大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

私本東海道五十三次道中記~お江戸日本橋から品川宿~(其の二)

2012年03月13日 11時31分12秒 | 私本東海道五十三次道中記
銀座8丁目の交差点は首都高速の高架が頭上を覆っています。いわゆる銀座通りはここで終わりを告げ、いよいよ新橋界隈へと入っていきます。次の交差点は「新橋」ですが、右方向へつづくのが外堀通り、そして左方向へは昭和通りと名前を変えます。そして直進してまもなくすると前方に巨大な歩道橋が見えてきます。これが「ゆりかもめ」の新橋駅ターミナルです。

ゆりかもめの新橋駅ターミナルをくぐると、東海道中は初めてJRのガードをくぐります。ガードをくぐると左手に日比谷神社のお社が見えてきます。そして次の新橋5丁目の信号をわたり、東新橋歩道橋に到達すると日本橋からちょうど3キロ地点となります。

ここから東海道は大門、金杉橋そして田町へと向かうのですが、実はこの間には道中沿いにさほど見るべきものがありません。そのため若干、道中からは逸れるのですが、至近にある名刹、古社に立ち寄りながら江戸の風情を味うことにしました。

芝大神宮社殿

その第一の目的地が「芝大神宮」なのです。御鎮座千年という江戸において由緒ある古社の一つです。古くは源頼朝の庇護を受け、江戸時代は徳川将軍家から保護を受けていました。大江戸の産土上(うぶすなかみ)として庶民から信仰を集めてきました。と同時に当社は歌舞伎の演目ともなっている「め組の喧嘩」の舞台として知られています。境内の狛犬の台座には「め組」と刻まれています。まあ、火事と喧嘩は江戸の華と申します。火事場の粋を貫く火消しが喧嘩沙汰を起こすという、まるで絵に描いたような一件なのですが、この喧嘩の相手が相撲取りだったのでたちが悪かった。

芝大神宮

お互い血の気が多い輩同士、ことはすんなり納まらず相撲部屋総出で繰り出し、火消し衆は火事場支度で応戦し、やめればいいのに火の見櫓の鐘まで鳴らし仲間に動員をかけた始末。そんなこんなで騒動は拡大し、火消し衆は町奉行に、相撲側は寺社奉行に訴えでて事態の収拾を図るが収まらず、結局は火消しと力士合計で36人が捕縛されてしまったという顛末。

それじゃ喧嘩の原因はというと、芝大神宮境内で行われた相撲興行を無銭見物しようとした「め組み」側がたまたま通りかかった力士に諌められたというたわいもないことだったのです。まあ、粋なのか、イナセなのか、はたまた「べらんめい」気質なのか、江戸っ子らしいといえばそれまでなのですが、江戸っ子そのものを地でいった喧嘩沙汰のような気がします。

芝大門

そんな出来事の発端が起こった芝大神宮からほんのわずかな距離にあるのが将軍家の菩提寺であった「増上寺」の表門である「大門(だいもん)」があります。今でこそ「大門」は周囲のビルの谷間に埋もれてしまっていますが、かつて江戸時代には東海道中の道筋からその姿をはっきりと見ることができたのではないでしょうか。

増上寺・解脱門

そして大門の向こうには増上寺の山門である「解脱門」が聳え、更にその奥に本殿の甍が見えたのではないでしょうか。大門をくぐるとその直線上に堂々とした姿の「解脱門(げだつもん)」が徐々に迫ってきます。江戸時代には上野寛永寺と並ぶ将軍家の菩提寺としてその権勢を振るった増上寺の山門は、数百年の間、幾多の災いを乗り越え、いまだその権威を誇示するかのように堂々と聳えたっています。

解脱門の前を走る日比谷通りを渡り、解脱門をくぐり広い境内へと進んでいきましょう。その正面に建つのが増上寺のご本堂である「大殿」です。その大殿の右側には黒本尊を祀る「安国殿」が改築なった新たな装いで私たちを迎えてくれます。

かつては現在の芝プリンスのある北側一帯と大殿を囲む広い地域にに歴代将軍六人と二代将軍秀忠公の御台様であった崇厳院(お江)をはじめとする正室、側室の荘厳華麗な霊廟が並んでいたのですが、大戦末期の米軍の空襲によってそのほとんどが灰燼に帰し、貴重な文化財が失われてしまいました。現在、その名残は「安国殿」の裏手にひっそりと佇む「徳川家墓所」にほんのわずか残っているだけです。

今でこそ、高層ビルに阻まれて解脱門や大殿の姿は見えにくくなってしまいましたが、かつては道中を往来する人々は増上寺の甍を見るたびに、将軍家の権威にうやうやしく身を屈めながら門前を行過ぎて行ったのではないでしょうか。

