本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

自由と必由

2023-12-14 20:36:55 | 十地経

四威儀ということが

ずっと出てくるのですが

四威儀は行住坐臥

歩く立つ座る寝るという

誰でも行なっている

それも日々毎日、

それこそが仏行・仏道だと

「威儀即仏法」

という言葉もあります。

修行・道を行ずる

といっても威儀なのです。

ということで、

 

講義では

「道というものと、

道を行ずることと二つある

わけじゃない。

もう存在自身が道になって

いくと。

 

一念一刹那も、

自己と、自分の存在と、

自分が道を歩む

ということが二つないと。

どんな瞬間をとっても。

 

こういうことだろうね。

何かパウロの言葉で

『我生けるにあらず、

キリスト我にあって

生けるなり』と、

私が生きとるんじゃないと

 

私は死んだんだと。

真理によって

私は死んだんだ。

その時、

真理が私になって

生きとるんだと。

 

こういうような一つの

確信んじゃないかと

思うですね。

私が生きとるんじゃない、

道が私となって生きとるん

だと。

だから、

どの時間をとってみても、

それは道の時間だと。

 

どの一念一刹那も道の時間

だと、

こういうことで、

こうずーっと一貫して

述べられて

いるんじゃないかと思う

ですね。

 

時間、

ある時間に道を行ずるん

じゃない。

道の時間をね。

時間そのものが道を実現

しとるんだ。

だから道元禅師なんかは、

二六時中は仏の命だと。

 

二十四時間というのは、

我々仏の命を賜って

生きとるんだと。

こういうわけだ。

 

自分のわがままの時間じゃ

ないと。

そういうように

自分を超えて生きる

ということや。

自分のわがままで生きる

というんじゃないだ。

 

こういうところに、

やっぱり人間の、

何というかね、あの、

生き甲斐が …… 、

自由という … 。

僕はこういうふうに

思うんでしけど、

 

自由ということと

必由ということがある。

必由というのが

本当の自由じゃないかと

思うですがね。

必は必然ですね。

 

必然ということが

本当の自由ということで

あってですね、

必然を止めたのが

自由じゃない。

 

必然を止めたら

自由というのは我がまま

ということや。

放埒や。

先に自由に自分を

拘束するんだ、

必然をもって。

 

つまり、

私は私のものじゃない、

道のものだと。

私の存在は私の自由に

できんもんだと、

こういうわけですね。

 

そういう拘束がなければ

ですね、

人間、

何か生きがいとかと

いうものはないんじゃない

かね。」

 

四威儀ということは

お釈迦さまの言われる

行住坐臥

どれ一つ取ってみても

出来ないものです。

自分がやるというと、

そこに何か

大きな転換があるように

思うのです。

「道が私となって生きる」

常識的に考えたなら

絶対に分らないように

思うのです。

 

最近はよく「自分探し」

ということをいいますが

探しても絶対に分からない

と、先生は仰っています

都合のいい自分を

求めているだけで

 

現に今ここにいる自分

というものを蔑ろに

しているのです

今、与えられた境遇

ということが

必然ということでしょう。

 

そういうことを見つめると

今現にある境遇

ということが拘束です。

その拘束を

有りうべからざることと 

有難い

有ること難し

今の状況は千載一遇の

チャンスではないかと

そういうふうに

受け止めると、必然と、

そういうところか

本当の自由なはたらきが

生まれてくるように

思うのです。

 

 

 

 

 

 

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自由なはたらきを四威儀という

2023-12-13 19:56:42 | 十地経

「蓋」という面白い煩悩が

出てきました。

煩悩の異名も

たくさんありますが

名前を付けた方の苦労と

いうか、悩まされた

そういう身に沁みて

出てきた名前のようです。

 

「縛」という名もあります

自分を縛り付け

心の自由を奪うという

何となく分かるような

気がします。

 

行住坐臥という四威儀

前にも出てきたのですが

ここでは別な説明で

述べられています。

 

