた小説のなかには、周辺の地理や風俗を緻密に描いていながら、あえてこのあたりの描写を避けているものもあります。
それは遠慮というよりも、一部の団体からの糾弾を恐れてということも想像されます。

私は、差別された貧しい人々という側面だけでなく、もっとその社会で必要とされて増殖され続けたという実態から、現代に通じる問題を見てみたいと思うのです。

江戸文化を代表する最も華やかな場所に隣接して、最も差別された立場のものの居住地があった。幕府の意図もあったのだろうが、それは幕府の意図とはかかわりなくとも強烈なメッセージを含んだものであったと思われます。

そのの中心的職務からすれば、処刑場こそもっとも近くであるべきと思うのですが、
なぜか同じエリア内であっても吉原の方に特別の役割があるかのように接している。



この本には地図も豊富に掲載されています。
もう20年ほど前のことでになるか、友人と数人連れ立って江戸下町の地名を訪ねるツアーを企画してまわった思い出がありますが、今こそ、じっくり歩いてみたいものだ。


【おことわり】
ちょっと際どい表現がたくさん出ていますが、
差別的な意図はまったく無いことを
どうか文脈からご理解ください。

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やはりスゴイ!白洲正子『かくれ里』

2008年04月23日 | 「近代化」でくくれない人々

最近、私のエージェントから直販雑誌「和楽」の白洲正子特集の号を借りた。
白洲正子の代表作『かくれ里』の取材詳細地図がついているのが見たかったからだ。

あらためて、名著『かくれ里』の着眼や取材の深さを感心させられた。

今、多くの人がこの『かくれ里』というタイトルだけを見たら、
おそらく平家落人伝説などのある山里ばかりをイメージしてしまうだろう。

しかし、白洲正子の眼は、そのようなものよりは遥かに深い歴史の部分を見ている。
それは、いわゆる雰囲気のある山里の風景といったようなものではなく、
まさに埋れた歴史の「かくれ里」といったような所のことである。

この本は一度函入り本が復刊されたが、講談社の文芸文庫版となってから
常にその文庫シリーズ売上げで上位に位置しているロングセラーでもある。

いったいどれだけ多くの人が、この本に触発されて近江の地を訪れたことか。

もちろん私もそのひとり。
もう20年くらい前になるか、この本を読んだ直後、
タイムカードに「会社がイヤになったので、しばらく休ませていただきます」
とのメモ書きを無造作に貼り付け、車で西へ飛び出していったことがある。

で、その当時、本だけでは手がかりもつかめなかった数々の場所が、
この地図を見ると明解に記されている。
でも、ここまではっきりと記されていても、現地に行くとなかなかたどり着けないもの。
また行きたい。
この近江周辺は何度でも行きたい。

かつてホームページを見た人から、おすすめの場所とかはどこですか?
との問い合わせを受けたことがある。
その時、私は、こう説明した。

日本列島は、どうしても長手方向、東西の流れで見てしまう傾向がある。
それに対して私は、能登半島から紀伊半島にかけての縦の線に
歴史の流れではなく、歴史が蓄積して堆積しているような面白みを感じる。
その中心が近江、琵琶湖。
もちろんそれは湖そのものではなくて、琵琶湖周辺という意味。

かつてのヨーロッパでは地中海がその中心であったように
日本では琵琶湖が、その文化の中心であったといっても過言ではない。
地図で見る琵琶湖のスケールからすると、
京の都など、縮尺を間違えているのかと思うほど
ほんの小さな部分にしかすぎない。

北陸道、中仙道、東海道が交錯して京へつながる要衝として
戦国時代には最大の舞台となっていた。

また、本州のかたちからすると
若狭湾、伊勢湾に挟まれた異常なクビレた部分に琵琶湖が収まっている。

(今回で21回になるのか、この連載シリーズの多くの話題も、能登半島から紀伊半島にかけての縦の線上にかかわるものになっている)

北方民族の流れからは、日本海がその文化の中心になる。
(北から見た地図で日本海を中心に文化をとらえることを赤坂憲雄が提起していた)
南方民族の流れは、もちろん太平洋から。

しかし、それらは、面として接しているだけでなく、
明確な起点となる場所を持っている。
それが太平洋の場合は紀伊半島の先、熊野。
日本海の場合は、能登半島とその対極の窪みである若狭湾。

私はそんなイメージから、日本列島の文化の流れのベクトルを
「〆」の字でとらえる。
〆の長い線はもちろん日本列島の北海道から九州に至る流れ。
それで短いバッテンで交錯する部分が能登半島から紀伊半島に至る流れ。

で、〆の跳ね上がっている部分は九州から朝鮮半島、そして大陸へつながる流れ。

〆という字は「締める」「閉める」「絞める」などのイメージだが、
手紙の封そのものの「封印」されているというイメージでとらえると
一層、歴史の深みに想いが届きそうな気がしてくる。

その日本文化の封印され蓄積されているものが、
東西の文化、経済の流れのなかにではなく、
能登半島から紀伊半島にかけて琵琶湖を軸にした縦の流れのなかにこそ、
滔々と流れ点在して見てとれるのです。

まぎらわしいかな群馬に暮らすわれわれ現代人からすると、
房総・伊豆半島、東京湾から新潟に抜ける線こそ、長い日本列島を分割する境界に値するラインに見えるかもしれないが、残念ながら日本列島全体を封印する軸は、ここではない。
天皇すら、皇居とはいいながらも江戸城跡地に居候する身だし。。。


そんな視点を白洲正子の『かくれ里』は、私に示してくれました。
本のなかで直接そんなことが書いてあるわけではないけど、
そうした視点の大きな影響をまぎれもなくこの本から得ました。

いかなる歴史学者も
いかなる民俗学者もたどり着いていない
日本の歴史を見つめる視点がここにはある。

やがてこの視点は
風水の話など「水」とのかかわりで陰陽師の話へ
それはそのまま環境問題から生命のエネルギーの問題へ
あるいは「石」「鉱物」とのかかわりで修験道の話へもつながっていく。

私のこの連載は〆の字の封印された部分をずっと追及していく予定です。



  正林堂店長の雑記帖 2008/4/1(火) より転載
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信長が生涯を通じて闘った相手

2008年04月23日 | 「近代化」でくくれない人々
戦国時代を語るとき、私たちはどうしても信長、秀吉、家康、信玄、謙信などの力関係を軸に語りがちです。
しかし、戦国時代を切り開いて天下統一へ導いた信長の生涯をよくみると、
最も多く闘い、破れ、長期にわたって信長が争い続けた相手は
決して武田信玄でも、徳川家康でも、ましてや浅井、朝倉でもない。
信長が生涯を通じて闘い続けた相手は、
一向一揆に代表される浄土真宗であったといえるのではないでしょうか。

