大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

奥沢の名刹・浄真寺九品仏(浄土宗)に漂う京の趣き

2012年03月12日 17時00分22秒 | 世田谷区・歴史散策
その寺は閑静な住宅地の中に忽然と現れる、という表現がぴったりの佇まいを見せています。

浄真寺本堂

東急横浜線の自由が丘駅で大井町線に乗り換え一つ目の「九品仏駅」は世田谷のど真ん中とは思えないほどの素朴な雰囲気を漂わす小さな駅でした。

参道入口

一つしかない小さな改札を抜け、踏み切りを渡ると目指す浄真寺の参道入口が現れます。まるで浄真寺のために造られた駅のようです。とはいえ駅から参道入口まではほんのわずかな距離しかないため、どこぞの寺のように土産屋が軒を連ねているという訳ではありません。

参道入口には浄真寺参道を刻まれた大きな石柱が立ち、長い参道が総門へ一直線にのびています。松の並木が植え込まれた参道を進みながら、徐々に近づいてくる総門と総門の向こうに居並ぶ伽藍に期待が膨らんできます。

総門へつづく参道
総門

総門をくぐるとすぐ右手に「閻魔堂(えんまどう)」が置かれています。せっかくなので閻魔様にお参りをすませ境内へと進んでいきます。

閻魔堂
閻魔様

予想にたがわず境内の広さには圧倒されます。おそらく都内でもいちにを争うほどの境内の広さを誇っていると思います。総門から入域すると正面に開山堂が構え、その開山堂を見ながら左に折れると18世紀末に建立され見事な建築美を誇る「仁王門」が現れます。

仁王門

仁王門のすぐ側には鐘楼堂が置かれています。梵鐘は江戸時代の作と伝えられています。仁王門をくぐり境内の庭園を見ながら進むと、右手に立派なご本堂が現れます。「竜護殿」と呼ばれるご本堂の脇に都指定の天然記念物「九品仏のイチョウ」が太い立派な幹を見せています。木の高さは約20m、幹囲は4.2mもあるそうです。

鐘楼堂
ご本堂「竜護殿」
大イチョウとご本堂

このご本堂に対峙するように広い庭を隔てて江戸時代の初期に建立された「三仏堂」が配置されています。実はご本堂は現世の此岸(しがん)を現すために西向きに建てられ、一方、三仏堂は東向きで浄土の彼岸を現しているといいます。現世の此岸、浄土の彼岸の考え方についてはとんと詳しく判りませんので説明は割愛させていただきます。

三仏堂遠景

三仏堂ということなので、大きなお堂が整然とした趣で3つ東向きに並んでいます。説明書きによると中央に「上品堂」、右手に「中品堂」、左に「下品堂」が配置されています。つい、「じょうひん」とか「げひん」と読んでしまいがちなのですが、正式には「じょうぼんどう」、「ちゅうぼんどう」、「げぼんどう」と読むようです。

中品堂
上品堂
中品堂全景
手前から中、上、下の各品堂

この三仏堂のそれぞれに三躰の阿弥陀如来像が安置され、合計九躰が鎮座することで「九品仏(くほんぶつ)」と呼ばれているのです。

境内俯瞰
境内俯瞰
境内俯瞰

実はこの仏様が開眼したのは江戸初期の1670年のこと。しかもその場所はここ奥沢の地ではなく、なんとお江戸深川の古刹「霊巌寺」だったそうです。当時、霊巌寺にはこれらの仏を祀るお堂があったのですが、洪水によってお堂が壊されたため、1678年に新たに場所を移したのがここ奥沢の浄真寺だったということのようです。

白梅と仁王門
紅梅と仁王門

静かな境内を一巡していると、紅白の梅の花が寒風の中で揺れているのを見つけました。




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私本東海道五十三次道中記~お江戸日本橋から品川宿~(其の一)

2012年03月09日 17時09分57秒 | 私本東海道五十三次道中記
私の東海道五十三次の街道めぐりはまだ始まったばかりです。道中に点在する五十三の宿駅を順を追って巡るのが筋なのですが、自らの勝手な都合で巡る行程がバラバラになってしまう不都合さはお許しいただきたいのです。

