熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。
仏道の修行に限らず
願いというものがあって
その行動が出てくる
小さいことから
寺を建立するという
大事業にしても
願ということが根底にある
ものです。
止観という行も
あるというのではなく
行はすべて止観なんだ。
ということの続きです
「だからしてこの、道、
行道というが、
道を行ずるというような、
この、行道ともいいますが
それによって
この止観という行によって
願が、願の、願だね。
あのー、
願によって願ぜられている
ものが実現していくんです
願ぜられているものが
リアライズされてくる
わけです。
精神統一する。
その専注するというのは、
それは、
精神統一するのは、
目的観念がリアライズ
されてくるわけです。
これは行です。
行というものは、
行というものの動機に
なるものを願というんです
願から、
行を起こす動機を
願というのです。
願が行というものを
展開して
その行によって願を
実現していくわけです。」
この願がなければ
どのような修行も
成り立たないのです。
菩薩の願に
「四弘誓願」
(しぐせいがん)
というものがあります。
衆生無辺誓願度
(シュジョウムヘンセイガンド)
誓ってすべてのものを救う
煩悩無数誓願断
(ボンノウムスウセイガンダン)
誓ってすべての迷いを断つ
法門無邊誓願学
(ホウモンムヘンセイガンガク)
誓ってすべての教えを学ぶ
仏道無上誓願成
(ブツドウムジョウセイガンジョウ)
誓ってこの上ないさとりに
いたろう
こういう四つの願が
あります
菩薩を菩薩たらしめる
願いです
この願いがなかったら
菩薩とはいえないのです
ではこういう願が
実行できるかというと
どれも実行できない
願いです
しかし、
必ず実行しようという
願いが菩薩と成らしめて
いるといえるのです。
出来るから願う
出来なかったら願わない
というのではないのです
出来るできないを超えて
願わずにはおれない
そこに崇高があるように
思います。
この四弘誓願には節が
ついていて
とても感動的な音階です
大学の入学式の折
合唱団の歌うこの四弘誓願
を聞いた時、
何かしら身が引き締まる
感動を覚えました。
出来るから行う
できないのであれば
願わないというのは
ある面ではソロバンです
損得勘定です
出来るできないを超えて
願わずにおれないという
ところに願というものの
本質があるようです。
短いところですが
「行というものの動機に
なるものを願という」
この言葉は私たちの行いの
純粋さ、願いの純粋さが
問われているように
思うのです。
止観ということが続きます
止観も行の一つではなく
止観が行なのだと
波羅蜜といっても
止観がないと成り立たない
色々な行がありますが
止観がなかったらただの
ハードトレーニングです。
それで、
昨日の最後が
「考えることを止めて、
ものそのものになれ。」
ということで
終わっていました。
講義は続けて
「こういうのが
(考えを止めものそのも
になる)
止観という意味じゃないか
と思っているんです。
まあ、
これは僕の翻訳ですけど。
ものとなって、
ものを見よ、というと
二つあるようだけど、
ものとなれ、
そうすればものが
自分を語るだろうと。
我々が色々考えるんじゃ
ない。
もの自身が語ってくる
だろうと。
だから、何かこの、
ものの実相を明らかにする
方法が止観なんだ。
こういう止観という概念を
こう、
だから広くとれば
自然科学の実験観察という
ようなことになるんだ。
自然科学の場合は、
観察される対象は
外の世界ですけどね。
止観の場合は内面です。
そこが違いますけど、
しかしやっぱり、
止観というものの
持っている意味は何か、
精神的な創造というものが
行われるような一つの、
あの … 行が止観
なんです。
止観を離れて何も生まれて
こないんです。
そりゃもう、
来るもの来るものを、
いや
蝶がきたら蝶を思い、
お茶がきたらお茶お飲み、
饅頭がきたら
饅頭を思っていた日には、
何もできないです。
ただ時に流されてしまう。
何かそこにこの、
一つのですね、
創造の世界とか
創造の世界というものは
やっぱり止観ということが
