本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

聞法・教えを聞くということ

2018-11-20 21:23:46 | 十地経

お経の最初の文句は

「如是我聞」(にょぜがもん)

この時の我というのは

阿難尊者のことです。

このように聞きました

ということから始まります。

そのように仏教においては

「聞く」ということが

修行の出発点になります。

 

ソクラテスも

「無知の知」ということを

言って、何も知らないのだ

だから教えてくれと、

あまりしつこく聞きまわったので

「うるさいハエ」というような

あだ名もついたようです。

 

とにかく自分は無知であると

そういう立場で聞くということを

中心に置いたようです。

 

十地経の講義では

「聞というような広い道はない

教えたりするから狭くなる。

分からんことは聞く。

分からんものは分からんし

分かったものは分かったと、

こういうのが公明正大な

裏も表もない態度が聞法です。

何も聞くのが恥じゃない

逆に知らんのに知ったというのが

大きな恥だ。

人間には聞くということが

大道なんです。」

 

「知らないから求める

無知の自覚というものが聞法

ということです。」

 

今の時代聞くということを忘れ

自己主張というか

しゃべることの方が

多くなってきているようです。

しかし、

聞いていると今の若者たち

本当に上手にしゃべり

感心させられます。

 

よく、師匠の三浦先生から

「身体じゅうを耳にして聞け」

ということを常日頃

厳しく教えられました。

ものごとを見るにしても

ただ見るのではなく

真の姿を見るには

自分を無にして

身体中を耳にして聞かなければ

そのものの声は

聞こえてこないのです。

 

スティーブ・ジョブズさんが

stay foolish 愚直たれ

と言われたことも

自分の無知ということを

知らなければ本当の声は

聞こえてこないということでしょう。

 

昔から、

「耳を傾ける」とか

「聞く耳を持つ」

というようないい言葉が

たくさんあるようです。

お経の中にも

「聞不具足」(もんふぐそく)

ということがあります。

聞いていても本当に聞いていない

ということです。

 

人の話は真剣に聞く

聞くということも

考え直してみると

人間の原点のような気がします。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする