本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

バッタの行旅人

2016-11-25 17:22:23 | 住職の活動日記

行旅人と旅行人とでは

大きな違いがあります。

家があって楽しいところを見て回り

美味しいものを食べてと、

また家に帰ってくる。

それはレジャーとしての

楽しい旅行です。

行旅人は簡単には行き倒れ

自分の家がなくあてもなく彷徨い

行きついた先で亡くなる人の

ことです。

 

旅行はなぜ楽しいか?

それは、帰る家があるから

なんです。

帰る場所を持たない旅ほど

辛いものはありません。

 

 

この時期、もう虫たちも

死んでしまったのかと

思っていましたら、

 

 

玄関前に一匹のバッタ

ここ二、三日の寒さが

堪えたのでしょうか

手に取ってみると

 

 

微かに動いている。

 

まあ、バッタにとっては家もなく

行った先々がわが家でしょうが、

こういう生き物はその場その場が

わが家なのです。

 

「かたつむり、どこで死んでも

わが家かな」

 

という歌もありますが、

人間だけがわが家で死ねたらという

はかない望みを持っています。

なにせ今は、

病院のお世話にならなければ

死ねない時代です。

 

そういえば、お釈迦さまの死も

「行旅人」の死だったのでしょう。

ただ私たちと違って

死にたくないといって死ぬのではなく

やるべきことはすべてやり尽くした

すべての命を燃焼しきっての

涅槃だったのです。

 

亡くなられたお姿は

大きなお姿で金色に輝いている

それは阿難尊者が見られた

お釈迦さまのお姿です。

何も知らない通りすがりの人には

痩せこけた年寄りが死んでいる

そのことが事実なんでしょうが、

阿難尊者には

肉身としてのお釈迦さまではなく

法身としてのお釈迦さまのお姿が

目の当たりにあったのでしょう。

 

以前も、仏教学の講義を

聞いていた時、

その講義の場所に来られる姿は

よぼよぼして足下もおぼつかない

ところが、

一端席に着き講義を始められると

そのお姿は凛として声も張りがあり

とても大きく見えたものでした。

 

あの立派な涅槃図のお姿は

阿難尊者に見えたお姿なのです。

また、涅槃ということでも

「無住所涅槃」ということがあります。

住所を持たない涅槃です。

一定の安住の地を持たない涅槃

普通は安心する場所を持った

涅槃です。

決まったところを持たない涅槃

その場その場で涅槃に入る

自分に与えられた場所が

わが棲家として腰を落ち着ける。

けれども、無住所ですから

その場所は

決まったものではありません

困ったもので、

今の場所を与えられても

もっと他にいいところがあると

錯覚してしまうのが私たちの

常のあり方です。

仮にでもマイホームを持って

安心したいのです。

 

まあ、そういうことからいうと

他の生き物たちは

無住所を住処として

生きているのです。

 

しかし、

今日のバッタさん、

何もわが家の玄関先で

行き倒れにならなくても

よかったものを、

 

 

察するに、ちょうどシクラメンの

花の前に倒れたということは

 

「願わくば花のもとにて我死なん…」

 

という歌ではないですが、

花の下で亡くなりたりたかった

ということではないでしょうか。

 

そっと手に取って

わが家の草むらにおいてあげました

 

このこともまあ、面白いもので

若し夏の盛りにやってきたら

それこそ、そこらじゅうの

緑というものは食べ尽くして

しまうことでしょう。

そうなれば駆除しなければ

ということになってしまいます。

人間も自分の都合ですね!

都合が良ければ可愛そうに

ということになりますが、

都合が悪ければ

全部駆除してしまえと、

勝手なものだと思います。

 

ちょうど読んでいた百人一首

 

「奥山に 紅葉踏み分け

鳴く鹿の 声きく時ぞ

秋は悲しき」

 

と出てきましたが、

なんだか虫の死にも

悲しいものを感じます。

 

 

 

  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする