「蓋」という面白い煩悩が
出てきました。
煩悩の異名も
たくさんありますが
名前を付けた方の苦労と
いうか、悩まされた
そういう身に沁みて
出てきた名前のようです。
「縛」という名もあります
自分を縛り付け
心の自由を奪うという
何となく分かるような
気がします。
行住坐臥という四威儀
前にも出てきたのですが
ここでは別な説明で
述べられています。
「その、威儀というのも
この諸陰の、存在のね、
形式でしょう。
座ったり、五蘊が行き、
五蘊が住し、五蘊が座し、
五蘊が臥するわけやから。
だから、
我々の心身が行くんだ、
心身が住するんですから。
だからして、
諸陰の、動作の形でしょ。
諸威儀。
動作の形式や。
我々の存在、じっとして、
あるというんじゃないんだ
我々の存在が、
立ったり起きたり座ったり
眠ったりいている。
ところがそこに
煩悩があると、その、
煩悩が諸陰を妨げてね、
そして威儀を保たせん
ようにするわけや。
つまり心身を束縛する。
だからして、
その諸威儀というものを
住するということは、
まあ平たくいえば、
戒律を保つ
というようなことに
なるけども、
そうじゃなくて、
外から制止されて諸威儀を
保つんじゃない。
そうすると、
さっき言ったように規制や
そうするとどうもそりゃ、
「悪いことしたらいかん」
というような、
母親がなんでも叱る
ようなもんだ。
そういう意味じゃなしに、
あの、我々はその、
何かさかしま、
考え違いしとるんだと
思うんですがね。
煩悩が自由なことのように
思うんでしょう、
煩悩を起こす方が。
で、四威儀を守る
ということは何か拘束され
るように思う。
逆であってですね、
諸陰というものを妨げとる
ものが、
蓋をして妨げとるものが、
煩悩であって、
それを取り除くと
いうんです。
そうすると諸陰が自由に
なるんだ。
で、
行住坐臥というよなのは、
諸陰が自由であることや。
拘束されたことを四威儀
というんじゃない。
自由なはたらきを
四威儀という。
住するとき住し、
坐するとき坐し、
臥するとき臥するという、
絶対自由や。
不自由じゃあない。
そういうように、この、
我々の全身全霊がですね、
自由に活動するというのが
ですね、
そりゃ自由の規則や。
仕方なしに拘束された
自由じゃない。
自らが自らによって
自己を拘束しとるんだ。
いやいやじゃないんだ。」
なかなかゆっくり
丁寧に読まないと
頭に入ってこないのですが
規則がないのが
自由のように思うのですが、
そういう規則というような
外からのものでなく
自分が自分で守っていく
自分を律していく
ことに本当の自由がある
のではないかと、
いっています。
大学に行ったとき
高校まではいろいろ規則、
校則があって、
なんと不自由なと
思っていたのですが
いざ大学に入ると
規則がなくなってきて
自分で自分を律して
いかなければならないと
いうことになります
それが出来ないと
自堕落になり
自由であるのに不自由な
生活になるものです
妙なもので
規則が欲しいと思った
ことがあります。
ですから
本当の自由というものは
四威儀というような
決まりの中にこそ
あるように思うのです。
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