「ドイツ語でね、
同じ汝でも Du という
言葉を使う場合と
Sie という言葉を使う場合と
あるんです、区別して。
Sie の方は、
尊敬をもっとるんです。
尊敬をもっとるということは
よそよそしいんです。
だから神なんかは、Sie とは
いわんです。
やっぱり Du といってる。
自分の愛人でも Du という。
Sie というようなことは、
やっぱり何か、
尊敬を表すんであって、
なにかそこによそよそしさが
ある。
こんなことがあって、
同じナンジでも近い方は、
Du を使うんだ。
こっちの方は
やっぱり独立したものと
独立したものとの対比の
場合には、Sie を使う。
どっちも独立しているんだ。
だから先生も、教師の、
先生も学生も人格は平等でしょう。
学生は別に先生の部分じゃないん
です。
だからして対等なんです。
位置は、
その教えると教えられる
という区別はあるけれど、
人格は平等なんです。
それで仁者というような
使い方がある。
けれど汝の方、
汝の方はですね、
これはそんなものじゃない。
独立者と独立者との
対比じゃない。
独立者の構造なんだ、
一人ずつのね。
実は汝ということによって、
真の独立ということが
成り立ってくるんだ。
内面的なもんだ。
個物を個物として成り立たせる
範疇が汝なんだ。
個物と個物との関係が仁者
なんだ。
我、仁者、、我と仁者。
我と仁者と、我と汝と
同じナンジでも違いがある
んですね。
こういうところは非常に
仏教はですね、
救主と教主とを混乱せない
んです。
救い主というものと、
教え主というものとを混乱
せない。」
早速難し文が続きますが、
読みながらふと思い出すのは
洛南高校で、
卒業生が先生としてもとの
洛南高校へ帰って来られる。
その時、
三浦先生は教え子であっても
必ず、○○先生と呼ばれて
おられました。
「おい」とか「お前」と
いうようには呼ばれなかった。
ちょっと前までは今まで
教えていた生徒であっても
教師という免許をもって
帰って来られたら先生です。
そこは厳密に守っておられた
ようです。
人格は平等でも立場は
先生と生徒という位です。
おい、おまえ、とか言い出すと
呼ぶ自分もそうなってくる。
相手をさげすんで呼べば
自分も自ずからさげすんでいる
ということです。
相手を汝と認めることによって
自分もそのように汝となってくる
そこに教育が成り立つと
そういうことを仰っておられた
ように思います。
「我と汝」ということも
哲学的には難しい問題ですが
そういうことを実践として
実行する場合、
一つの「先生」という呼称
にも気を使われ、
先生と呼ぶことによって
呼ばれた方も先生になっていく
そういうところに
「我と汝」ということを
実行しておられたようです。
なかなか面白い問題です。
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