本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

縁は異なもの!

2018-11-09 21:17:21 | 住職の活動日記

縁ということは仏教の大切なこと

お釈迦さまのさとりも最初は

「縁」ということのようです

普通よく使いますが

「縁は異なもの味なもの」

「縁もゆかりもない」

とかいろいろありますが

お寺にいるときも

良縁祈願もあれば

縁きりの祈願もありました。

 

縁ということ

英語ではどうも表現しにくいようで

関係性というrelationということが

当てられているようです。

むかしの歌に

「結べば草の庵にて

 解くればもとの野原なりけり」

というのがありました。

ただ生えている草でも

それを結んで屋根のようにすれば

簡単な小屋のようになりますが

解けてしまうともとの草原に

なってしまうという。

因縁ということの一つのたとえとして

教えていただきました。

 

縁ということも良縁もあれば

そうでない縁もあります。

それから、縁ということも

ただ縁があるというだけでなく

そこには、

お釈迦さまの最初の教えの中に

四諦という

苦・集・滅・道ということがあって

この「集」ということも

苦の原因は

ただいろいろなものが集まった

ということだけではなく

そこには「集起する」という

集まったものはものを起してくる

という力があります。

 

人を好きになると

いろいろなことが気にかかり

気にかかることが集まって

そして、いろいろな行動が

起ってくるものです。

そういう縁の集まりが

愛という行動を

起こしてくるのでしょう。

反対に、

なにかの縁で嫌いになってくると

嫌いなことが積み重なってきて

することなすこと嫌になり

一緒に空気を吸うことさえ

我慢できなくなってしまうのもです。

 

それも縁の積み重ね、集まりです

集まるということ

それは力を持ち起るという

行動になってくる。

だから、縁ということと集という

ことは密接な関係があるようです。

 

好きになって縁が切れて

別れることになった

なんだか清々するという

ことも

あるようですが

何かの便りにその人が

亡くなったことを知った

縁が切れているようでも

その人のことが気にかかる

切れているようでも切れない

そこに人間の縁ということの

不思議さがあります。

 

初七日、二七日、四十九日と

お参りするたびに思い出し

また、縁のつながりを思い

日にちも経ち一周忌、三回忌となって

だんだんとその人との縁も薄れて

肉身としての姿も薄れ

良かった思い出とか

(ある面それが法身というものに

 なるのかもしれませんが)

そういうこととの出会いがあり

自然とお別れができていくのかも

しれません。

 

本当に縁ということは

異なもの不思議なものです

会っても別に気にならない人も

いますが、

どうも気になって仕方がない人

出てくるもので、そこから

ご縁を深めていくということも

あれば、

何かのことで縁が切れる

ということもあります。

また、復縁といって

縁が復活してくることもあります。

本当にどうすることも出来ない

ものです。

 

しかし、

縁ということもただ起るのではなく

そこには「集」ということがあって

どういうものをどうやって

集めていくかということが

その人を形づくっていくようにも

思われます。

 

「縁は異なもの味なもの」

といわれますが

縁とは不思議なものでもある

ようです。

そこにお釈迦さまの説かれた

「縁起の法」という

大切な教えがあるようです。

 

 

 

 

 

 

 

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