本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

八幡の歴史を学ぶ

2016-11-17 20:54:23 | 住職の活動日記

「八幡の歴史を探究する会」主催で

八幡市のふるさと学習館で

2カ月に一回の割で開催されています

 

今回は「淀屋と八幡」がテーマです。

『淀屋』というと大阪の淀屋橋が

浮かんできますが

この「淀屋」という方が架けたので

そこから淀屋橋の名前がつきました。

 

宇治の五ヶ庄岡本村の生まれ、

小さい頃から才覚があったようで

秀吉が伏見城を作る時

大きな石が邪魔してはかどらない

秀吉の命で3日で片付けろと、

悩んでいたところ

子供の淀屋常安、

私にやらせてほしいと申し出ます

大人から笑われるのですが、

大きな石の横に大きな穴を掘り

その石を埋めてしまった。

 

そのことから伏見城の築城や

淀堤の土木工事に尽力し、

また、

大坂夏の陣では家康と秀忠に

ご陣小屋を献上

褒美として八幡に山林300石を下賜され

名字帯刀を許されたということです。

 

それから、大阪の中之島の

開発を許され、

その当時湿地帯だった

大阪の街を整えっていったのです

それから代々、コメ市場や

海産物市場、青物市場を設立して

水運を開き物流の拠点を

築いていき、

巨万の富をバックに神社仏閣の修復

文化事業の復興にも努めたのです

 

参勤交代で何かと出費の多い

大名たちにも多額のお金を融通

全国の大名たちに

総額銀一億貫目(約100兆円)

将軍家へは80万両(480億円)

公卿たちへは13万両(80億円)

と、貸し出しをするほどの力を持った

商人になったのです。

 

5代目ごろになると

その資産は100万石を

しのぐ勢いになり、

その力を警戒した幕府は

表向きは倹約令に背き、

分限を越える驕奢と謀書・謀判の罪

ということで、

共謀した5人は獄門、

五代目の辰五郎は死罪を免れ

八幡に隠棲したということです。

 

闕所(けっしょ)により没収されたものは

今の金額に直すと14兆3735億円

ということだったということです。

 

◎近代的先物取引をした、

 ということも世界最初

◎米相場を旗振りの連絡網で

 岡山までわずか10分で届いた

 (旗振り山というものを

 張り巡らせていた)

 

八幡というところは

三つの川が合流するところで

物流の拠点でもあり

京都と大阪を結ぶ要衝でもあった

ということで、

政治経済文化の要だった

というような場所だったようです。

 

とても興味深い話でした。

 

 

 

 

 

 

コメント
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