本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

煩悩にゼロはない

2018-11-23 20:56:13 | 十地経

煩悩ということがわからないと

なにかしら、

無になって、心を空っぽにして

煩悩さえ起さなかったら

それでいいのでは、

と思うのですが、

 

大随煩悩というのがあって

それは八つあるのですが、

その四番目に懈怠(けたい)という

煩悩があります。

その懈怠ということを説明する中に

「善悪品の修断の事」

という一文が出てきます。

善品と悪品の修断という事、

つまり、

善品は修して、悪品は断じなければ

ならないということです。

善は修して、悪は断じる。

 

行なうという(修)と

積極的に断じていく(断)

この二つがセットにならないと

ものごとは成就しない

ということです。

 

何もしないということは

消極的にも見えるて

それはそれでいいのではないか

と思うのですが、

それはその反対で

消極的な姿に見えることが

実はきわめて積極的な

煩悩を助長させていくという

力をもってくるのです。

 

消極ということが

積極の生みの親になるという

ことが多いのです。

無明ということは

智慧がないということですから

消極的に思えます。

ところが、智慧がないと

本当のことがわからない

本当のことがわからないと

それだけでは終わらなくて

本当でないもの、

勝手に自分が良いと思ったものを

本当と思ってしまうのです。

 

あるコメントで

渡辺淳一さんは北海道出身

今まで食べた中で毛ガニが最高

と思っていたそうです。

ある時、北陸で越前ガニというか

ズワイガニを食べた時

今まで食べていた毛ガニは

何だったのか

ということを仰っていました。

 

人間は悪い癖で

本当のことを知らないと

本当でないものを

本当と思ってしまう、

ということがあります。

 

無明というのは智慧がない

それによって我執が起こる

我執は積極的であるが

無明は非常に消極的、

その無明が転倒して我執になる

私たちは、

消極的なものはあまり警戒しない

が、実は

その悪い積極的な元は

消極的なことにあるということです

 

それで、お釈迦さまの説かれた

修行の三十七菩提分法という中には

悪を断じて、善を修す

ことがいろいろな修行に出てきます

 

修行して善を勤めるということと

今まで積み重なってきた悪を

断じるということは

必ず両方行わなければいけない

ということです。

 

だから、

ゼロはないということは

一歩一歩歩み続けなければ

マイナスになってしまうという

煩悩も起さずに

おとなしくしていれば

いいではないかと思うのですが

そうではなく

対治して行かなければ

必ず我執という

マイナスの働きが起こってくる

ということです。

 

これは、やる気がない人が

周りにいると

その人だけそっとしておいて

当らず障らずでいれば

いいではないかと思うのですが

その人が一人いるだけで

その組織は次第に不満が出て

段々やる気のない空気が

蔓延してくるものです。

 

同じことで

人間の心もそのやる気のない心を

そのままにしておくと

怠け癖が付き

次々といろいろな煩悩が生まれて

とうとうかすかに残る

自分の善なる心まで

食い尽くされていくという

そこに静かに見える煩悩の

恐さが潜んでいるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

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