英宰相ウィンストン・チャーチルからのメッセージ   

チャーチルの政治哲学や人生観を土台にし、幅広い分野の話を取り上げる。そして自説を述べる。

よもやま話  日本人は歴史が好きだが、活かさない 歴史は科学 

2013年09月22日 21時16分20秒 | 歴史
8月12日のブログを最後に忙しくて書く機会を逸した。歳月の流れは早い。1か月半が過ぎた。妹が亡くなって間もなく半年。毎月、月末には故郷の老人ホームで暮らす母に会いに行く。65歳の誕生日を迎えてもまだ働くことができるのも幸せだ。しかし若者の職を奪っているのかもしれない。あと1-2年して完全に身を引く覚悟だ。ただ死ぬまで自分の好きな道を続けようと思う。それは歴史だ。
 今から半世紀前、大学受験を控えた筆者が「史学部へ行きたい」と言ったら、亡くなった父が「史学部では飯は食えない」と一蹴された。泣く泣く「法学部」に進学したが、好きな学問ではなかった。ただ政治や国際関係に興味があり、政治学科の授業を必修でもないのによく受けた。この年になると父の言っていることも理解できる。まあ、なんとかここまで生きてきたのだから、最後の10年は再び歴史に首を突っ込んでいきたいと思う。何とか飯も食えるし、天国の父も許してくれるだろう。
 日本人はどうも過去を振り返らない民族だと思う。先日、東京豊島区の雑司ヶ谷霊園に行ってきたが、管理事務所の方が「日本人は歴史好き」が多いと言っていた。この「歴史好き」が曲者だ。歴史そのものに興味を示しているのではなく、夏目漱石などに一種の感傷的な気持ちを持って霊園を訪れるらしい。
 一般的に言えば、日本人はどうも感傷的、ロマンチック、感情的な世界に強く惹かれるようだ。そんな国民性があるように思う。また観念的だ。このような国民はどうも人間を観察する科学である歴史、政治、軍事が苦手だ。観念的で感傷主義者なので、どうも観察の窓が曇るらしい。
 憲法第9条議論も、現実的で、観察眼にたけた議論をしていないようにおもう。感傷的で情緒的な議論ばかり。その意味で第9条を改正するのは時期尚早かもしれない。ただ歴史は日々刻々変化してやまないわけだから、そうは言っておれない。それでも観念的、感傷的では、再び太平洋戦争の指導者のような大失敗をするのではないかと危惧する。
 太平洋の向こうの米国人も、日本人ほど感傷的ではないが、それでも理念や主義が先行して現実の眼鏡を曇らせる。最近のシリアでの毒ガスサリン問題で、シリアのアサド政権を批判し、強硬に軍事介入を一時示唆したのもその現れかもしれない。ベトナム戦争やイラク、アフガニスタンへの軍事介入は現実への観察眼に長けているというよりも、米国の「理念と正義」が先行したということだ。
 これに対して、米国と同調していた英国政府は最後にシリア介入をあきらめた。現実的で合理的な英国人が民主主義という道具を利用して自国政府の前のめり政策に「待った」をかけたわけだ。 日本人は英国政府の介入中止を歓迎したが、どうも彼らの底辺に流れる「ものの見方」については理解していないらしい。
 そういえば、最近「インターナショナル・ヘラルドトリビューン」紙を読んでいたら、英国人のブライアン・モスター氏が同紙に投稿した意見が目を引いた。
 モスター氏はオバマ大統領の演説を聞いて、「米国の民主主義は何歳?」と皮肉っていた。オバマ大統領は最近の演説で「米国は世界で最も古い立憲民主主義国家だ」と述べた。モスター氏は「この主張」に疑問を呈し、「1965年まで黒人に白人と同等の権利も与えなかった国ではないか。このことを考えれば米国の民主主義は若い。そして金が万能な社会であり、金で大統領選が左右されている。貧富の差があり、貧しい人々は差別されている」と語る。黒人の社会的地位も、オバマ氏が大統領になっても低い。
 日本人と米国人は感傷的という点では似ている国民だと思う。モスター氏は米国人と英国人、特にイングランド人とは性格も、ものの味方も違うと主張しているのだろう。英国社会に若いころ住んでいた私もモスター氏の意見を完全否定することはできない。
 中国人はどうだろう。特に漢民族。この民族もどうもイングランド人に似て現実的でしたたかであり、原則や理念に固執しているようでそうでないように思う。法律が国民を護っている社会でないため、戦略眼にたけ、気を見るに敏な国民であることだけは確かのようだ。
 この点では日本人は足元にも及ばない。多くの日本人は中国人が嫌いだし、大多数の中国人も日本人が嫌いのようだ。両民族とも冷静になって自分と相手の性格の違いを探求することが相互理解の第一歩だと思う。両国民の性格の違いは相当大きいというのが筆者の見解だ。
 母の郷里で過ごした後、9月上旬に取材で熊本・人吉の高木惣吉記念館を訪れた。一晩かけて彼の書簡を一読した。もう一度じっくり読みたい書簡だが、そのなかに高木海軍少将の合理的、冷徹な観察力を見た。終戦工作に奔走し、事実上日本を救った人物である高木少将のような人物は日本人に少ない。
   再びもとの論点に立ち返るが、合理的で観察眼に富んだ人々が日本の多数派になったとき、少しは日本も変わるかもしれない。それまでは、原則として憲法9条改正は反対だ。「原則として」と申し上げたのは、時は少しも止まらない、変化するからだ。悩ましいところだ。
 太平洋戦争の軍人指導者や石原慎太郎氏ら保守派、リベラル派の心の奥深くに共通している感性的、観念的、感傷的な性格を、反対の性格を持った高木少将を通してみたように感じた。最後に断わっておくが、日本人の感性、感傷的、ロマンティシズムを批判しているのではない。音楽、文学や建築、絵画などで大いに貢献している。ただ、現実を観察する政治、軍事、外交となるとこの性格があだになるというこを言いたいだけだ。

写真は近代歴史学の父といわれるドイツのレオポルド・ランケ
 
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