しかもその対峙する性格は、
武田信玄や上杉謙信、徳川家康などは、
どちらかというと領土拡張と天下取りのライバルであって
目指す方向では競いあってこといたものの必ずしも真っ向から対立していたわけではない。
考え方の面からも根本的に相反する相手とは、一向宗たちであったと思う。

堕落しきった坊主どもの総本山としての比叡山を焼き討ちしたこととは異なり、
一向一揆に対する闘いは、単なる仏教に対する弾圧目的だけではなく、
現実的な武装勢力としての脅威や、
天下統一の経済支配を確立する大きな障害として、
一大名の存在以上に、信長にとっては憎く邪魔でならない存在であったのではないかと感じられる。

現実に長島一向一揆には三度も負け戦を強いられたばかりでなく、その内容も
弟の信興を自刃に追いやられるばかりか、二度目の闘いでは信長自身が命からがら岐阜の地へかえれたありさまだった。
また石山本願寺との闘いは10年にもおよび、他の一揆のように根切りにすることもできず、かろうじて勝てたものの和睦のかたちをとらざるをえなかった。

また一向一揆以外の、武田や浅井・朝倉を相手にした戦いをするたびに、背後で絶えず信長の足元を脅かし続ける存在でもあった。

では、なぜ一向一揆は大名の武装兵力などのような組織化された集団とはいえない農兵の集まりであったにもかかわらず、それほどの強さを誇れたのだろうか。

もちろん、その一向一揆の存在は、反信長連合たる武田信玄を中心とした将軍足利義昭、三好・松永・浅井・朝倉などを一環のなかで補強・支援されあう関係にあったのであるけども。

それは信長個人の性格の問題だけではなく
戦国時代に天下統一を成し遂げようと考えた場合、
明治維新や敗戦後のアメリカの占領政策などとも共通した
「近代」化政策にともなう国家の一元管理システムづくりが根底に必然であったからだと思うのです。

時代を超えて、国づくりを推し進めようと考えたとき、必ず「近代化」の名のもとに、
合理的一元管理の社会システムの構築が求められますが、
一向一揆の場合は、単にそれらの改革に対する「保守」勢力としての立場での反乱ではなく、上からの統制管理に対する民衆の「多様な」反抗の現われとして、時代を超えた象徴的存在であったと感じるのです。

今までの親鸞の思想を軸にした話とはまたガラリと内容が変わりますが、
そのような一向一揆とはどのようなものであったのか、
その強さの秘密はなんであったのかを次回に書けるかどうかわからないけど書きます。




正林堂店長の雑記帖 2008/2/28(木) より転載
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誤解されやすい親鸞・浄土真宗

2008年04月23日 | 「近代化」でくくれない人々

誤解の多い異端の宗教、浄土真宗のことを理解してもらうために
歎異抄のなかの有名なくだりの話をもうひとつふたつ先に書いておきたい。

親鸞が唯円に、おまえは私のことを信じるかと訪ねるところがあります。
それにたいして唯円はとうぜん「もちろんです」と応える。
「ならば私のいうことは何でも聞くか?」
「かなずおおせのとおりにします。」
すると親鸞は、
「よろしい、ではまず人を千人殺してみよ、そうすれば浄土への往生は間違いない」
というと唯円は
「おことばではございますが、私には千人どころか、ひとりでも自分では殺すことはできそうにありません」
「ならばどうして親鸞の言うことに決して背かないといったのか」

ここに究極の合理主義的宗教(そんな定義がなりたつのかはわからない)の問題提起があります。
この問答ばかり有名になってしまい、オウム教団のときにも引き合いにだされたりしましたが、大事なのはこの次の親鸞の言葉です。
親鸞のことばは次のとおり。

「これでわかったであろう。

もしなにごとも自分の意志によって事が成るとしたら、浄土へ行くために千人を殺せと言われれば、ほんとうに殺すかもしれないではないか。

それができないというのは、べつにそなたの心が善いからではないのだよ。

それは自分の意志によって、殺すことができぬのではない。
なんらかの状況においては、人は苦もなく百人、千人を殺すこともありうるのだ。

このように、自分の心が善であれば往生にも良く、悪であれば往生の妨げになるなどと自分で判断してはならない。

自分の意志によって善となっているのではなく、
悪をなすのも、悪の意志によってなされるものではない。

阿弥陀仏はそれを前提として、善悪かかわりなく救うと約束されたのである。

そのことを忘れないように」


ここに「他力」思想の魅力、修行や努力の積み重ねは大事であるが、それで簡単に人間が完成されるようなものではなく、さらに努力をしていないからといって、その人間存在を安易に卑しめるようなものではないという親鸞の深い人間観がある。

人間とは、究極には了解しえない存在かもしれないという怖れの感覚、人間というこの未知なる存在の前に、まず辞を低くして心を澄ましてみようとする謙虚な姿勢が親鸞の思想、「他力」の考えのなかにはあふれている。

このことを前提にして、最も有名な
「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」」
の意味に静かに耳をかたむけなければならない。


がっ!

この親鸞の深遠な問いかけ、
歴史を振りかえると、インテリ知識人にとても注目されているにもかかわらず
あるいは日本の宗教改革ともいわれる鎌倉仏教の高い評価のわりに、
現実の信仰やその後の日本人の日常意識の間には根付いていない。

そのことを語り、
突破口を見出すために
親鸞のから時を経て、蓮如以降の時代に
あまり知られていないフランス革命より早く大規模に実現した
一向一揆衆によ平等思想社会「百姓ノ持チタル国」のことを
これから考察してみたいのです。

いったい、いつになったら本題に入れるのか
はたまた入れないのか?
私も知~らないっ。


   正林堂店長の雑記帖 2008/2/26(火) より転載
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死シテ屍 拾フ者ナシ

2008年04月23日 | 「近代化」でくくれない人々
前回、忍者と修験道・山伏の仕事を同時にひとりの人間がこなしている例をあげましたが、また当初の予定とは違う流れに行きます。
毎度、無計画ですみません。

真田忍者がそれまでの通常の忍者よりも高い地位が認められていたことが、
池波正太郎の小説のなかだけの話ではなく、先の資料で忍者養成隊長が岩櫃城城代にまでなっていることから史実として立証されていますが、
だからといって、多くの忍者の地位が高かったとは決していえません。

低い身分ながらも、自らの技能を損得を抜きに、命まで賭けて供する集団。
かれらをそこまで使命に一途に駆り立てていたものはなんだったのだろうか。

そこにはなんらかの宗教的信念もあったかもしれない。
戦国時代の真田氏のように仕える主君に惚れ込んで忠誠を誓うものもあったことと思う。
自らの技能・技術に対する誇りから生まれる意識もあったことだろう。

