本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

止観双運(しかんそううん)

2023-12-09 20:31:43 | 十地経

止観という全く反対概念の

ことなんです

止と観、

止まると観るという

これが初めて協力する

ことが出来たことを

双運というのです

それで

止と観が同時に働くことを

止観双運と、

 

そこで講義では、

 

「双行、二行がね、

矛盾するものが

今矛盾せんようになった

ということをいうのです。

だから双という … 

二行が大事なんじゃない。

双ということが

大事なんです。

双が現行(げんぎょう)

したということ、

二行双、二行が並んで、

ことが初めて実現すること

ができたと。

止観が双運、

止観が互いに協力すること

が今初めて成り立ったと、

こういうんです。

 

止観というようなものは

これ、一致した場合を、

止が止にとどまらず、

観を持った止を、

それを禅というんです。

 

禅宗の禅というのは

止観ということ、

ただ止だけでは

禅といわんのです。

観を持った止を禅という

のです。

 

だから座禅といっても

別に無念無想というような

具合になっているのは

禅じゃないんです。

禅といういうようなことを

いうと、何か … 、

やっぱりですね、

禅も念仏なんじゃないけど

念仏をすると念仏の中に

禅というような意味が

出てくる。

それを念仏三昧という。

 

三昧は一つの禅です。

三昧になろうと思って

三昧するんじゃない。

仏を憶念すると自然に

そこに禅が成り立ってくる

止観がね。

 

ただ止観をやれ

というようなこといって

できやせん、

何か、念仏とか、

仏を憶念するとかいう

ようなことがあると、

 

念仏というのは何か、

忘れとった世界を …、

念仏の念といいうのは、

今の念ですけど、

これは憶念という字で、

この場合は。

 

憶念というのは

意味の深いことであって

何か記憶という意味です

けど、ある意味じゃ

回想というような意味も

あるじゃないでしょうかね

憶念想起するというような

 

忘れとったものを

想い起こすと、

忘れ、とうに忘却しとった

世間のことにとらわれてね

損だとか得だとか、

憎いだとか、

そういうことに、

 

つまり、日常性の中に

支配されてしまって、

そして根元、自己の根元。

自己をして

自己たらしめているような

根元を忘却しとった。

 

それが、その、

なんかうまくいかんように

なったことを縁として、

その、にっちもさっちも

いかんようになったことを

縁として、

行き詰まりを縁として、

その根源を回想してくると

 

もし行き詰まらなかったら

根源を回想する機縁は

なかったんや。

あなたがたもそうでしょう

自分の思う通りになっとた

時には、

人間はどこまで堕落するか

分からんものだ。

 

思う通りにならんで

幸いなんだ。

初めて歩みを止める。

そしてそこに、この、

回想が方向転換するんだ。

考えんのじゃあない。

そこで黙っちゃって、

行き詰まっとるんじゃあ

ないんだ。

 

考えるんだけど、

考える方向が転ずる。

そして、

自分の根元という

忘れとったものを

思い出してくると。」

 

人間、調子が良いと

ついつい自分を忘れて

しまうものです

ですから、

ある面からいうと

思い通りにならない

ことの方が本来の自分を

見出してくるきっかけに

なるのです。

 

在ればあったで

有頂天になるし、

なければないで

欲しい欲しいと

欲求不満が募ってくる

本当に止観ということが

成り立つのは

難しいものです。

 

 

 

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