「その、威儀というのも

この諸陰の、存在のね、

形式でしょう。

座ったり、五蘊が行き、

五蘊が住し、五蘊が座し、

五蘊が臥するわけやから。

 

だから、

我々の心身が行くんだ、

心身が住するんですから。

だからして、

諸陰の、動作の形でしょ。

諸威儀。

動作の形式や。

 

我々の存在、じっとして、

あるというんじゃないんだ

我々の存在が、

立ったり起きたり座ったり

眠ったりいている。

 

ところがそこに

煩悩があると、その、

煩悩が諸陰を妨げてね、

そして威儀を保たせん

ようにするわけや。

つまり心身を束縛する。

 

だからして、

その諸威儀というものを

住するということは、

まあ平たくいえば、

戒律を保つ

というようなことに

なるけども、

そうじゃなくて、

外から制止されて諸威儀を

保つんじゃない。

 

そうすると、

さっき言ったように規制や

そうするとどうもそりゃ、

「悪いことしたらいかん」

というような、

母親がなんでも叱る

ようなもんだ。

そういう意味じゃなしに、

 

あの、我々はその、

何かさかしま、

考え違いしとるんだと

思うんですがね。

煩悩が自由なことのように

思うんでしょう、

煩悩を起こす方が。

 

で、四威儀を守る

ということは何か拘束され

るように思う。

逆であってですね、

諸陰というものを妨げとる

ものが、

蓋をして妨げとるものが、

煩悩であって、

それを取り除くと

いうんです。

 

そうすると諸陰が自由に

なるんだ。

で、

行住坐臥というよなのは、

諸陰が自由であることや。

拘束されたことを四威儀

というんじゃない。

 

自由なはたらきを

四威儀という。

 

住するとき住し、

坐するとき坐し、

臥するとき臥するという、

絶対自由や。

不自由じゃあない。

 

そういうように、この、

我々の全身全霊がですね、

自由に活動するというのが

ですね、

そりゃ自由の規則や。

仕方なしに拘束された

自由じゃない。

 

自らが自らによって

自己を拘束しとるんだ。

いやいやじゃないんだ。」

 

なかなかゆっくり

丁寧に読まないと

頭に入ってこないのですが

 

規則がないのが

自由のように思うのですが、

そういう規則というような

外からのものでなく

自分が自分で守っていく

自分を律していく

ことに本当の自由がある

のではないかと、

いっています。

 

大学に行ったとき

高校まではいろいろ規則、

校則があって、

なんと不自由なと

思っていたのですが

いざ大学に入ると

規則がなくなってきて

自分で自分を律して

いかなければならないと

いうことになります

それが出来ないと

自堕落になり

自由であるのに不自由な

生活になるものです

 

妙なもので

規則が欲しいと思った

ことがあります。

ですから

本当の自由というものは

四威儀というような

決まりの中にこそ

あるように思うのです。

 

 

 

 

 

 

 

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蓋(がい)という煩悩

2023-12-12 19:22:39 | 十地経

煩悩と一口に言いますけど

その内容は深いものがあり

それはとりもなおさず

私達人間の心が

深遠な煩悩を持っている

ということです

それで、

そのはたらきを表す

ものとして

そのはたらきに応じて

色々の異名を持っています

 

「蓋」というのも

その中での一つの煩悩です

覆うとか、ふたをする

という意味があります。

善心を妨げて覆い隠す煩悩

ということです。

 

それからもう一つ

別な意味で「蓋」という

ことをいいます。

仏さまの上とかに翳して

ある、あの天蓋です。

もとは日差しや雨を防ぐ

ための傘です。

それが仏の荘厳具として

仏の上に翳すものを仏天蓋

導師とかの上にあるものを

人天蓋といいます。

 

また、

虚無僧が被る深編笠も

天蓋といいます。

 

面白いのは

これが掉挙・惛沈と関係が

あって、

五蓋といって

心を覆うって善法を

生じさせない五種の煩悩

ということです。

 