しかし彼らは常にいかに手柄をたてても名を残すことはない
常に無名の「影」と呼ばれるような存在にしかすぎませんでした。

そうした彼らが、報酬のためでもなく、名声のためでもなく
自らの命すらも賭して職務を遂行した背景はなんだったのだろうか。
これまで
差別されたり貧しい立場におかれた人々の精神的支柱として広く普及していたのは、
浄土信仰、浄土真宗がよく引き合いにだされてきました。
(このことは、のちにふれます)

でもここで私は、あえて歴史的根拠はありませんが、
最もそれにふさわしい思想として
ビックコミックに連載されていた中国の「墨攻」が思い出されるのです。
原作は酒見賢一。『墨攻』新潮文庫。
2007年には森秀樹による漫画を原作に、中国で映画化もされました。

まさに趙の軍勢2万が攻めてこようと追い込まれた小国、梁は、謎の墨子教団に援軍を求める。しかし、そこに現れたのは革離という男、ただひとりであった。
その城に今、兵と呼べる者は千五百がやっと。
革離はいう。
「御心配には及びません。それだけいれば十分です」

てなことからはじまるのですが、
文庫原作もコミックも両方おすすめですよ。



墨子は賎民であったとされる。おそらくは工人階級の出で、思想家とならなかったら名職人として名を馳せたにちがいない。また墨とは刺青された者、つまり受刑者を意味するのではないかとも言う。どちらにしても、当時の身分制の最下位にいる。墨子が儒を学びながら、儒者と根本的に異なったのはこのあたりからきている。彼だからこそあらゆる階層に、「以て人を愛することを勧めざるべからず(人を愛することをすすめずにはいられないのだ)」ということができた。
 
                       酒見賢一


墨子・墨家とは、
中国戦国時代に墨子によって興った思想家集団。
諸子百家のひとつ。
博愛主義(「天下の利益」は平等思想から生まれ、「天下の損害」は差別から起こる)を説き、その独特の博愛主義に基づいて、専守防衛に徹する。
その「非攻」の思想とは、当時の戦争による社会の衰退や殺戮などの悲惨さを非難し、他国への侵攻を否定する教え。
ただし、防衛のための戦争は否定しない。
このため墨家は土木、冶金といった工学技術とすぐれた人間観察という二面より守城のための技術を磨き、他国に侵攻された城の防衛に自ら参加して成果をあげた。

また、儒家の愛は家族や長たる者のみを強調する「偏愛」であると排撃したことなどにもより、当時広く受け入れられることはないあまりの先進的思想だったためか、秦の中国統一後は歴史上から消えてしまった。

          (以上、ウィキペディア「墨家」、「墨子」参照)

こうした概要を見ればみるほど、
私は、この墨家の思想が、真田一族とその忍者たちの姿にだぶって見えてしまうのです。


久しく、ビジネス中心の世界に生きていると、
どんなに崇高な理想があったとしても、それは
具体的な成果を金銭に換算できないようでは、
たとえそれがどれほど正しいことであっても
結局、自己満足にしか過ぎない、
といった見方にわたしたちは容易に反論することは出来ない。

しかし、今話題にしている忍者や
歴史上その多くは差別されてきた様々な無名の職人たちの
見事なその仕事ぶりをみると、
たとえ金銭に換算されなくても
歴然とした価値を燦然と輝かせている世界があることを
私たちに思い出させてくれます。

今流行の「品格」などといった言葉をつかうよりも、
こうした仕事、職務に徹する姿勢こそ
「カッコイイ」と感じる私たちの目指したい世界なのだけど。。。。



 
   正林堂店長の雑記帖 2008/2/8(金) より転載
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安倍晴明以外の陰陽師集団のこと

2008年04月23日 | 「近代化」でくくれない人々

仏教、神道とならぶ日本宗教の三本柱のひとつであった修験道を軸に書いてきたつもりでしたが、修験道にもっとも隣接するものとして陰陽師があります。

数年前から安倍晴明がブームになり、
陰陽師もその伝説キャラクターの加持祈祷スーパーマンの側面ばかり
イメージがひとり歩きしてしまったような感じがします。
もっとも、2004年は安倍晴明の1千年忌であったわけだから、
単なるブームといわずとも、騒がれて当然の時期ではあったとは思います。

私は、ブームの時の漫画や小説、映画は何も観ていないので申しわけありませんが、
『親信卿記』『小右記』『御堂関白記』などの貴族の日記などに記されている安倍晴明の姿というのは、
加持祈祷で怨霊を打ち負かすような話はほとんどなく、
いたって真面目で冷静な宮廷に使えるほとんど今の風水師のような一陰陽師であったようです。
日時の吉凶を占い、良い方位を選び、災厄・汚穢・罪障を浄める禊祓を行い、外出に際して反ぱいを行う、など。


(ちなみに、今、お店でやっているバーゲンブックのコーナーに、今度、講談の安倍晴明CD付きを仕入れます。たぶん売る前に自分で買っちゃうかも)

しかし、ここで取り上げたい中心は、
珍奇なオカルト現象や興味本位で陰陽師の秘儀を読みとくようなことではなく、
宮廷に使えた一部の陰陽師のほかに
多数の下級陰陽師といえるような人々が、修験道、山伏に匹敵するほどの影響力ももった民衆に身近な存在があったということであり、
それは、長い人類の歴史のアニミズムとシャーマニズム、さらには日本的信仰に連なる、
もっと普遍領域に属する問題と感じるからです。


陰陽師は修験道と同じく、
明治維新による近代革命で、民衆を無知蒙昧にとどめおく輩として、陰陽道を布教することも、陰陽師を名乗ることも法的に禁止されました。
これは、修験道の廃止令と異なり、
朝廷、天皇と密接にかかわってきた陰陽師が、天皇制の復活強化の時に排斥されるという奇妙なねじれ現象がでています。

しかし、このねじれは、陰陽師の発生した当初からその奇妙な関係を持っていたともいえます。

宮廷に使える陰陽師は、その当初から国の統率の根幹である「暦」の管理者でもあることから、極めて尊敬された地位を持っていながらも、その最高位は宮廷貴族に比べると、
非常に差別された低い官位であったようです。

それは古代から宮廷に使える技術者集団の多くが渡来人によって担われてきたことにもよると思われるのですが、大まかなながれをみると、
まず、五世紀の頃にヤマト王朝が成立してから、六世紀中期に仏教と儒教を統治政策の根幹に取り入れるようになる。
さらに七世紀に入ると陰陽・五行説も最新の方術として採用されるようになったが、道教は国家宗教としては認められなかった。
道教系の信仰は、役行者に代表される、民間の巫げきや山野に伏して修行する修験者が担った。

この古代の渡来系のシャーマニズムと日本に既に存在していたと思われるシャーマニズムの関係は、一筋縄では解明できないが、中国の考え方によると、

素朴な民俗信仰ではあるが、北東アジア特有の巫術が古代の中国では「小道」と呼ばれた。「大道」は国家統治の法であり学である儒教・儒学をさしたが、それに対し「小道」は卑俗な民間信仰を意味した。
「小道」は「左道」とも呼ばれ(た)。

