本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

自分にも絶望せんし、人にも絶望せん

2023-12-05 20:22:40 | 十地経

「煩悩の所為なり」

(ぼんのうのしょいなり)

ということがあります

煩悩のなせるわざ、という

ことでしょうか

煩悩のは自分で起こして

自分で納めることができる

と思っているのですが

自分ではどうにもならない

ものが煩悩です

 

腹を立ててみよ、

と言われえてもすぐには

腹は立たないし

いろんなものを欲しがって

みよといわれても

なかなかすぐには

欲しがる心を起こせない

ものです

やはり縁によって起こって

くるものなのです

それで、煩悩の所為、と

いうことが言われると

思います。

 

それで、講義は

 

「行を基礎づける願心

というような、要求。

精神的要求なんだ、

願というのは。要求。

 

欲望は煩悩ですけど。

本能の要求というような

ものじゃなくして、

やはり精神的な要求。

本能といっても、

精神的な本能

というものがある。

そういう場合は願と

いうんですけど。

 

これは、なんというか、

或る人にはあり、

或る人にはないという

もんじゃないと思うんです

 

あいつは駄目な奴だと

いうようなことをいっても

願がないんじゃないんです

願があるから、

我々人間は互いにね、

語り合うことが

できるんです。

 

どんなもう敵対しとる

仲でも語り合うことが

できる。

アラブの問題でもそうだね

願がなければ、人類の、

共同体という願がなければ

人類の共同体という、

一つのね、

願があるんですよ。

 

これがあるからして、

願があるときに我々は、

人間に絶望せんのですよ。

「こんな奴と思わなんだ」

というようなことを

いわんのや。

また、自分にもいわんのや

「わしゃもうあかん」

というようなことを

いわんのや。

 

絶望、自殺せんのや。

願があるからですよ。

願というものが、

やっぱり、

自分にも絶望せんし、

人にも絶望せん。

人生というものを

成り立たせる所のものは

願なんです。

願心なんです。

 

それをもう、

ぐんぐん、ぐんぐん

深めていくから、

願往生心とか、

往生浄土の願心とか、

無上菩提の願心

というものが出てくるので

あってですね、

何もそんなものに

よそから付け加えて …

もんじゃないんです。

 

それを起こすときに

初めて障害がある。

たとえていえば、

なんというか、

障害も意識されるし、

また障害があるところに

初めてその、

障害によって願が

なくなるのじゃなく、

障害によって

願が意識されるんです。」

 

何かやろうと思い立つ

そしてやり始めると

必ず色々の問題が出てくる

ものです

障害も問題も

起こらなかったら

何もやり始めていない

ということでしょう。

 

それによって

どれほどの願いを

もっていたかが試されて

くるのです

ある面で困難が大きいほど

それほど大きな願を

もっているということです

 

そういうところに立つと

自分にも絶望せんし

人にも絶望せん

ということでしょう。

 

 

 

 

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