興味があったのは、

まあ、自分にもとっても

身近に感じる煩悩で

惛睡蓋(コンスイガイ)

惛沈と睡眠です。

沈みこませるのと睡眠

睡眠も煩悩の一つです

眠るのは自然の法則では

と思うのですが

修行においては煩悩です

 

こういう、聞法会でも

睡魔が襲い、とても眠たく

なってくるのです。

「顔洗ってこい!!」

と叱咤されたので

この睡魔との闘いは

私には重要課題でした。

 

講義のここの所は

また同じように繰り返しで

先月と同じ問題です。

けど、聞いていると

新なことに聞こえるのです

難しいかも知れませんが

言葉を繰り返しながら

先生が思索を深められる

様子を感じ取って下さい。

 

「それから、

そこにやっぱり

四威儀というものが

成り立つという。

威儀ということが

ありまして。

経文を見てもらいますと

そこに諸陰を ……

『諸の陰蓋を』、諸陰ね。

諸陰、蓋ね。

それから『諸威儀』で

しょう、書いてあるのは。

諸威儀ですね。

 

この、行住坐臥というのは

行住坐臥というようなこと

をいっているのは諸威儀の

ことですね。

それは二時六時中という

意味です。

そこに、その前のところに

経文で見るというと

『緒の陰蓋を離れる』…

陰蓋というようなことは

諸陰でしょう。

『諸陰の蓋を離れる』と。

 

蓋というのは、

これは煩悩のことやね。

煩悩のこと … … 。

つまり、

煩悩のことですわね。

蓋という字はふたという

意味でしょう。

ふたをするんだ。

動くものを

動かさないようにするんだ

ええ。

そういうように、

ふたをかぶせたようになる

ことですわね。

 

そういうのが

一つの煩悩のはたらき

ですわ。

諸陰というのは何か

というと、

これは旧訳だろうと思う。

蓋ね。

五蘊といういうような。

五陰というのは旧訳。

で、これは、

諸陰というのは、

諸というのは五だと。

 

諸陰といえば五蘊のこと

やね。

色受想行識という五蘊

のこと。

だからまあ、五蘊という

ことを考えてみるというと

我々の心身の存在なんだ。

我々の心身の存在を五蘊

という。

この他に何も我々の存在は

ない。」

 

こういうことが

経典を読み解いていく

ということのように

思います。

これはこうだと

結論をだすのではなく

文字を一つ一つ大切に

考察されていく

そこがこの講義の

面白いところでもあります

 

 

 

 

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教育は一生一貫してあるもの

2023-12-11 19:32:12 | 十地経

庭師のロイ・スミという方

「ゴールはなく

  歩み続けるだけ」

ということを

話しておられました。

なかなか薀蓄のある言葉

です。

修行も同じで

さとりということも

ゴールではなく

その道程をいうのでしょう

 

よく、坂道に喩えられます

一歩一歩歩んで

ここまで来たのでちょっと

一服、そしてまた

始めるというと一服した

所から始まるかというと

そうではなく

またもとの

出発点から始まるのです

 

ですから、

進まなくても

止まれば落ちてしまう

足踏みしているだけでも

かろうじて現状維持

ということでしょう。

 

というようなことを

講義では、

 

「煩悩がなくなった

という意味じゃない、

熟したんや。

成熟したんです。

行が成熟してきて、

双運というような止観が

ならび現行(げんぎょう)

すると。

止観が矛盾なく現行

してくるということは、

これは

成熟(じょうじゅく)です

 

まあここらが非常に大事な

字ですが、

成熟(じょうじゅく)と

いうのはものが

成熟(せいじゅく)する時

時熟(じじゅく)ですね。

 

時間という意味もあるけど

また熟するという意味

もある。

両方あるわけです。

時計の時間はそういうこと

はないけど、

生きた時間は何か

成熟させるんだ。

ものが育つんです。

 