ついでに付言しておくと、白川静の『字統』によれば、呪術巫儀を「左道」と呼ぶのは「右尊左卑の観念」が基底にあった。左右の原義は、右手に祝祷の器、左手に呪器を持って神に祈ることにあり、「左」という言葉には、本来的に呪術の意が含まれていたのである。
                沖浦和光『陰陽師の原像』岩波書店より

こうした思想が根底にあったためと思われますが、それともうひとつ、渡来人に対する差別があったと考えられています。

それにしても陰陽寮で働く官人たちの官位は低い。長官である陰陽頭も六位である。五位になって初めて下級貴族の仲間入りができるのだが、陰陽師は出世しても、朝廷で朝廷で枢要な地位を占めていた貴族の仲間入りをすることはなかなか出来なかった。典薬寮に勤務する医師や薬師も同じだった。この種の役所には優秀なテクノクラートが揃っていたのに、なぜ中・下級官僚にとどめられたのか。
さしあたって考えられるのは、(略)陰陽・五行説をはじめ、医学や本草学に通じていたのは、縄文時代以来この列島にいた在来系ではなくて、大陸からやってきた渡来系氏族だった。それも弥生・古墳時代の頃から定住して畿内の豪族となっていた古い家系の出ではなかった。たぶん五、六世紀の頃の比較的新しい渡来系の出身者が多かったのではないか。             
                         (前掲同書より)


こうした国家中枢にいた陰陽師とは別に、在来の民間に多くいた陰陽師も
国家が法制化した「触穢の体系」の普及浸透とともに、増えていったものと思われる。

そのなかでも陰陽師が深く関わった触穢の分野は以下の三つといわれる。

第一、死・産・血、それに糞尿などの排泄物が「汚穢」とされたが、そこから発現するケガレは目に見える実態だった。さらにケガレは、「穢気」として空中を浮遊するから始末が悪い、その穢気に触れるとケガレは次々に伝染するとされた。それを防ぐためにさまざまの禁忌が設けられた。

第二、アニミズム的思考がまだ色濃く残っている時代では、生命力の根源である〈気〉が萎えてくると、「気枯れ・気離れ」の現象が起きるとされた。これはもともと道教系の思考だった。そして活力の源である〈気〉を回復するためには、さまざまの呪術的秘儀と修練が必要とされた。

第三、不可視のモノで、自在に空間を動き回って人間の生命を脅かすものもケガレとされた。病気の因となる「邪気」、祟りをなす「物の怪」、人の目に見えず恐ろしい威力を発揮する「鬼神」などである。

これらの思想が浸透していくなかで
民間のなかの陰陽師集団も発展していったことが想像される。

「それぞれの郡に、斃牛馬処理などを兼ねたキヨメ集団が二つ、陰陽師・雑芸能・竹細工などを兼ねた集団が一つ存在していた」(三浦圭一「中世近世初頭にかけての和泉国のおける賎民生活の実態」『歴史評論』第三六八号 1980年。

 元禄期の頃までには、この前者が「」村となり、後者が「宿」となっていく。

と、このあたりになってようやく『カムイ伝』の背景も見えてくる。
ほんとは、もう少し陰陽五行説に詳しくふれて、民間信仰に密接な陰陽師の姿を書かなければならなかったのですが、だいぶ長くなってしまったので、毎度、尻切れトンボながらこの辺までにします。


しかし、再三強調しておきますが、
特定の職種・職能のみでそれに従事する人々を特定の階層に位置づけることは、
いつの時代でも無理があり、その誤解から新たな二次差別を生むことにもつながっていることを再度記しておきます。

陰陽師集団が、宮廷周辺以外の在野に多くいたことが、
今のイメージではちょっと想像しがたいかもしれませんが、
こうした庶民の間での「触穢の体系」の浸透していったことをからめると、
修験道・山伏に次ぐ影響力のあった集団であったことも容易に想像されるのではないでしょうか。

今の占い、風水ブームをこういった歴史の視点からもう一度とらえなおすことも大切だと思います。

だいぶ今回は「引用」が多くなってしまいましたが、
「陰陽師」だから。。。



正林堂店長の雑記帖 2008/2/5(火)より転載



『陰陽師たちの日本史』角川選書/斎藤英喜 著
https://www.youtube.com/watch?v=zASU13hV3B4&feature=youtu.be

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河原乞食と芝居

2008年04月23日 | 「近代化」でくくれない人々

そうそう、昨年の全国地芝居サミットの会場となった
三原田の歌舞伎舞台と観客席の櫓組があまりにもすばらしかったので、
地方芝居、地方歌舞伎・人形浄瑠璃や
とりわけ群馬は多く残っている歌舞伎舞台のことを整理してみたいと思っていました。
「全国地芝居サミット」
http://blogs.yahoo.co.jp/hosinopp/19020319.html

いわゆる河原乞食とよばれる賎民から生まれた芸能の世界
歌舞伎、人形浄瑠璃、万歳などへ発展していく系譜や
その歴史と構造にはとても興味が湧きます。

このところ毎度紹介させていただいてる沖浦和光氏は
近世の歌舞伎芝居は三層構造になっていたといいます。

「上層にあったのは、京、大阪、江戸のいわゆる三都の町奉行から櫓免許を得ていた、天下公認の大芝居である。
中層にあったのは、神社や寺院の境内で興行していた小屋がけの芝居、いわゆる宮地芝居である。興業は百日に限られていたので百日芝居とも呼ばれたが、見物席には屋根がなく、櫓、回り舞台、引き幕は許されなかった。低料金なので繁盛したが、天保の改革で全国的に取払いを命ぜられて断絶した。
それよりもさらに下層にあったのが、「役者村」から出た旅回りの一座であった。」

大芝居の役者たちは、近世中期からいちおう脱賎民化したとはいえ、もともとの出自は「河原乞食」であると、つねにさげすまれてきた。
四世市川団十郎の
「錦着て たたみのうへの 乞食かな」
という有名な句はその意識のあらわれ。

それで近世の歌舞伎は、享保、寛政、天保と幕政の大改革が行なわれるたびに弾圧をうけて、店天保期には、三座の大芝居もついに浅草猿若町に強制移転を命ぜられた。
穢多頭弾左衛門の敷地とに隣接する土地である。
かくして浅草の地に、典型的な〈悪所〉が形成された。

(この辺のことは、酔いどれさんがたぶん詳しいことでしょう。)

役者たちは居住地を制限され、深網笠の着用を強要され、武士や町人との交友も一切禁じられた。
役者の代表格であった七代目市川団十郎は、身分もわきまえず「奢侈 潜上」の科をもって、みせしめのために手鎖をされて江戸から追放された。

