庭師のロイ・スミという方
「ゴールはなく
歩み続けるだけ」
ということを
話しておられました。
なかなか薀蓄のある言葉
です。
修行も同じで
さとりということも
ゴールではなく
その道程をいうのでしょう
よく、坂道に喩えられます
一歩一歩歩んで
ここまで来たのでちょっと
一服、そしてまた
始めるというと一服した
所から始まるかというと
そうではなく
またもとの
出発点から始まるのです
ですから、
進まなくても
止まれば落ちてしまう
足踏みしているだけでも
かろうじて現状維持
ということでしょう。
というようなことを
講義では、
「煩悩がなくなった
という意味じゃない、
熟したんや。
成熟したんです。
行が成熟してきて、
双運というような止観が
ならび現行(げんぎょう)
すると。
止観が矛盾なく現行
してくるということは、
これは
成熟(じょうじゅく)です
まあここらが非常に大事な
字ですが、
成熟(じょうじゅく)と
いうのはものが
成熟(せいじゅく)する時
時熟(じじゅく)ですね。
時間という意味もあるけど
また熟するという意味
もある。
両方あるわけです。
時計の時間はそういうこと
はないけど、
生きた時間は何か
成熟させるんだ。
ものが育つんです。
いっぺんやったことも、
やって止めてしまったら、
何にもならん。
いっぺんやったことの意味
は二遍やる時に出てくる。
二遍やった意味は
三遍やるときに出てくる。
たとえていえば、
幼稚園でも何でも、
幼稚園の意味というものは
幼稚園だけでは分からん
のではないかな。
小学校行ったときに
初めて幼稚園の意味が
出てくる。
小学校の意味は何かと
いうと、
中学校行ったときに
出てくる。
中学校の意味は何かと
いうと、やっぱり
高等学校行ったときに
出てくる。
中学校の時やったら、
もうむちゃくちゃに英語
でも算術でも教わったんや
それがごっつい意味を
持つんだと。
こういうようなことが
だんだん後から後から
分かってくるんであって、
気が付いたときにはもう
手遅れというようなもんだ
「しっかりやっときゃ
よかった」
というようなもんだ。
そういうようなもんで
あって、やっぱり
教育というものは、
途中で切ってはだめだと
思うね。
教育というものはもう
子供の時から老人になる
まであるもんじゃないかと
思う、
一生一貫して。
学校教育と社会教育と
いうものは
連続したもんじゃないかと
思う。
だからこの、
時熟の結果として
双運するようになるんだ。
これは別に
煩悩が妨げているわけでは
ない、止と観とを。
その、
惛沈掉挙というような
煩悩もあるんです。
惛沈掉挙という煩悩も
消極的には
惛沈掉挙の煩悩が
対治されたということに
なるけど、
積極的に言えば、
行が繰り返されたと、
熟練してきたと。
こういう、
ただ理屈で分かった
というんじゃないんです。
あの、
繰り返すというときに、
さっき言った
時間というものの
非常に不思議な意義が
あるんです。」
なかなか面白いところで
よく記憶に残っている
ところです
思い当たる節があって
卒業してみて
あれしときゃよかった
これしときゃよかったと
悔やまれるもので、
そういうことからいうと
し続けるということの
大切さを
今更ながら思い知るもの
です。