大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

護国寺は桂昌院殿のあくなき帰依の証~綱吉公とその母の夢の跡~

2012年03月15日 23時50分54秒 | 文京区・歴史散策
東京文京区大塚の地に護国寺は将軍綱吉公とその生母である桂昌院の権勢を今に伝えるよう、威厳を持った佇まいを見せています。

護国寺観音堂

徳川将軍家の菩提寺は将軍墓所を持つ上野寛永寺(天台宗)と芝増上寺(浄土宗)なのですが、この他に徳川家に縁のある方々が埋葬されている小石川の傳通院も菩提寺として位置づけられています。

しかしここ護国寺は五代将軍綱吉公の時代(天和元年/1681年)に、仏の教えに深く帰依した綱吉公の母である桂昌院殿の個人的な発願で建立されたもので、菩提寺としての位置づけではなく、桂昌院殿の念持仏である琥珀如意輪観音を本尊とするあくまでも桂昌院殿の祈願寺だったのです。穿った見方をすれば、桂昌院殿の護国寺建立の発願も、綱吉に取り入った僧「隆光」の入れ知恵だったのかもしれませんが……?

桂昌院殿の祈願寺といっても、やはり将軍生母の肝いりで建立した寺だけのことはあります。先の大戦でも焼失を免れた堂宇が広い境内に点在し、将軍生母のあくなき帰依の証を目の当たりにすることができます。上野寛永寺の堂宇はことごとく失われ、当時の様子を知るものは何もありません。一方、芝増上寺も創建当時の堂宇は山門である「解脱門」しか残っていません。

護国寺にはかなり以前になりますが一度訪れたことがあるのですが、境内をゆっくりと散策した覚えがありません。また当時は護国寺のバックグランドを知らずにただ立ち寄っただけにすぎなかったため境内の様子すらはっきりと覚えていませんでした。

地下鉄有楽町線の護国寺駅はそれこそ護国寺正面に建つ「仁王門」そばに出入り口があります。キョロキョロと探すこともなく、堂々とした「仁王門」が目の前に現れます。

仁王門

深い朱色で彩られた大きな仁王門は江戸時代の元禄期の建立と伝えられています。正面両脇に金剛力士像(右に吽形、左に阿形)、そして背面両脇には二天像(右に増長天、左に広目天)が安置されています。

仁王門をくぐり広い参道を進むと左右に水盤舎が対で置かれ、その向こうに石段がつづきます。石段を登りきったところに建つのが「不老門」です。この門は昭和13年に建立されたものですが、扁額の文字はご維新後の徳川宗家を継いだ田安家の徳川家達氏のご執筆とのことです。

水盤舎(左側)
水盤舎(右側)
不老門

この不老門をくぐると広い境内が目の前に広がります。その真正面に当山のご本堂である「観音堂」が立派な姿を現します。

観音堂(ご本堂)

境内左手には二重の多宝塔が美しい姿を見せています。この多宝塔は昭和13年に建立されたもので、近江(滋賀県)の石山寺の多宝塔を模したものです。

多宝塔
多宝塔と月光殿

そして多宝塔と対峙するように置かれているのが仏像です。仏像の奥には石積みの土台を持つ鐘楼が置かれています。入母屋造りの鐘楼堂は江戸時代の中ごろの建立で、梵鐘は天和2年(1682)に寄進されたものです。

仏像
鐘楼堂

鐘楼堂の裏手の石段を下りると、これまた歴史を感じさせるお堂が一つ置かれています。宗祖弘法大師を祀る大師堂なのですが、元禄14年(1701)に再営された旧薬師堂を、大正15年(1926)の火災以降に大修理し、現在地に移築して大師堂としたものだそうです。

大師堂

そして当山の象徴的な建物がご本堂である「観音堂」です。このお堂に桂昌院殿自身が信仰する念持仏「如意輪観世音菩薩(絶対秘仏)」が納められています。お堂を支える太い木の柱や梁には創建当時の木目が鮮やかに浮かび上がり、元禄時代の建立の証を今に伝えています。

観音堂
観音堂

観音堂の左脇にもう一つのお堂があります。小さいながらも歴史を感じさせるもので「薬師堂」と呼ばれています。このお堂も建造は古く、元禄4年(1691)に遡ります。江戸時代の元禄にまで遡る建造物が残る護国寺は将軍家菩提寺ではないにしろ、将軍綱吉公とその母桂昌院殿の仏に帰依する思いの深さを感じさせるものがあります。

薬師堂

そんな護国寺は明治に入ると、その墓地の大半が皇族(宮家)のものとなります。ご本堂のちょうど裏手には幕末(文久3年)のクーデター・八月十八日の政変により朝廷を追われ、京都を逃れて長州へ移った「七卿落ち」の一人「三条 実美(さんじょう さねとみ)」の墓もあります。

また、明治の元勲「大隈重信」の墓所が周囲から隔絶されたように頑丈な門に閉ざされ、墓所の奥まった場所にりっぱな墓石が置かれています。

大隈重信の墓域
大隈重信の墓石

ついでながら、墓地を歩いていると極真空手の大山倍達(おおやま ますたつ)の墓がありました。

大山倍達の墓

護国寺を辞して、地下鉄大塚駅方面へ進むとすぐ左手に現れるのが、護国寺の惣門です。どっしりとした風格のある門なのですが、寺院の門というよりか武家の屋敷門のような雰囲気を漂わせています。実は五万石以上の大名クラスの門に相当する造りということなのですが、当山が幕府の厚い庇護を得ていたことの証となる門構えなのです。

護国寺惣門

そしてこの惣門に隣接するようにもう一つ門が構えています。これこそ武家の屋敷門そのものといった造りなのですが、特に説明書きが見当たりません。目を凝らして良く見ると、瓦に菊の御紋章らしきものが形どられています。おそらく護国寺には皇族(宮家)の墓地があるため、この門は皇族(宮家)の方々の専用の門ではと推察いたしますが……?



まあ、それにしても桂昌院殿は護国寺を建立するためにどれほどの幕府公金を費やしたのでしょうか?
綱吉公も僧隆光のために護持院をはじめいくつもの寺を建立するなどの大盤振る舞いをしたため、幕府の財政はかなり厳しくなっていたといいます。そんなこんなで明暦の大火で焼失した江戸城の天守の再建も財政事情悪化で中止せざるを得なくなるほど、桂昌院殿と綱吉公は神頼みならぬ、仏頼みに熱中していたのかもしれません。





日本史 ブログランキングへ

神社・仏閣 ブログランキングへ

お城・史跡 ブログランキングへ


最新の画像もっと見る

コメントを投稿