旅回りの一座の役者たちは、なかには大芝居に劣らぬ名優も出たのであるが、流浪の旅をつづける漂泊芸能者として賎視された。
彼らは、たとえば夙(宿)のようないわゆる雑種賎民と同じ身分としてあつかわれ、通婚も自由ではなかった。役者同士の結婚であって、農民や町人との通婚は全くありえなかった。

ある古老の思い出話の紹介
「あたしが役者をやめた頃は、まだ芝居の役者は世間から乞食かなんぞのように、さげすまれておったんです。芝居の座を解散にふみきったのも、これが一番の原因ですたい。そん時、あたし達は先祖が役者やったということを、断じて隠し通そうと誓うて、衣装や小道具、書きものなんか残らず処分してしもうたんです。それは明治36年のことでした。」

こんな話を知ると、歴史文化財として各地に残っている回り舞台跡など、ただ時間とともに流行らなくなり、古くなって廃れたというだけではない歴史の実像が見えてくる。
とても重いですね。


群馬の赤城山麓周辺にたくさん残る歌舞伎舞台も、決してすべてが公認された舞台としてあったわけではないらしい。

おお、ちょうど渋川の正なんとか堂とかいう本屋でやっている、みやま文庫のフェアに群馬の芝居小屋についての本があるではないですか。

「五人組帳の前書きは年頭に読み上げられて、芝居は禁止されるべきこととの条項が明らかにされていた。踊(芝居)を願い出ても差留めになったのである。舞台が神社のすべてに出来ているといっていい程に多いのは、神への信仰という農村のかくれみのであり、かくれ芝居が実施されていたことでもあろう。」
            『近代芝居小屋考・群馬県』みやま文庫

このたびの地芝居サミットに参加した小学生などの例でもそうですが、
村に来た専門職業集団の芝居を見て村人が感動するとともに、
自分たちでもやってみたいという村のなかから育った芝居も数多く存在していました。
全国の地芝居は、プロの興業集団によるものよりも、むしろこうした地域から育ったもののほうが主流であったのでしょう。

かたやそのなかにはプロ化していく中に、アマチュアとしての活動範囲の模索もあっただろうとも思います。
やがて映画の時代の到来とともに、芝居小屋が映画館になっていったもの多いのですが、そこには昭和に至る時代のひとびとの哀歌も感じますね。
当然のことながら、まだテレビもラジオもインターネットも無かった時代、人々は舞台の役者の、一挙手一動に注目して歓声をあげていた様子が目にうかぶ。



  正林堂店長の雑記帖 2008/2/4(月) より転載
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明治維新以来、百数十年の遠回り

2008年04月23日 | 「近代化」でくくれない人々
しばらく思いつくままに話はアチコチに飛んですみません。

先の内山節さんの講演会で、修験道は神道、仏教と混交した姿を本質とし、
明解にそれぞれを分離させることができなかったばかりに、
国家神道を中軸に新しい国つくりを目指す明治政府から徹底的に排斥されたといった旨の話がありましたが、修験道と同じように排斥されたものに
まず陰陽道があります。
そしてまた様々な民間信仰もその排斥の対象とされました。
(陰陽道なんて、本来は天皇制と密接にからんだ信仰でもあるのに・・・)

ヨーロッパの合理精神を積極的に取り入れ近代国家の建設を目指した明治政府が、
非合理的と思われる信仰の世界を排斥した一方で
世界史に逆行した王政復古と国家神道を強化していったことは、
尊王攘夷の嵐吹き荒れる当時の社会状況の上とはいえ、
今から思えばアクロバット的政策判断であったとも思えます。
酷い政策だけど、その政策指導力には
ちょっと拍手喝さいしてあげてもいいような気さえする。

そして山伏や陰陽師とともに
民間信仰の領域で諸国を遍歴していた遊行者・遊芸民たちも
新政府の応じて各府県でも禁令が布告されました。

例えば群馬県では、
「一、乞食・。
 二、梓巫・市子、
 三、瞽女(ごぜ)
 四、辻浄瑠璃・祭文読之類」は
県内に立ち回った場合は
「順次管外へ放逐」する、と指達している
   (群馬県令、明治六年五月九日)

さらに加えていえば、
大道芸をやりながら啖呵売で「ガマのアブラ」などの薬を行っていた「香具師(やし)」も禁止されました。
彼らは「野巫薬師」だった。
香具師を名乗ることが出来なくなり、それからは「テキヤ」と呼ばれるようになった
(のだよ、寅さん)

と、書くと
明治政府ばかり酷かったように見えてしまいますが、
戦後「民主主義」下での反右派の流れのもとで失ったものもそれに劣らず大きい。
戦後民主主義下では、逆に国家神道と儒教的なものの見かたとともに、宗教そのものが非科学的な人間の未熟な意識としてまでみられるようになってしまい、廃仏毀釈ほどの強行こそなかったものの人びとの宗教に対する色目はキツイものがありました。

私たちの日常的な民俗儀礼の多くは仏教に基づくものといえますが、
人生の大きい節目で行なわれる通過儀礼や季節の変わり目で催される民俗行事は、
その表層を剥いでみると、
意外に道教・修験道・陰陽道の濃い影がみられます。

それらの地域の風俗習慣は、信仰の側面を持っていたとはいえ、
それがまさに風俗や習慣であったことで、
様々な排斥圧力にもめげずに各地に残ることができたのですが、

これら百数十年の間に失われたものを
調査研究し、文化財的な保存を試みることは既にとても困難を極めています。

それでも最近では各地の郷土史家などの努力を通じて盛んにおこなわれるようになってきていますが、
これらのことがらが、地域社会でどのような積極的な役割持っているのかということについては、文化保存ロマンチズム以上の研究は意外とされてきていません。

今、ようやく注目されるようになったのは
それらの復活ではなく
それがどのような意味を持っていたのか、ということの問い返しです。

ずっとここへの書き込みが先送りになっている
内山さんの最新刊『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』は
そうした問いかけを主題にした本です。
この本では1965年を境にした変化に注目していますが、
明治維新以来、百数十年の間
「近代国家の建設」とともに、国家神道一元化や反神道、宗教へと揺れ続けながら
大事なものをずっと失い続けてきてしまいました。

この問題に、ずっと郷土史家の問題意識が歴史保存研究のレベルに止まってしまっているのは、
ここから先の「こころ」のありようの問題を話題にすることが、とても難しいからなのだと思います。

でも、この百数十年の遠回りをしてきた歴史を取り戻すことは、
とても大事なのです。
その作業を「かみつけの国 本のテーマ館」
http://kamituke.hp.infoseek.co.jp/
はチビチビと重ねているつもりなのですが・・・
(今、ちょうど広告非表示の期限が切れて、更新手続きができず、余計な広告表示が入ってしまっているので、リンク紹介はツライ!)   