いっぺんやったことも、

やって止めてしまったら、

何にもならん。

いっぺんやったことの意味

は二遍やる時に出てくる。

二遍やった意味は

三遍やるときに出てくる。

 

たとえていえば、

幼稚園でも何でも、

幼稚園の意味というものは

幼稚園だけでは分からん

のではないかな。

小学校行ったときに

初めて幼稚園の意味が

出てくる。

 

小学校の意味は何かと

いうと、

中学校行ったときに

出てくる。

中学校の意味は何かと

いうと、やっぱり

高等学校行ったときに

出てくる。

 

中学校の時やったら、

もうむちゃくちゃに英語

でも算術でも教わったんや

それがごっつい意味を

持つんだと。

こういうようなことが

だんだん後から後から

分かってくるんであって、

 

気が付いたときにはもう

手遅れというようなもんだ

「しっかりやっときゃ

 よかった」

というようなもんだ。

 

そういうようなもんで

あって、やっぱり

教育というものは、

途中で切ってはだめだと

思うね。

教育というものはもう

子供の時から老人になる

まであるもんじゃないかと

思う、

一生一貫して。

学校教育と社会教育と

いうものは

連続したもんじゃないかと

思う。

 

だからこの、

時熟の結果として

双運するようになるんだ。

これは別に

煩悩が妨げているわけでは

ない、止と観とを。

その、

惛沈掉挙というような

煩悩もあるんです。

 

惛沈掉挙という煩悩も

消極的には

惛沈掉挙の煩悩が

対治されたということに

なるけど、

積極的に言えば、

行が繰り返されたと、

熟練してきたと。

 

こういう、

ただ理屈で分かった

というんじゃないんです。

あの、

繰り返すというときに、  

さっき言った

時間というものの

非常に不思議な意義が

あるんです。」

 

なかなか面白いところで

よく記憶に残っている

ところです

思い当たる節があって

卒業してみて

あれしときゃよかった

これしときゃよかったと

悔やまれるもので、

 

そういうことからいうと

し続けるということの

大切さを

今更ながら思い知るもの

です。

 

 

 

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止観双運(しかんそううん)

2023-12-09 20:31:43 | 十地経

止観という全く反対概念の

ことなんです

止と観、

止まると観るという

これが初めて協力する

ことが出来たことを

双運というのです

それで

止と観が同時に働くことを

止観双運と、

 

そこで講義では、

 

「双行、二行がね、

矛盾するものが

今矛盾せんようになった

ということをいうのです。

だから双という … 

二行が大事なんじゃない。

双ということが

大事なんです。

双が現行(げんぎょう)

したということ、

二行双、二行が並んで、

ことが初めて実現すること

ができたと。

止観が双運、

止観が互いに協力すること

が今初めて成り立ったと、

こういうんです。

 

止観というようなものは

これ、一致した場合を、

止が止にとどまらず、

観を持った止を、

それを禅というんです。

 

禅宗の禅というのは

止観ということ、

ただ止だけでは

禅といわんのです。

観を持った止を禅という

のです。

 

だから座禅といっても

別に無念無想というような

具合になっているのは

禅じゃないんです。

禅といういうようなことを

いうと、何か … 、

やっぱりですね、

禅も念仏なんじゃないけど

念仏をすると念仏の中に

禅というような意味が

出てくる。

それを念仏三昧という。

 

三昧は一つの禅です。

三昧になろうと思って

三昧するんじゃない。

仏を憶念すると自然に

そこに禅が成り立ってくる

止観がね。

 

ただ止観をやれ

というようなこといって

できやせん、

何か、念仏とか、

仏を憶念するとかいう

ようなことがあると、

 

念仏というのは何か、

忘れとった世界を …、

念仏の念といいうのは、

今の念ですけど、

これは憶念という字で、

この場合は。

 

憶念というのは

意味の深いことであって

何か記憶という意味です

けど、ある意味じゃ

回想というような意味も

あるじゃないでしょうかね

憶念想起するというような

 

