四威儀ということが
ずっと出てくるのですが
四威儀は行住坐臥
歩く立つ座る寝るという
誰でも行なっている
それも日々毎日、
それこそが仏行・仏道だと
「威儀即仏法」
という言葉もあります。
修行・道を行ずる
といっても威儀なのです。
ということで、
講義では
「道というものと、
道を行ずることと二つある
わけじゃない。
もう存在自身が道になって
いくと。
一念一刹那も、
自己と、自分の存在と、
自分が道を歩む
ということが二つないと。
どんな瞬間をとっても。
こういうことだろうね。
何かパウロの言葉で
『我生けるにあらず、
キリスト我にあって
生けるなり』と、
私が生きとるんじゃないと
私は死んだんだと。
真理によって
私は死んだんだ。
その時、
真理が私になって
生きとるんだと。
こういうような一つの
確信んじゃないかと
思うですね。
私が生きとるんじゃない、
道が私となって生きとるん
だと。
だから、
どの時間をとってみても、
それは道の時間だと。
どの一念一刹那も道の時間
だと、
こういうことで、
こうずーっと一貫して
述べられて
いるんじゃないかと思う
ですね。
時間、
ある時間に道を行ずるん
じゃない。
道の時間をね。
時間そのものが道を実現
しとるんだ。
だから道元禅師なんかは、
二六時中は仏の命だと。
二十四時間というのは、
我々仏の命を賜って
生きとるんだと。
こういうわけだ。
自分のわがままの時間じゃ
ないと。
そういうように
自分を超えて生きる
ということや。
自分のわがままで生きる
というんじゃないだ。
こういうところに、
やっぱり人間の、
何というかね、あの、
生き甲斐が …… 、
自由という … 。
僕はこういうふうに
思うんでしけど、
自由ということと
必由ということがある。
必由というのが
本当の自由じゃないかと
思うですがね。
必は必然ですね。
必然ということが
本当の自由ということで
あってですね、
必然を止めたのが
自由じゃない。
必然を止めたら
自由というのは我がまま
ということや。
放埒や。
先に自由に自分を
拘束するんだ、
必然をもって。
つまり、
私は私のものじゃない、
道のものだと。
私の存在は私の自由に
できんもんだと、
こういうわけですね。
そういう拘束がなければ
ですね、
人間、
何か生きがいとかと
いうものはないんじゃない
かね。」
四威儀ということは
お釈迦さまの言われる
行住坐臥
どれ一つ取ってみても
出来ないものです。
自分がやるというと、
そこに何か
大きな転換があるように
思うのです。
「道が私となって生きる」
常識的に考えたなら
絶対に分らないように
思うのです。
最近はよく「自分探し」
ということをいいますが
探しても絶対に分からない
と、先生は仰っています
都合のいい自分を
求めているだけで
現に今ここにいる自分
というものを蔑ろに
しているのです
今、与えられた境遇
ということが
必然ということでしょう。
そういうことを見つめると
今現にある境遇
ということが拘束です。
その拘束を
有りうべからざることと
有難い
有ること難し
今の状況は千載一遇の
チャンスではないかと
そういうふうに
受け止めると、必然と、
そういうところか
本当の自由なはたらきが
生まれてくるように
思うのです。