あれ?
明治維新にふれて、はじめは何を書こうとしたんだっけ?
なんかはじめ考えてたのと展開が違ったような。

ま、いいか。
また、つれづれに続けます。
遊行民、河原乞食、芸能の民の方へ行こうか、
雑技職能集団「忍び」「草の者」の方へ行こうか。
南方文化と海の民の方へ行こうか。




      正林堂店長の雑記帖 2008/2/3(日)より転載
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圧倒的アドバンテージ・土地所有

2008年04月23日 | 「近代化」でくくれない人々
前回、非定住民が差別されたり、貧困におちいる原因として、
食っていくための源資としての、田畑や山林などの土地所有から隔絶されていることを根本原因として指摘しました。

またちょっと話がそれますが、
このことは、国や民族を問わず、人類にとって大事な視点なので
差別以前の問題として少し補足しておきます。


前に、江戸期以前の日本の山林の管理には
「所有」の概念が無かったということを書いたことがあります。
日本人にとって山林は、天賦自然のものであって
個人が所有する筋合いのものではなかったと。

山から木を伐る。
鳥獣の狩猟をする。
山菜や木の実を採る。
薪などの燃料を取ってくる。

これらの権利は、
特定の個人が山を所有することで保証されるものではなく、
それぞれの用途で山に入る者それぞれに
その山の「利用権」として与えられるものであった。

ひとつの山が
狩猟をする者には、狩猟の権利を持って山に入ることが許され、
別の者には、木を伐採する権利のみ認められるといったように。

また、上野村など、ある地域では
「山に上がる」という言葉があり、
なんらかの事業の失敗や災害などで借財を抱えたり、財産を失ったりしたとき、その者を村公認で「山に上げる」という。

そのものは村から味噌などをわけてもらって
山に建てた仮小屋にしばらくにこもる。
その山にこもっている間は、誰の山の木を伐っても
どこの山に入って山菜を採っても許される。
かつて山にはそれだけ豊かな恵みがあったということで
今では実現できない話であるけれども
私有の概念が入った山林であっても、
公共の財産として利用するすがたがよく見えて面白い。

ここに、自然そのものが
人間によって所有管理される筋合いのものではなく、
自然それ自身の生命の恩恵に人間が、生物全体があやかっているという
人間中心ではなく、自然中心の社会観がある。

これは、なにも日本独特のものではなく
地球上の人口全体から見れば、この考えに基づいている社会の方が多く、
むしろ世界史的には、ヨーロッパ狩猟民族だけが
個人による「所有」概念を自然に、世界各地に
拡大していった特殊性があるように見えます。

そればかりか今では、
この土地そものの本来の公共的性格は、
資本主義国内であっても、
環境保護のために必要とされる自然や
公共性の高い都市部の土地などは、
個人の私的所有の対象ではなく
国によって管理されるべき公共のものであるという考えが多くなっている。

それは市街地の商店街などにおいても
個々の店を所有している事業者それぞれは、私的利益を追求する個人の集まりにすぎないが、
商店街や地域という視点でみると、
単純な個人事業者の集まりではなく、地域という
公共性を支えあった事業者の集まりで、
私的利益の追求だけでなく、町の行事に参加したり、
それぞれの事業が地域の経済循環を支える大事な構成部分であることから、その土地の事業権として、事業の意志とは別に
それぞれが極めて高い「公共性」を付与されているともいえる。

日本の土地バブルを生んだ中曽根政権時代を境にして
投機の対象としての土地、
所有していれば、間違いなく値は上がっていくものとしての土地
という考えは、
この半世紀ほどの間に急速に世界に広まってしまいました。

しかし、ようやく
世界各地で、環境保護の視点から
都市部の景観保護や計画的街づくりなどの視点から
土地というものがそもそも「公共の財産」であり
個人によって所有されたり売買されたり
あるいは投機の対象にされるような筋合いのものではないということが
公然と主張される時代になってきました。

公共性の高いものは
所有権によってではなく
利用権によって保証されるべきであると。

ちょっと前の時代なら、こんな話をしただけで
それは共産主義思想だなんていわれたものですが、
もうイデオロギーを問わずそうしたことが語られる時代になってきています。

こうした
極端に進化した「私的所有」の考えに対して
「公共性」という「目に見えない社会資本」の概念が
今、世界で少しずつ浸透しだしています。


ところが、このことが、歴史を振り返ってみると
定住民と非定住民との間で
日本の歴史のなかでは
土地を所有しない非定住民のなかでも、
その多くは差別されながらも
「公共性」や目に見えない社会資本にあやかる環境が、
現代の孤立したホームレスや失業者に比べたら
まだ豊かなものがあったともいえるのではないかと感じてしまうのです。

まだまだ、あっちこちに話が飛びそうだな。
許してね。


  正林堂店長の雑記帖 2008/2/1(金)より転載
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非定住民・賎民の文化

2008年04月23日 | 「近代化」でくくれない人々
山伏の話をしてきて、それが鉱物資源の管理者の側面が強いということから、その運搬の主要手段を担う海洋民族との接点も強いことが想像されることに触れました。

こうした話になると常に、様々な非定住民とのかかわりが思い浮かんできます。
酔いどれさんがサンカのことを話題にしたのも偶然ではないと思います。

ここで話題になる山伏、サンカ、マタギやなどは
いづれも文献的な正史で語られてこない領域だけに、
被差別の問題との間で誤解や混同も起こりやすいだけでなく、
時代によっては、現に断定しがたい混合形態もたくさん存在するものと思われます。

西日本を中心に300を超えるを訪れて古老からの聞き取りや資料調査を行った沖浦和光氏は、それらの実際の職能の領域を以下のように語ってます。

彼らは、産業技術の領域でもなくてはならぬ仕事を担ってきた。
優れた皮革加工技術によって、楽器・武具・衣装を作った。
農耕の必需品であった竹細工、井戸や池堀りや道普請などの土木、石切・石垣積みなどもやった。
鍛冶や鋳物師、石灰堀りや鉱石採取、染色、火薬製造、灯心つくりをやってきたもあった。
薬草を採り医療や獣医をやった民もいた。
山の保林や川の水番を仕事としたもあった。
狩猟や漁業、塩焼きや鵜飼いを専業とした民もいた。
庭師や植木職も、銀閣寺をはじめ室町期の名庭園にかかわった山水・善阿弥以来の伝統を引き継ぐものであった。

        『天皇の国・賎民の国』河出文庫より

こうした職業の列記をみると、
職種の系譜こそあるものの、職業だけで被差別民やサンカと決め付けることに無理があることがよくわかります。

わたしは、こうしたことから
ホームページでとりあげているサンカやマタギ、真田忍者「草の者」などをとりあげるとき、それぞれをあまり専業職能集団とは限定せず、

田畑や山林などの土地所有を源資として食っていくことの出来ない
多能の人々

といったような意味で表現しています。

こうした意味でとらえると、
差別、被差別にかかわりなく、
土地所有から切り離された人々のなかに
文献的な正史では語られてこなかった、
もうひとつの正史の姿が脈々と流れているのを感じるのです。

