仏道の修行に限らず
願いというものがあって
その行動が出てくる
小さいことから
寺を建立するという
大事業にしても
願ということが根底にある
ものです。
止観という行も
あるというのではなく
行はすべて止観なんだ。
ということの続きです
「だからしてこの、道、
行道というが、
道を行ずるというような、
この、行道ともいいますが
それによって
この止観という行によって
願が、願の、願だね。
あのー、
願によって願ぜられている
ものが実現していくんです
願ぜられているものが
リアライズされてくる
わけです。
精神統一する。
その専注するというのは、
それは、
精神統一するのは、
目的観念がリアライズ
されてくるわけです。
これは行です。
行というものは、
行というものの動機に
なるものを願というんです
願から、
行を起こす動機を
願というのです。
願が行というものを
展開して
その行によって願を
実現していくわけです。」
この願がなければ
どのような修行も
成り立たないのです。
菩薩の願に
「四弘誓願」
(しぐせいがん)
というものがあります。
衆生無辺誓願度
(シュジョウムヘンセイガンド)
誓ってすべてのものを救う
煩悩無数誓願断
(ボンノウムスウセイガンダン)
誓ってすべての迷いを断つ
法門無邊誓願学
(ホウモンムヘンセイガンガク)
誓ってすべての教えを学ぶ
仏道無上誓願成
(ブツドウムジョウセイガンジョウ)
誓ってこの上ないさとりに
いたろう
こういう四つの願が
あります
菩薩を菩薩たらしめる
願いです
この願いがなかったら
菩薩とはいえないのです
ではこういう願が
実行できるかというと
どれも実行できない
願いです
しかし、
必ず実行しようという
願いが菩薩と成らしめて
いるといえるのです。
出来るから願う
出来なかったら願わない
というのではないのです
出来るできないを超えて
願わずにはおれない
そこに崇高があるように
思います。
この四弘誓願には節が
ついていて
とても感動的な音階です
大学の入学式の折
合唱団の歌うこの四弘誓願
を聞いた時、
何かしら身が引き締まる
感動を覚えました。
出来るから行う
できないのであれば
願わないというのは
ある面ではソロバンです
損得勘定です
出来るできないを超えて
願わずにおれないという
ところに願というものの
本質があるようです。
短いところですが
「行というものの動機に
なるものを願という」
この言葉は私たちの行いの
純粋さ、願いの純粋さが
問われているように
思うのです。