本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

即位

2016-11-10 20:04:42 | 住職の活動日記

「即位」というと一般的には

天皇が位につくことを指します。

でも、

仏教でも使う言葉です。

凡夫が菩薩に即位する、

菩薩が仏に即位する、

というように使います。

 

先日お見えになった

醍醐寺の管長様「仲田順和」猊下

醍醐寺の長としては「座主」

という位、

醍醐寺の三宝院の住職としては

「門跡」という位、

醍醐派を率いる立場では

「管長」という位、

そして今年は「御七日御修法」の

大阿闍梨を勤められましたので

「真言宗長者」という位に

就いておられます。

 

体(たい)は一つで位が違う

体は一つなのですが

そのハタラキとしては位が

それぞれ違うのです。

 

それと同じように、

仏といっても人間と別物に

なるものではなく、

まったく異なったものになるのでは

ありません。

体は一つなんですが

修行により自我を克服して、

自己関心を克服して

一切衆生という社会関心というか

一切の人々が問題になってくる

そこに、菩薩という位に

位づけられるのです。

 

だから、「位」ということも

大きな問題です。

地位、ということもあります。

世間でいう位ではなく、

十地経の「地」ということです。

 

「地」ということは

修行して地に入るということも、

そしてその地に住する

ということもあり、

さらに次に地に向かって

その地を出るということがあります。

 

地に住する、というから

弘法大師は十地とはいわないで

十住という表現をとられてます。

 

だから、「位」ということも

一つの権威としてみてしまうと

間違うことがあります。

また固定した名詞としてみると

その権威に振り回されてしまいます。

地位、…に即位する

ということは動詞です。

歩みがあって、

初めて法に触れた喜びが

「初歓喜地」、歓喜です。

初地に即位して、

修行して第二地離垢地に

即位するわけです。

そしてその地を出て

さらに次に地へと向かい

という具合に、

即位するということは

即位したから

それで終わりということではなく

次々と進んで行くものなのです。

 

ヘーゲルとい方が

『精神現象学』で、

精紳が弁証法的に発展していく

というようなことを

述べておられますが、

それに近いものかもしれません。

 

また、辞書には

「即位灌頂」ということが

述べてあります。

天皇は即位する時

手には印を結び真言を唱えながら

高御座(たかみくら)に登る

所作を行うと、

書いてあります。

 

おそらく、

真言宗では伝法灌頂の時

大日如来の宝冠を被り

手には印を結び真言を唱え

という儀式がありますので

昔は天皇も灌頂を受けて

おられますので、

そういうところから伝わったのでは

ないでしょうか。

 

位ということも「十地経」のように

十まで行ったらそれで終りか、

というとそうではなく、

ヘーゲルの現象学が無限に

展開していくように、

即位するということも

無限に展開していく

修行がさらに修行を生んでいく

修行ということが深くなって

いくということでしょう。

 

即位してそれで終わりとしたい

のが人間の心ですが、

動的にとらえないと、

その即位した地位とかに

眼が眩んで、

その人を見誤ってしまいます。

また、自分も堕落してしまいます。

 

即位、地位、位

ということはとても大切なことです

だから、よくよく認識して

見ていかないと

人を見ずにその位だけ見て

本当の姿が

見えなくなってしまいます。

 

即位する、

というように動詞とみると

私たちも修行の道程なのだと

心落ち着けるのでは

ないでしょうか。

 

 

 

 

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