しかしこの歴史も
中央権力の整備されるたびに
秀吉が海賊禁止令を出して瀬戸内の水軍を絶滅したように
徴税、徴兵などの法制が整備されるたびに
戸籍管理強化とともに新たな差別強化と排除の繰り返しをしてきた経緯があります。

ここに、制度を問わず、近代国家の成立と不可分の関係があるのですが、
先日の書き込みにも書きましたが、
このことが現代において
土地所有から切り離された新たな賎民の拡大の実態を想起させられることに私はいつも話しをつなげたいと思っています。



賃労働・サラリーマンという雇用形態が
分業化による生産性拡大といった表面の姿をとりながら
その実態は「働くことで生きる」という実態から「疎外」された
自己の能力の拡大よりも
参加することでしか自分の能力の発現機会を得られない立場となった
現代の賎民像、といったら失礼な表現になってしまいますが、
このことをあえて問題にし続けたいと思ってます。



    正林堂店長の雑記帖 2008/1/31(木) より転載
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マタギの巻物・通行手形と修験道

2008年04月23日 | 「近代化」でくくれない人々
修正削除移動 傑作(0)
午後 7:22かみつけの国 本のテーマ館群馬県 Yahoo!ブックマークに登録 マタギの持つ巻物は修験道が発行したものなのだろうか?
修験道の話の続きで、「かみつけの国 本のテーマ館」のなかから
以下の話を転載します。


マタギが持っていたり、東北地方の各地見つかっている巻物は精粗様々であり、巻物の体裁をとるもの、一枚紙に書いたもの、ああるいは帳面式に綴ったものなど、形式も様々で、そのすべてをひとくくりに決め付けることはできないでしょうが、大きくわけて二つに分けられるといいます。

 一つは狩人の祖として万次磐三郎、あるいは万三郎なる人物を説き、この人弓矢の名人として日光権現を助けまいらせ、全国の山々谷々どこでも狩りをしてよろしい、また獣肉をたべてもけがれないという許しを得たと説くものである。民俗学の方では通例この系統に「日光派文書」の名を与えている。
 いま一つの由来は、狩人の祖となった者は安田尊であって、昔弘法大師が高野山を開くとき協力した功により、野獣の霊魂を救う引導の法をさずけられたという内容をもつ。これを通例「高野派文書」と呼ぶことにしている。




この「日光派文書」が、群馬との関わりでも、とても興味深い内容を持っています。

 その内容の大体をいうと、昔万字万三郎という人があり、もともと祖先は皇室より出たが流浪して下野日光山の麓に住み、鳥獣を射て生計を立てていた。そこで弓の名手といわれ空飛ぶ鳥ものがさぬ人と名が高かったが、ある時、山中で白い鹿を見て三日三夜これを追ったところ、何度矢を射ても当たらず、ついに日光社前まで追って行った。ところがたちまち白鹿は失せて日光大権現の姿となり、「万三郎よ、汝をここまで連れてきたのは自分である。自分は年来赤城山の神と争っているが勝つことができない。我が姿は蛇、赤城は大百足であるので尋常では勝てぬ。汝は天下の弓の上手であるから、我を助けて赤城を射よ。」と仰せられる。万三郎が謹んで命に従うことを申し上げると、白木の弓と白羽の矢二本下さって、いついつつぎの合戦があると告げられた。

 さてその日ともなれば大風雷電して天もくらくなる。そのなかに赤城明神の姿が現われるのを、万三郎かの弓と矢で射て見事に明神の両眼に射当てた。このため赤城明神は戦に負けて引き返す。日光権現大いに喜び給い、万三郎に日本国中山々岳々どこで狩りをして差支えないと許可を与えられた。

           千葉徳爾 著 『狩猟伝承』 法政大学出版(1975/02) 

 さらに面白く不思議なのは、この「日光派文書」が、日光地方ではまったく見つかっておらず、会津から北の、日光山の信仰とあまりかかわりのない地方で、しかも狩人の由来記としてだけ通用した点です。

 マタギにとって、この文書は、生涯見ることも無いお守りだけの役割しかもたない例も多くありますが、多くの原本の製作推定時期が元禄から享保という幕藩体制の完成期に当たっており、一所不在の狩猟集団の通行手形の役割ももっていたのではないかと思われます。

 この通行手形の役割をもつ巻物の発行元が、おそらく修験道の山伏であったと思われます。


以上、「かみつけの国 本のテーマ館」
「マタギに学ぶ自然生活」より
http://kamituke.hp.infoseek.co.jp/page136.html


 ここから、マタギに限らず、非定住民の幕府方に頼らない非公式の通行管理に修験道の権威がなんらかのかたちで関与していたことが想像されるかと思います。


            正林堂店長の雑記帖 2008/1/30(水)より転載
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山伏と修験道・補足

2008年04月23日 | 「近代化」でくくれない人々
先日の内山節さんの講演会は、とてもよく修験道の世界が整理されて概括できるすばらしいものでしたが、私の「かみつけの国 本のテーマ館」の様々なページとの関連もある内容なので、講演で触れられなかった内容を中心に、修験道の世界の問題の広がりをちょっと整理してみたいと思います。


まず、修験道が衰退させられたひとつの要因に薬事法の度重なる改定で、山伏などが扱う漢方などの薬草を売ることが出来なくなっていった経緯の話が内山さんの講演でありましたが、山伏たちにとって薬草類とともにもうひとつ主要な収入源となる技術の代表が鉱物資源の管理があります。

 金・銀・銅・水銀、さらに翡翠など様々な鉱物資源の多くは、
山伏によって発見、開発され、その後の維持・管理もされていた。


【蛇足】
大仏建立などの国家事業で膨大な銅が国中から調達され、様々な職人や労働力が動員される様子については
箒木蓬生『国銅』上・下(新潮社)
に生き生きと描かれています。
ある坑夫が都までつれて来られて、造成され拡張されていく都の様子を横目で見ながら大仏開眼の壮大な式典の日までのうちに
仲間の命をひとり、ひとりと失っていく。
都へ連れてこられるときの様子は、生野銀山から足尾銅山へうまい話につられてつれられてくる近代の坑夫の姿(立松和平『恩寵の谷』ともダブル。
しかし、労働力を確実に確保するための行きの道中よりも、役目を終えた帰りの道中は故郷へ帰れる喜びもつかのま、危険に満ちた命がけの旅でもあった。
主人公が字を覚えて美しい詩の響きに目覚める姿を軸に
大仏建立のプロセスの詳細を知ることができる
箒木蓬生が書き上げた異色の作品で哀しくも美しい物語です。
おすすめ。