忘れとったものを

想い起こすと、

忘れ、とうに忘却しとった

世間のことにとらわれてね

損だとか得だとか、

憎いだとか、

そういうことに、

 

つまり、日常性の中に

支配されてしまって、

そして根元、自己の根元。

自己をして

自己たらしめているような

根元を忘却しとった。

 

それが、その、

なんかうまくいかんように

なったことを縁として、

その、にっちもさっちも

いかんようになったことを

縁として、

行き詰まりを縁として、

その根源を回想してくると

 

もし行き詰まらなかったら

根源を回想する機縁は

なかったんや。

あなたがたもそうでしょう

自分の思う通りになっとた

時には、

人間はどこまで堕落するか

分からんものだ。

 

思う通りにならんで

幸いなんだ。

初めて歩みを止める。

そしてそこに、この、

回想が方向転換するんだ。

考えんのじゃあない。

そこで黙っちゃって、

行き詰まっとるんじゃあ

ないんだ。

 

考えるんだけど、

考える方向が転ずる。

そして、

自分の根元という

忘れとったものを

思い出してくると。」

 

人間、調子が良いと

ついつい自分を忘れて

しまうものです

ですから、

ある面からいうと

思い通りにならない

ことの方が本来の自分を

見出してくるきっかけに

なるのです。

 

在ればあったで

有頂天になるし、

なければないで

欲しい欲しいと

欲求不満が募ってくる

本当に止観ということが

成り立つのは

難しいものです。

 

 

 

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12月8日釈尊成道会(じょうどうえ)

2023-12-08 20:42:15 | 住職の活動日記

お釈迦さまが

さとりを開かれた日です

それを「成道会」と

道を成した日というのです

それで、

八相成道

(はっそうじょうどう)

といってお釈迦さまの一生

を八つの相に分けて

こう呼ぶのです

その中心が

さとりを開かれた

人間が仏になったという

ことで成道が一番の中心

です。

 

さとりということには

色々の表現がありますが

 

「覚」(かく)

めざめるという

それまで知らなかったこと

が明らかになった

迷いが明らかになった

それで

仏のことを覚者と、

また、覚有情とも

目ざめた有情ということ

です

 

また、さとりへ至る

さとりへの道程

ということで

「道」ともいいます

人間が仏になったその道程

それで、成道とも

人が仏になる道筋という

ことで道を成すと、

 

さとりというと

何か特別なことのように

考えるのですが

そうではなく「道」と

いうと誰でも通れる道

誰でも歩ける道という

ことで、

特別なものでなく

開かれたことのように

感じます

誰にでも開かれた道

ですから「成道」という

言葉は非常にいいですね

 

しかし、

十地経講義を聞いてみると

道というのは辿り着く

というより

その道が見つかるという

ことが大切なようです

到達するよりも

道を歩む、その道程にいる

そのことが大事なようです

 

その八相成道ということは

下天(げてん)

兜率天より白象に乗って

この世に下りてくる

という生まれる前からの時

から始まります。

 

託胎(たくたい)

お母さんの摩耶夫人が

右脇から白い象が右脇から

入ってくる夢を見られる。

 

降誕(ごうたん)

お母さんの摩耶夫人の

右脇から生まれらる

この時、七歩歩まれて

「天上天下 唯我独尊」

と名乗られたという

話しもあります

 

処宮(しょぐう)

宮ですから、宮廷での生活

つまり世間生活をされる

 

出家(しゅっけ)

妻子を捨て、城を捨て

一切を捨てて出家される

 

降魔(ごうま)成道

菩提樹下で悪魔を対治され

さとりを開かれる。

煩悩の姿を目の当たりに

見られたという

悪魔という煩悩を見たら

悪魔は居り場所を失い

消えてしまう

ということです。

降魔と成道を別々の項目に

考えることもあります。

 

転法輪(てんぼうりん)