お江戸に住む私にとって、江戸から地方へ向かう感覚はどうも「下る」というイメージが強いのですが、古の昔から江戸(坂東)から帝が住まう京の都への旅路は「上洛」という言葉があるように「上る」という意識が常識だったようです。ご維新後、帝が江戸(東京)にお住まいを移された時から地方から東京にくることを「上京」と呼ぶようになったと聞き及びます。

さてお江戸の時代の江戸から京へ「上る」起点である場所こそ「日本橋」なのですが、「燈台下暗し」のごとく日本橋から第壱宿である品川宿を通しで歩いていませんでした。もちろんこの区間は断片的ではあるのですが、数え切れないほど歩いています。

そんなことで心機一転、双六のように東海道中の起点である日本橋から品川宿までを歩くことにしました。日本人であれば誰もが知るここお江戸日本橋が最初に架橋されたのがなんと今から410年前の慶長8年(1603)のことです。

日本橋元標広場

慶長6年(1601)年には家康公の肝いりで東海道中の整備が始まり、街道筋の伝馬宿駅制度の確立と共に江戸から京への大動脈の建設は着々と進んでいました。東海道中が完成をみるのは時代が下り、家康公歿後の寛永元年(1624)まで待たなければなりません。

東海道中の完成後、日光道中(1636年完成)、奥州道中(1646年完成)、甲州街道(1772年完成)そして中山道(1694年完成)を迎え、江戸五街道が整備され、これらすべての街道の起点がお江戸日本橋に定められたのです。

その起点となる元標は橋の真ん中に埋め込まれているのですが、そのレプリカが橋の袂の元標広場に展示されています。

元標のレプリカ

慶長8年(1603)架橋の日本橋は明暦の大火(1657)の翌年に火災で焼失し、その翌年に新たに架橋されました。そのとき初めて欄干に擬宝珠(ぎぼし)が施されたといいます。橋に擬宝珠を付けることは、日本橋にかぎらず幕府がその建設費用を賄った橋は官製の「公儀橋」であることを表すためのものだったのです。

江戸時代を通じて、ほとんどの橋は木造であったため、幾度となく火災に遭い焼け落ちています。現在の石造りの橋になるまでになんと19回も架け替えや修復を行ったと言われています。ちなみに現在の橋は明治44年に完成したもので平成11年5月に国の重要文化財に指定されています。

広重「日本橋朝之景」

広重が描いた「日本橋朝之景」には朝七つ時、朝焼けの中を二人の先箱持ちを先頭に橋を渡ってくる参勤交代の行列の前を棒手振りの魚屋の一団、そして橋の袂の高札場などが描かれています。広重の描く早朝の日本橋はそれほどの賑やかさは感じませんが、太平の世がつづく江戸時代を通じて日本橋は当時の日本の中で商業、金融、文化の中心だったのです。なんと一日に千両もの金が落ちるといわれるほどの繁栄振りだったといいます。その繁栄を支えたのが日本橋本町界隈の大店もさることながら、当時ここ日本橋にあった「魚河岸」での取引だったのです。

魚河岸発祥之碑と乙姫像

江戸時代は日本橋川を下るとすぐに江戸湾に流れ込む隅田川の河口に出られたといいます。そして江戸前の海から取れる豊富な魚介類が船に乗せられ、ここ日本橋の河岸で荷揚げされ取引が行われていたのです。今でこそそんな面影はまったくありませんが、その名残を伝えるように橋の袂には「日本橋魚河岸発祥之碑」が立ち、その傍らに「竜宮の乙姫」の像が置かれています。日本橋にあった魚河岸は大正12年の関東大震災で壊滅し、その後現在の築地へと移転しています。

乙姫像

明治44年に架け替えられた現在の橋には明治期の優れた彫刻を見ることができます。一つは橋の中央部分にある「麒麟像」です。これは当時の東京市の繁栄を表現したものです。そして橋の四隅には「獅子像」が置かれていますが、これは東京市を守護することを表したものです。