 山伏の格好のなかに、弁慶の絵姿などで見られる背負っている道具箱に金槌などの道具類が無造作に入っているのを目にすることがある。
いったいなんのための道具なのか?
それらは信仰のために必要なものとはとても思えない。
かといって闘いの道具類とも思えない。

あれは薬草採取や鉱物探索のための道具類であるという。
芝居の勧進帳の話にみられるように、大仏や大寺院の建立資金を全国に勧進してまわる仕事を山伏は請け負っていたが、そうれは資金集めの役割とともに、各地から大仏建立のために必要な膨大な金、銅、水銀の調達も大事な仕事であった。

そもそも、修験道の本拠地、吉野山から山上ガ岳にかけての山並みを金峯山(きんぷせん)というが、
その地下には黄金が埋まっているという。
修験道とは「黄金信仰」である。
本尊の金剛蔵王権現は黄金の守護神である。

以下は、前田良一著『役行者』の記述です。

山伏は山中でいったい何をしていたというのか。
コロンブスは金峯山の黄金を探すために、大西洋を西に航海した。
カリブ海の島を日本であると信じ血眼になって黄金を探している。

大海人皇子は吉野で挙兵いsて天武天皇に即位した。古代最大の内乱である壬申の乱の勃発である。
このとき、吉野には小角が山伏軍団を率いて君臨していた。
果たして、大海人と小角の邂逅はあったのか。

関連ページ
「山伏と修験道」
http://kamituke.hp.infoseek.co.jp/page168.html


黄金や水銀の材料である朱砂などの貴重で高価な資源は、
一般人の立ち入りを制限するために
血の池などの呼び名を使ったり、鬼が出るなどの噂の広げたりして
山伏だけがその地域の管理を占有していたと思われる。

とすると、
何度も吉野に通った、天武天皇をはじめ天皇がなぜ吉野に
あるいは熊野に通った理由はいったいなんなのか。
単純に信仰心だけからのものといえるのだろうか?

推測するに、それはまず第一に
権力の資金源としての黄金の調達だったのではないだろうか。
そして第二に
当時、水銀は、不老長寿の秘薬として貴重なものであり、
ミイラの体内から大量の水銀がみつかったりしていることなどからも
中国の神仙思想にまでたどる系譜を感じる。
もちろん、訪れるそれそれの人ごとに、様々な異なる病の悩みもあったであろうと思われる。水銀に限らない薬草の知識が求められていたことは想像に難くない。


山伏がこの鉱物資源の調達管理の主役であったことと、もうひとつ、そうした調達で各地の山を旅する立場から必然的に、産出した鉱物の運搬、全国の物流の業務に直結していたことがあげられる。

この話をするために、前提としておさえておきたいことがひとつあります。
それは江戸時代までの物流の主流は
海運ルートがその中心であり、しかもそのルートは、
最も安全な瀬戸内海ルートが第一であり、
その次が日本海ルート。
紀伊半島から先の太平洋岸のルートは黒潮に乗ってしまうと一気に沖にながされてしまい、もっとも危険の高いコースで、太平洋の東回りのルートが開拓されるのは、
江戸時代後期、河村瑞賢の登場まで待たなければならなかった。

この地理条件を前提にすれば
役行者が伊豆に流されたというのも地理関係からすれば偶然の場所ではないことがわかる。

日本民族の起源の論議で騎馬民族説とともに南方の海洋民族説がありますが、
その海洋民族の流れ着く先は、紀伊半島まで。
歴史を遡るほど、物流の中心は、陸路よりも
海路や川の方が中心であった。
そのメイン通路が瀬戸内海から紀伊半島に至る航路。

日本列島全体の物流をみても
牛馬に載せて陸路をたどるよりも、日本海へ抜けて船で下関までたどり
瀬戸内海を経て都に運ぶ方が便利せあった。
その物流管理の技術と情報を握っていたのも山伏であったといえるのではないだろうか。

各地で産出した大量の重い鉱物資源をどうやって都まで運ぶのか、
産出と同時に考えておかなければならない大事な課題。
その辺に山伏がどうして法螺貝を持っているのかのヒントもあるといえないだろうか。

長くなったので
マタギと忍びとのかかわりについては次回。

    正林堂店長の雑記帖 2008/1/29(火)より転載
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内山節講演会「修験道からみた近代」

2008年04月23日 | 「近代化」でくくれない人々
以前紹介した「ゆいの家」での内山節さんの講演に行って来ました。
毎度、内山さんの講演となると、遠くから来るファンも多く、
今回も青森や新潟から来てくれた参加者もいました。

知人のソラリスさん、寅さん、その友人のIさんや、佐々木さん、
昔勤めていた店のつながりのT書店H店の店長さんなど
馴染みの顔もたくさん。
またどこかの会場で私のことを覚えてくれていた人もいたりで、
世の中、つながるとことはみんなつながっている。

今回は月夜野町の本職の山伏修験者、円信さんが参加してくれることが
期待されていたのですが、都合で残念ながら来れず、
群馬現役修験道の復活の橋渡しは、私が代理で内山さんに伝える立場になった。

円信さんとは、今度ロックバンドをいっしょにやろうということにもなっているので、
またそのうちに機会ももてることを期待している。


参照ページ
「かみつけの国 本のテーマ館」内
「山伏と修験道」http://kamituke.hp.infoseek.co.jp/page168.html


今回の講演は「ゆいの家」の内山さんの前回の講演の続きの性格のものらしく、
前回の内容で修験道の話題が多かったことに関心が高かったため、今回
「修験道」であらてめて講演をしてもらうことになった模様でした。

予想以上に修験道の基礎的な知識や、歴史的な全体像まで丁寧に話してくれたので、
単独の講演会としても、とてもまとまりのあるものに思えました。

修験道は、最も日本的な特徴をそなえた信仰心、
神道、仏教などをごちゃ混ぜに混在した宗教であるばかりに、
国家神道の一本化をはかる明治政府から徹底弾圧をされる立場になった宗教。

この修験道こそ、日本人の自然と人間の関係を支える精神的支柱として
最もふさわしいし姿を持っていたといってもよいのではないか、
そんなような話の流れでした。

「近代化」の名のもとに、私たちが失ってきたもの
すでにそれを簡単に取り戻せるような時代に私たちは生きていない。

しかし、大事な何を失ってしまったのか
そのことについても、
わたしたちの間では、まだ十分語られてはいない。

そんな問いかけを内山さんはずっと続けています。


来週、2月3日(日)には、
参加している戸田書店榛名店さんの後援する次の内山さんの講演会がある。
はまゆう山荘にて
テーマは内山さんの最新刊
『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』
のタイトル。

本書は今回の公演内容とも一部重複する部分もあるので
次回に紹介を書きます。


           正林堂店長の雑記帖2008/1/28(月)より転載
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