初めて法を説かれる

そのことを、法・教えの

輪を転じられた

ということに喩えるのです

 

入涅槃(にゅうねはん)

涅槃に入られる

80年の生涯を閉じられる

 

ということですが

やはり、人として生まれ

さとりを得るということが

目的ですから

成道ということが中心です

 

12月8日ですから

「臘八会」(ろうはちえ)

とも呼ばれます。

 

 

 

 

 

 

 

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数ある小道もみだりに行くな 最初の一足ついには千里

2023-12-07 20:16:35 | 十地経

「数ある小道も

みだりに行くな

最初の一足ついには千里」

三浦先生からよく聞いた

言葉なんですが、

今思うと、

私達は色々な岐路に立って

その度に

いずれかの道を選択し

その結果が今現在の私の

在り方なのです。

 

講義も、

何かをなそうとしたら

必ず障害というものが

見えてきます

その障害によって

私たちの願いの深さが

問われてくる、

ということでした。

 

そこから、続いて

「たとえてみれば、

一本道を来とったとき、

一本道を歩いているときは

人間は自分が意思がある

なんてことは

感じやせんのです。

もう両方の足は交互に運動

を繰り返しているんで

あってですね、

習慣性として無意識に

我々は行動しとるんです。

 

さて、

二つに道が分かれたとき

『どっち行こう』と、

こう分れたらね。

要求が一つであるときは

何も人間に問題はない、

要求が二つ出てきた場合に

困るんだ。

要求と要求との選択。

 

そこに初めて、

人間は自分が意思を持った

存在であるということを

自覚するんです。

なんでもやっぱりこの、

障害というものによって

願を自覚し、

また

願というものを起こして、

それがうまく行かない

ところに障害が、

何が障(さ)えているか

ということが見出されて

くるわけですね。

 

そうするとまあ、

止観というようなものに

しても、ここに、

惛沈というのはね、

考えてみると、

普通の … …、

修道生活というような

ことが起こらんと、

こんな煩悩は

見出せんのです、ええ。

 

儲けたい

というようなときにはね、

惛沈も掉挙も

あったもんじゃないわけ

です。

 

惛沈というのは、

何か気が沈むことですね。

気が、何か沈むんだ。

何か物憂いことや、

気が沈んでね。

一向ひきたたん。

まあ普通いえば、

そういうこともある。

時々あるけど大したこと

だとは思わないのです。

 

ところがその正反対の

掉挙(じょうこ)、

これは浮き浮きしてですね

反対にじっとできんのです

 

浮き浮きして静まらんのと

沈みすぎて動かんのと、

両方が止観を妨げとる。

静まろうとすればするほど

惛沈は、これは観を妨げる

掉挙は止を妨げる。

 

気が沈むというと、

観のはたらきが起きない、

面倒くそうて。

それから、

もう浮き浮きして止まらん

こういう具合に、

やろうと欲しなきゃ

惛沈や掉挙なんて煩悩が

あることにも気がつかん

けど、

やろうとすると

それが出てくる。

こんなのを、煩悩の所為

というのです。」

 

普通、煩悩というと

欲しいものを貪ったり、

思い通りにならいことに

怒ったり、

また、思い出し怒り

というようなことがあって

こういうような煩悩は

煩悩だと

すぐ分かるのですが、

 

静かに座禅したり

瞑想したりするとふっと

とんでもないことを

思い出したり

また

心が沈んでしまうという

そういう精神生活にも

出てくる煩悩がある。

実は私たちにとっても

大変な問題になる煩悩

なのです。

ですから、

煩悩ということも

大変幅広いというか

心の色々な姿に出てくる

ものなのです。

 

 

 

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黄熟を求めて鴨川へ

2023-12-06 20:19:33 | 住職の活動日記

『十地経講義』に

「成熟」(じょうじゅく)

という言葉が出てきます

成熟と書いて

(じょうじゅく)と読む

のですが、

何かしら「熟」という字が

気になって

いつもの通り道に

御射山(みさやま)公園

というところがあります

 