行というものによって
作られていく。
だから、
止観という行があるんじゃ
ない。
行はすべて止観なんです」
止観ということで
思うのですが、
それに至るには数息観が
まず第一だと思います
数息観(すそくかん)
息を数えて心を静める。
座禅とかに入ると
一つ、二つ、三つ、
と十まで数え
また一から数えなおす
最近では、ヨガでも
ワン、ツウ、スリー、と
息を数えながら
行っているのですが
一つ、二つが、
ワン、ツウ、スリーと
時代が変われば数え方も
変わってきますが
しかし、
不思議と数えながらやると
集中できるものです。
お釈迦さまも
最初はこの数息観から
修行されていかれます
インドの言葉では
アーナーパーナスムリティ
入出息念と訳されますが
直訳すると
出入息念となります
やはり、まず
息を吐きだす、すると
自然に息は入ってくる
ものです。
段々深く長い息をすると
妙に心が落ち着いて
くるものです。
講義に出てくる
「自然科学の実験観察」
ということは
よく仰っておられました
自分の好き嫌いを離れて
ものそのもを見るという
この、自分の好き嫌いを
離れるということが、
大事です
どうしても
好きなものはよく見る
けど、
嫌いなものはじっと見ない
ということがあります。
ここのフレーズは
よく残っている所でも
あります。
時間の問題が
ずっと出てきたのですが
その時間が「念」という
一念一念の意識の連続が
私の意識だという
そこで、
講義は
「この間の時間のときの、
それでこの念ということで
一貫しているということが
ここの着眼点じゃないか、
文章、経文を読む場合の。
そこで初めの、二行双と、
無間と、これは何か
二つあるように見えるけど
結局は同じことになる、
二行というのは、
何かというと止観です。」
止観と訳しますが、
奢摩他(シャマタ)・
毘婆舎那(ビバシャナ)
と、経典では出てきます
止と観と訳したのですが
本来持っている意味は
そう簡単なものでなく
訳しきれなかった
のでしょう。
それでそのまま梵分を
音写したのです。
『解深密教』
(ゲジンミッキョウ)
(深密なる教を解く)
という経典には
「如実修行」という言葉に
訳されています。
ですから、止観というのは
「行」ですね。
講義は、続けて、
「止めると書いてあるのは
これは定のことやったね。
心を静止すること。
心を専注することを止。
外に散乱 …
来るもの来るものに
心が動いているのを止める
のです。
絶えず外のものに
引き回されている、
我々の意識は。
それを止める、
禁止するのだ。
そして内面に向けるんです
外に走っている、
外に支配されている心を
転じて、禁止して、
そしてその、内面に向ける
そしてそこに集中する。
精神集中。
専念というようなことが
いわれるのはそれです。
一心専念と。
これがまあこの、
それによって初めて、
専念されたものを
見るんだね。
それが観です。
つまり専念されたものに
なるんです。
だからものとなれと、
そしてものを見よと。
ものとなってものを見る。
色々あの、
頭をはたらかして
いろいろ考えずにやね、
およそ考えることを止めて
ものそのものになれと。」
心が乱されることを例えて
こういう話しがあります
「六窓一猿の喩」
(ろくそういちえん)
六つの窓が開いている籠に
猿が入っている
猿がその六つの窓から
顔を出して眺めるという
六つというのは
私たちの六つの意識
眼耳鼻舌身意
見るもの、聞くもの、
嗅ぐもの、味わう、
体に感じる触、
そして心の意識の六つ
そういうように
見たり聞いたり味わう
それぞれに興味をそそられ
意識が定まらないという
そういう
人間の散乱した心を言って
います
そこに猿を持ってきたのは
なるほどと思いますが
猿の姿が思い浮かぶ
ようですが、それは
取りも直さず私たちの姿
なのです。
前のところでは
止めるということを
括弧に入れるという表現で
述べておられました
色々興味はあるが
それぞれを括弧に入れて
今は一つに集中する。
これは大事なことで
なかなか
集中できないのです。
静かに座禅すると
静かになればなるほど
心の中には
考えてもいなかったことが
次々と浮かんでくる
そこに呼吸法ということに
ヒントがあるようです。