ヨガということは、
どうもあの体操的な運動が
頭にあって、
瑜伽ということと一つに
ならないのですが、
瑜伽ということを
調べてみると、
ヨガということが
単なる運動ではなく
その内容は止観という
奢摩他・毘婆舎那
ということしか出てこない
ようです。
もとの意味は
「結合する」「結び付く」
という意味ですが
それが意訳されると
「相応」と訳されます。
つまり、
身と心が等しく和合する
という意味で相応という
意味が出てくるのでしょう
なぜでしょうか
ヨガというと運動が
先に立ち、
その本来の意味が
後回しになっている。
どこを調べても
ヨーガというと止観であり
それは仏教の実践の
根本であるということしか
出てこないのです。
それで止観ということが
講義でも繰り返し
色々な角度から述べられて
います。
「止というのは、
内観に違いないけれども
ですね、まあいってみれば
この、
問題そのものとなる、
という意味があるのでは
ないかと思うですね。
精神統一というような、
そういう意味じゃないかと
思います。
もっと言えば
ものとなってものを見る
といいますか、
ものとなるということが
大事なんじゃないかと
思いますね。
ものとなって
同時にまたものを見る
というよりも、
ものとなればもの自身が
もの自身が自分を
語っていくというような、
反省するというと
何か色々我々が
頭をひねくるように思う
けれども、
頭をひねくっとるのは
かえってものになっとらん
わけですよ、ええ。
ものそのものとなる
というような、
えー、なんですね、
科学の実験観察という
ようなこともそうだと
思いますね。
止観ではないかと思うです
実験は行ですわね。
観察は観ですから、ええ。
科学というようなものも
一つの、止観によって
成り立っている
というような意義が
あるわけです。
芸術的創作でも
そうだと思うのです。
僕の知っとる陶芸家が
いましてですね。
土を練ると、そのときに、
まあほとんどいえば、
全身を、土になってしまう
というようなね、
そういうことが
大事なんです。
基礎額という。
芸術作品を作るという、
そういう分別があると
もう駄目なんだ。
そのような生意気なですね
芸術家的意識というものが
あるとそれがかえって
阻害するんです。
そのものになっとらん。
かえってそういうものが
邪魔をして
そのものにならせんです。
そういうような、
いいものを作るとか
悪いものを作るとか
いうのじゃなしにですね、
もう、土になるという。
土になる。
土を練るということよりも
土になるという。
土の中に自分を浸けて
しまうというような意味が
大事なんじゃないか。」
心ともの、とか
心と体という
そういう別々なものでなく
和合して一つとなる
そういうことがヨガの
意味が根本にはある
ように思うのです。
それで、私はあえて
カラダという場合、
「体」と書かずに「身体」
と書くのです。
「身体」という字に
心と体という二つの意味が
込められているように
思うからです。