 

銀杏が見事に色づいて

います

黄熟という言葉もあります

果実とか穀物が実る

ことなんですが

このような黄色に染まった

銀杏を見ると

そんな言葉が浮かんで

くるようです。

 

鴨川を歩きました

 

 

シラサギでしょうか

一人狙いを定めています

 

鴨川の遊歩道には

 

 

美しい紅葉を見ることが

できます

 

 

のんびりした景色です

飛び石があって向こう岸迄

渡ることができます

しかし、

年を感じたのは

この飛び石を飛ぶのが怖い

そういう気持ちになった

のです

 

 

向うには比叡山を望めます

今回は目的があって

出町柳という鴨川と高野川

の合流点へ行くことです

 

 

途中の榎がやや黄葉

仕掛けています

 

 

分かりにくいのですが

下にいなかった鳥たち

白い点ですが

この付近に群がっています

 

 

やっと目的地に着きました

約6000歩

ここが合流地点です

 

 

このかも大橋から見る

比叡山は

グッと迫って見えてきます

地図にあるように

ここより上は賀茂川

この合流地点より下は

鴨川となります

 

 

亀や千鳥の石が飛び石に

なっています

 

 

ここが合流地点

右側が高野川、左が賀茂川

 

 

こんな大きな亀さんですが

飛んで渡には少し怖い

 

 

恐る恐る交わる中心点へ

向かいに見えるのが

下鴨神社の糺森タダスノモリ

 

 

ここを入っていくと

下鴨神社へ通じます

 

 

ちょうど地図がありました

今、現在地にいるのです

 

 

この鴨川に添って京阪電車が

地下を走っています

出町柳、

よく見たら不思議な名前

出町でよさそうなのに

それに柳を付けて

しかし、

この場所は交通の要衝

大事な場所でもあり

また、デートスポットにも

ほどよい場所なのです

 

 

帰りは対岸を歩いてという

天気も良く久しぶりの

鴨川散歩でした。

 

 

 

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自分にも絶望せんし、人にも絶望せん

2023-12-05 20:22:40 | 十地経

「煩悩の所為なり」

(ぼんのうのしょいなり)

ということがあります

煩悩のなせるわざ、という

ことでしょうか

煩悩のは自分で起こして

自分で納めることができる

と思っているのですが

自分ではどうにもならない

ものが煩悩です

 

腹を立ててみよ、

と言われえてもすぐには

腹は立たないし

いろんなものを欲しがって

みよといわれても

なかなかすぐには

欲しがる心を起こせない

ものです

やはり縁によって起こって

くるものなのです

それで、煩悩の所為、と

いうことが言われると

思います。

 

それで、講義は

 

「行を基礎づける願心

というような、要求。

精神的要求なんだ、

願というのは。要求。

 

欲望は煩悩ですけど。

本能の要求というような

ものじゃなくして、

やはり精神的な要求。

本能といっても、

精神的な本能

というものがある。

そういう場合は願と

いうんですけど。

 

これは、なんというか、

或る人にはあり、

或る人にはないという

もんじゃないと思うんです

 

あいつは駄目な奴だと

いうようなことをいっても

願がないんじゃないんです

願があるから、

我々人間は互いにね、

語り合うことが

できるんです。

 

どんなもう敵対しとる

仲でも語り合うことが

できる。

アラブの問題でもそうだね

願がなければ、人類の、

共同体という願がなければ

人類の共同体という、

一つのね、

願があるんですよ。

 

これがあるからして、

願があるときに我々は、

人間に絶望せんのですよ。

「こんな奴と思わなんだ」

というようなことを

いわんのや。

また、自分にもいわんのや

「わしゃもうあかん」

というようなことを

いわんのや。

 

絶望、自殺せんのや。

願があるからですよ。

願というものが、

やっぱり、

自分にも絶望せんし、

人にも絶望せん。

人生というものを

成り立たせる所のものは

願なんです。

願心なんです。

 