増上寺をあとに日比谷通りに沿って東海道中との合流点へと進んでいきましょう。増上寺の敷地が途切れるあたり、すなわち築地塀が終わる頃、右手に旧台徳院惣門が現れます。

旧台徳院惣門

台徳院は第二代将軍秀忠公の院号なのですが、この門はかつてこの地に広がっていた秀忠公の霊廟に通ずる参道に構えていた門の一つです。ことごとく失われた霊廟群の中で焼け残った建築物の一つです。

惣門を過ぎると右手には芝公園とこんもりとした丸山古墳、そしてその麓に社を構える「芝東照宮」の社殿が見えてきます。もともとこの場所には、江戸時代の頃「安国殿」が置かれ、黒本尊と家康公の寿像が納められていました。ということは家康公歿後はむしろ「東照宮」的な役割を担ったのが安国殿だったのです。維新後、明治政府の神仏分離政策により仏式であった安国殿から神として崇められていた「神君家康公」を分離し、ここに東照宮を勧請したのです。

東照宮社殿前の梅の花
東照宮社殿前の梅の花

すでに3月中旬なのですが、境内の梅の木には今を盛りに美しい花が咲き競っています。

東照宮からさほど離れていない場所に、もう一つ歴史の舞台が残っています。芝園橋が架かる古川を渡るとそこはかつて外様雄藩として幕末にその影響力を行使した薩摩藩の上屋敷跡があります。その場所は現在のNEC本社ビルが建つ地域全体を指すのですが、なんと当時の上屋敷は東西800m、南北300mの広大な敷地を持っていました。

さつまの道モニュメント

あの篤姫様も滞在した芝の薩摩藩上屋敷のほぼ中心にあたる場所に、現在は「さつまの道」と名付けられたモニュメントが置かれています。そしてNEC本社ビル脇の道には「薩摩屋敷跡」の石碑も置かれています。

薩摩屋敷跡碑

NEC本社ビル前を過ぎると、日比谷通りは東海道中と合流する芝5丁目交差点にさしかかります。そしてこの交差点を横切ると歩道脇に幕末最大の出来事として誰もが知る「西郷・勝の会談」の記念碑が置かれています。

西郷・勝会見之地碑
西郷・勝の会談レリーフ
西郷・勝会見之地碑

時は幕末の慶応4年(1868)、朝敵となった徳川家を追討する官軍の主力はいよいよ品川に迫り、江戸総攻撃の準備を着々と進めています。総攻撃が2日後に迫ったその年の3月13日に官軍の西郷隆盛と幕府総裁、勝海舟は第一回の会談を薩摩藩の高輪中屋敷で行います。しかし、この会談は双方の腹の探り合いのまま終了し、翌14日に持ち越されます。この第2回会談が行われたのが薩摩藩の蔵屋敷なのです。すでに総攻撃の期日は翌日15日に迫っている中、双方の真剣な会議の結果、ギリギリで江戸総攻撃が回避された記念すべき場所なのです。

江戸時代の旧東海道は現在のJR田町駅あたりから江戸湾の波打ち際を眺められる場所にでてきます。ということは現在のJRの線路があるところはかつては海の底だったのです。

JR田町駅にさしかかるあたりが日本橋からほぼ5キロにあたります。品川への旅はあと2キロ強に迫ってきました。田町駅から500m弱のところの「札の辻」を過ぎ、そして更に500mほど歩くと第一京浜の左側に現れるのが「高輪大木戸跡」です。

高輪大木戸跡
高輪大木戸跡

江戸の南の入口として旧東海道の両側に石垣を築き、治安の維持と交通規制の役割を担っていた重要な木戸だったのです。江戸府内への出入り口として、東海道を行き来する人々の見送り、出迎えの場所としてたいそう賑わっていた場所だったのです。

高輪大木戸跡をすぎると、日本人なら誰でも知っている赤穂浪士縁の「泉岳寺」山門への入口が見えてきます。品川はもう目と鼻の先の距離にあるのですが、東海道沿いの名刹、古刹として知られている「泉岳寺」は是非立ち寄ってみたい場所です。

泉岳寺中門
泉岳寺山門
山門天井の竜

開基は古く慶長17年(1612)といいますから、今からちょうど400年前に遡ります。境内には吉良邸討ち入りで主君の仇を晴らした赤穂義士の墓が置かれています。

泉岳寺本堂
境内の梅

泉岳寺を後に品川へと進みますが、本来の品川宿の江戸見附は現在の品川駅からさらに800mほど歩いた所に位置しています。今回は終着点を品川駅にしましたので、品川宿については第二区間の品川から川崎の巻で紹介いたします。

私本東海道五十三次道中記~お江戸日本橋から品川宿~(其の一)





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