色々な場面で
「主体性」ということが
問題になるようですが、
もう一つ、
仏教的には「我執」ということも
同じ意味合いがあって
注意深く考えてみなければ
いけないように思います。
『十地経の講義』では、
主体性というのは
非常に大事なんですけど、
これ用心しないといけない。
多くの場合、
主体性と言っているのは
仏教の立場から言えば我執です。
我執ということと自覚ということは
紙一重です。
主体性主体性というようなところ
には、もう主体性はないんです。
主体を固執しているだけです。
道元禅師の言葉は非常にいいですね。
『仏法を習うというは自己を習う』
ことだと、
法に照らして自己がわかる
というんです。
法ということがなければ
自己をみるわけにはいかない。
(そして)
法を見れば自分は消えるんです。
そこで、
(本当の)自己が成り立つ。
しかし、それだけじゃなくて
『自己を習うというは
自己を忘るるなり』
自己を見るとは何かというと
自己を忘れることだと。
それが大事なことです、
自己を忘れるということが。
(本当の)自己は
自己をつかまえおくことじゃない
自己を超えることですね。(自分の主観を)
真理を見た人は自己に死ぬんだ。
そして真理に生きるわけです。」
とあるのですが、
自己に死ぬというのは
自分の我執に死ぬということでしょう。
なかなか、我執を破るというか
自分の我執に死ぬということは
至難のことのようです。
生まれもって身についてきた我執
そう簡単に
取れるわけではありません。
我執ということが
なぜ付いてきたかというと
本当の自分ということがわからない
からなのです
分からないならそのままかというと
本当でない自分を
本当の自分と固執してしまうのです
そこから我執が始まります。
人間は妙なもので
本当のことが分からないと
そのままでは終わらずに
本当でないものを
本当と思ってしまいます。
それでますます
我執が深くなっていくのです。
『十地経』ということも
その我執を破っていく修行の段階
ということです
この我執ということは強いもので
自分の我執を破って
智慧が目覚めたと
すると、智慧にしがみついて
法執という
これが悟った法なのだと
法に対する我執が出てくるのです。
ですから、
修行ということは無限に続く
それを
十という地で表したのでしょう。
そこに、
平凡ということの大切さ
悟ってしまったというのではなく
何のとりえもない人間
ということが大切になってきます。
自分ひとりが悟ったと、
あとはみな迷っているという
それでは自己を絶対化してしまう。
そうではなく
とりえのない人間だからこそ
無限の修行に耐えていける
ということが出てくると思います。
自分はさとったんだ
といってしまえばそれで
もう自分の固執が出てきます。
そういう者を克服する為に
「十」という
くらいがあるのでしょう。
生きている限り
この固執は取れないのだと
そういう自覚が道を歩ませてくれる
「十地」という段階が
あるのだと思います。