それをもう、

ぐんぐん、ぐんぐん

深めていくから、

願往生心とか、

往生浄土の願心とか、

無上菩提の願心

というものが出てくるので

あってですね、

何もそんなものに

よそから付け加えて …

もんじゃないんです。

 

それを起こすときに

初めて障害がある。

たとえていえば、

なんというか、

障害も意識されるし、

また障害があるところに

初めてその、

障害によって願が

なくなるのじゃなく、

障害によって

願が意識されるんです。」

 

何かやろうと思い立つ

そしてやり始めると

必ず色々の問題が出てくる

ものです

障害も問題も

起こらなかったら

何もやり始めていない

ということでしょう。

 

それによって

どれほどの願いを

もっていたかが試されて

くるのです

ある面で困難が大きいほど

それほど大きな願を

もっているということです

 

そういうところに立つと

自分にも絶望せんし

人にも絶望せん

ということでしょう。

 

 

 

 

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止観に出てくる煩悩

2023-12-04 20:10:19 | 十地経

『十地経』では

止観ということが、

二行という形で出てきます

しかし、詳しくは

述べられていないようです。

 

ものの実相を明らかにする

方法が止観ということで、

止観という行がある

のではなく、

行はすべて止観なんだと。

その行のもとになる動機が

願であるということが

出てきました。

 

引き続き、

 

「ここへきて初めて止観が

出た。

ここでは止観が、

述べることが目的じゃない

んです。

それは、初めから止観だ。

止観を離れては何もない

でしょう。

十波羅蜜というのも、

十地というのも、

皆、止観の行道。

 

ただこのときには、

止観を二行という。

止と観と。

これは違うから。

違うんですね。

止と観とはなかなか

違うんです。

 

違うが故にですね、

まあ正反対と言って

いいかもしれん。

違うが故になかなかこれが

一致せんのです。

 

やたらに、ああだろうか、

こうだろうか

頭をはたらかしとるのが

観です。

それから、ただ沈思黙考

しとるのが止です。

何も出てこない。

これが結合しなきゃならん

けど、結合する

ということが容易でない、

正反対だから。

 

これは、煩悩の中にね、

止観を妨げる煩悩という

ものがありまして、

惛沈(こんぢん)という。

それから掉挙(じょうこ)

という。

非常にこれはむしろ

苦労した字です、漢訳して

ですね。

面倒な字になりますけど。

 

止観というものを… 、

止観の反省から見出して

きた煩悩です。

何も煩悩、

ポーンと浮いとるものじゃ

ない。

やりかけてみて、

やらさんというところに

煩悩がある。」

 

煩悩ということも

何か自分にとって妨げる

ものというか、

自分にとって何かしら

都合の悪いもののように

思うのですが

普段何気なく生活する

分には煩悩はないのです

 

何か目的を持った時

その目的を達成しようと

すると途端に

何でもなかったことが

障りとして身に迫ってくる

 

煩悩も大中小とあって

これは

煩悩の起こる範囲が違う

ので大中小というのです

根本煩悩というものがあり

それに付随する煩悩が

大随煩悩・中随煩悩・

小随煩悩と別れています

 

小随煩悩は一番身近で

腹が立つとか貪るという

日頃起こる煩悩

中随煩悩は二つです

無慚・無愧

(むざん・むき)

慚愧の念というように

恥を知るというような

ことです

大随煩悩は十あり

その中に

惛沈(こんじん)

掉挙(じょうこ)

があります。

 

この惛沈・掉挙は

普通の生活では起こらなく

精神生活に入ると

出てくる煩悩です。

ですから、気がつかない

煩悩なのです。

 

ですから煩悩も幅広く

日々の生活で出てくる

腹が立ったり、

あれも欲しい

これも欲しいという

煩悩らしい煩悩もあれば

静かに座るという

座禅したり、精神生活で

出てくる煩悩もあるのです

 

 

 

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