麒麟像
獅子像

それでは日本橋を出発して道中巡りへ駒を進めてまいりましょう。賑やかな中央通りを南下するとすぐ左手に見えてくる近代的な高層ビルは「日本橋コレド」です。かつてはこの場所に白木屋があった場所です。

永代通りを渡り進むと、左手にひときわレトロ感を漂わす建物が見えてきます。日本を代表するデパートの一つ「高島屋」です。この建物はデパートでは初めて国の重要文化財に指定されています。日本橋から高島屋まではおよそ430mほどの距離です。

高島屋からおよそ170mで八重洲通り、そして八重洲通りからおよそ530mでかつて京橋と呼ばれた橋があった高速道路下に到着します。尚、日本橋から1キロにあたる場所は明治屋を過ぎたあたりです。

中央通りを跨ぐように高速道路の高架が走っています。かつてはここに京橋川が流れ、その流れに橋が架かっていました。その橋の名が京橋といい、日本橋から数えて最初の橋だったのです。そしてこの京橋川の河岸には日本橋に「魚河岸」があったように、京橋の袂には「青物市場」があり、特に大根を中心に取引がされていたため「京橋大根河岸」と呼ばれていました。ここ京橋の青物市場も関東大震災までつづいていたのですが、その後、昭和10年に築地市場に移転しています。そんな青物市場を記念して高架下の広場に「市場跡碑」が立てられています。

京橋の親柱
江戸歌舞伎発祥之地碑

その市場跡碑に隣接するように立つのが「江戸歌舞伎発祥之地碑」です。時は寛永元年(1624)、江戸市中に猿若勘三郎が猿若座(後の中村座)の櫓を立てたのが江戸歌舞伎の始まりです。しかし歌舞伎はその後、公儀の風俗取締りの対象となり、厳しいお沙汰を受けたびたび芝居小屋の移転が余儀なくされます。いわゆる吉原の遊里に並ぶ「悪所」として歌舞伎そのものを規制したきらいがあります。

京橋の猿若座はその後、日本橋の禰宜町、上堺町(現在の人形町辺り)へと移り、天保の改革時期には江戸市中から遠く離れた浅草裏手の猿若町へ追いやられてしまうのです。歌舞伎の芝居小屋が市中へと戻ってくるのは明治になってからで、現在の歌舞伎座が開場したのは明治22年(1889)のことです。

高速道路の高架をくぐると、もう銀座1丁目にはいってきます。日本そして世界を代表する繁華街(通り)である銀座中央通りを進むと、両側には名だたるブランド店や日本を代表するデパートが次から次へと現れてきます。銀座6丁目を越え、海外ブランドのH&Mがあるあたりが、日本橋からちょうど2キロにあたる場所です。かつて江戸時代は現在の銀座通りを挟む両側は広く町家が軒を並べていた場所です。ちょうど開幕当初は江戸前島という岬があったところで、現在の銀座通りはその岬の中央部分を貫いています。そしてその岬の先端は現在の銀座8丁目にあたるところです。

幕府の都市計画からなのか、自然発生からなのかは定かではありませんが、江戸の古地図を見ると銀座8丁目にあたるかつての芝口橋をこえても東海道中に沿って両側は町家がつづいています。そしてその町家を挟むように武家地と寺社地が配置されている様子を見ると、街道沿いには道行く人々やそこに住む人々のための何らかの店がたくさん並んでいたのではないかと考えます。

江戸時代の生産活動を支えていたのは農民、漁民そして商人たちでした。一方、武家社会はいっさい生産活動を行わない消費を生業とする階級だったのです。そんな時代をしたたかに生きた農工商そして町人たちは猫の額ほどの町家地の中で生産活動に勤しみ、宵越しの金をもたない慎ましやかな生活を営んでいた様子が江戸の古地図を見ると浮かびあがってくるのです。

銀座8丁目を過ぎると新橋へと入ってきます。このつづきは其の弐へ。

私本東海道五十三次道中記~お江戸日本橋から品川宿~(其の二)





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