本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

一切智と一切種智

2018-11-21 21:01:53 | 十地経

弘法大師が開かれた日本最初の私学

「綜芸種智院」

(しゅげいしゅちいん)

の名前にも種智という言葉が

使われています。

種智ということは疑問に

思っていたのです。

学校の名前自体も一寸変というか

舌をかみそうな名前と

不謹慎なことを思っていたのですが

『十地経講義』を読むと

その大切な内容が分かってきます。

 

仏教ではすべての存在ということを

「一切法」というようにいいます

法というと法律ということが

頭に浮かぶのですが

仏教ではものごとの在り方を

法というように言います。

そのすべての存在の在り方を知る

ということが「一切智」という

ことなのですが、

辞書には、

「すべての存在に関して概括的に

知る智慧」

というように出てきます。

それは菩薩・仏の智慧であると

さらに、

一切種智ということは

すべての知るべきものを

知り尽くした智慧というように

出てきます。

 

よく安田先生は講義の中で

klar und deutlich

クラール・ウント・ドイトリッヒ

というドイツ語で

話しておられました。

「明晰にしてかつ判明」

ということです。

この言葉を使って

一切智と一切種智ということを

説明しておられます。

 

「本当のものに触れたけれども

しかしながら、

いろんな仕方で知ったわけではない

ただ一面を捉えたというだけで。

つまり、

大海に触れたけど、

大海の一滴をなめただけだと

後には無限の大海があるんだと。

大海を知り尽くしたわけじゃない」

 

というように

海を知るというたとえで

一切智と一切種智ということを

説明しておられます。

 

ということは、

「一切種智という立場に立てば

終りはないんだと、

仏道というものは。

卒業したということがないのが

仏道ということなんです。

求める道はここまで来たら済んだ

ということはない。

十地ということは無限の段階を

表しているんです。

そういう所に自分を置くという

ことですね。」

 

なんだかこの話を聞いて

「綜芸種智院」にかけた

弘法大師の思いが伝わって

くるような気がします。

仏道には終わりはないんだと

ありとあらゆるものを

知り尽くす

それでもなおそれは

一面にしか過ぎない

種智ということに立てば

無限の修行の道程があるではないか

という声が聞こえてくるようです。

 

知ったということで

「満足したら、

それは自慢になってしまう。

煩悩に迷ったわけではないけど

さとりに迷ってしまう。

つまり自分のさとりに

惚れこんでしまうわけです。

結局独りよがりになってしまう。」

 

これでいいと思った瞬間

それはそこにとどまっている

ということではなく

今まで得たものまでなくしてしまう

坂道にいるようなもので

止まってしまったら

ずるずると下に落ちてしまう

ようなものなのです。

 

知るということに立てば

一切智ということで

いいのかもしれませんが、

仏道という立場に立てば

一切種智ということで

無限の修行の道程があるのでしょう

 

あらためて、

「綜芸種智院」

という名前を付けられた

弘法大師のお考えに感服します.

その私学を作られた

「綜芸種智院式序」には

 

「物の興廃は必ず人に由る

 人の昇沈は定めて道にあり」

 

と述べておられます。

この言葉は今の教育にも通じる

内容があるのではないかと思います

 

ついつい人間は調子がよいと

自分の分限を忘れてしまいがちです

一切種智を求める

という立場は自分を原点に

引き戻してくれるようです。

 

 

 

 

コメント
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