大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

もう一つの目黄不動~江戸川・平井「最勝寺」~

2012年03月26日 18時18分29秒 | 江戸川区・歴史散策
三代将軍家光公は天海僧正の具申を得て、江戸府内から延びる主要街道筋に五箇所の不動尊を選び、それぞれに白・黒・赤・青・黄の「色」を付け、それら五色不動を線で結び「結界」とする江戸防御ラインを構築したことは良く知られています。これらを「五色不動」と名付け、天下泰平を祈願したといいます。

最勝寺仁王門

実はこれら五色を配した寺が五寺ではなく六寺あるのです。一色一寺と思いきや、黄色だけが二寺あるんですね。現在都内にある五色不動を下記に列記してみました。

①目黒不動(瀧泉寺:目黒区下目黒)東海道筋
②目青不動(教学院:世田谷区太子堂)大山道筋
③目白不動(金乗院:豊島区高田)甲州街道筋
④目赤不動(南谷寺:文京区本駒込)中山道筋
⑤目黄不動(永久寺:台東区三ノ輪)日光街道筋
⑥目黄不動(最勝寺;江戸川区平井)水戸街道筋

このように色付けをする意味合いというのが、四神相応の考え方から黒は玄武、青は青龍、白は白虎、赤は朱雀、更には大相撲の土俵の上の大屋根から下がっている房の色も黒房、青房、白房、赤房と四神と深く関係しているように思えます。とすれば黄色はというと、「中心」を意味するもので相撲であれば「土俵」そのものを現していると言えます。

そんなことでお江戸に二つ存在する目黄不動のうちの一つ、江戸川平井の最勝寺に詣でることにいたしました。

不動堂

荒川の土手からさほど離れていない場所に堂を構える最勝寺の開基は古く貞観2年(860)に慈覚大師が開山といいます。寺伝ではその開基はさらに遡り、天平年間(729~766)のころ、良弁僧都が東国巡錫中に隅田川の畔で不動明王を感得され、自らそのお姿を刻んで本尊とし堂宇を建立したという伝わっています。その後、不動明王は最勝寺の末寺・東栄寺本尊として祀られたのですが、明治の廃仏毀釈により、東栄寺は廃寺となり不動明王は最勝寺に遷座されました。最勝寺ももともとは浅草駒形橋にあったのですが、大正2年に現在の場所に移っています。

かつて天海僧正が構築した江戸の結界は寺が廃寺になったり、移転したりと本来の結界は寸断され、もはや江戸を鎮護する役目はほとんど果たしていない状態です。結界のバリアーは失われてはいるもののご本尊の不動明王は健在なので、なんとか東京の鎮護をお願いしたいものです。

不動堂
本堂
境内俯瞰

門前には金剛力士像を安置した仁王門?らしきものが置かれています。境内に入るとすぐ右手に立派な不動堂が現れます。不動堂の扉が閉まっていたため不動明王を拝見することができませんでした。また、不動堂前に置かれた鉢には6月ともなれば美しい蓮の花が咲き誇ります。

最勝寺
江戸川区平井1-25-31
JR総武線「平井駅」下車、徒歩約15分

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関東三聖天・天空に座する平井聖天燈明寺の本堂の姿

2012年03月26日 16時29分37秒 | 江戸川区・歴史散策
お江戸・平井の燈明寺は埼玉県妻沼聖天、江戸浅草待乳山聖天と並んで関東三聖天に数えられています。

燈明寺山門
燈明寺山門

JR平井駅の北側を走る蔵前橋通りからほんの少し入った場所に、まるで天空に座しているかのように燈明寺のご本堂が聳えています。江戸時代には歴代将軍の御膳所として使用された格式ある寺で、、江戸図会名所にも描かれ、数多くの文人墨客が訪れていたようです。

本堂
本堂
もともとの本堂は関東大震災で倒壊したため、15年の歳月をかけて昭和19年に完成したのが現在のお堂です。

本堂
鐘楼堂

お堂の建物は総高14.4m、幅17.1m、奥行27mの金堂造りです。内部を見ることができなかったのですが、説明書きによると「奥の院」は飛鳥朝風、「中陣」は平安朝風、外陣は鎌倉風に造られ、シャンデリヤは鹿鳴館で使用されたものを使うなどなんとも贅沢な造りのようです。機会があれば一度内部を拝見したいものです。また外部は宇治平等院と京都東寺金堂の様式を取入れ、三つ屋根造りで軒ぞりの優雅な姿をした壮麗な建築です。

境内の一角に茶室が設けられているのですが、実は当寺の先代澄道大僧正は明治の歌人・小説家として知られている「伊藤左千夫(いとうさちお)と親交が深く、その縁で左千夫自身が茶室を設計したものだそうです。伊藤左千夫は茶道にも通じており、同時代に活躍した正岡子規から「茶博士」と呼ばれるほどだったようです。

茶室
茶室

境内を横切り正面の石段を登ると「歓喜天」を祀る聖天堂です。

聖天堂

浅草の待乳山聖天の境内とは趣きを異にしますが、圧倒的なスケールで迫る本堂は一見の価値があります。

平井聖天(燈明寺)
住所:江戸川区平井6丁目17番30号
JR「平井駅」北口から徒歩5分

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江戸川・大雲寺は江戸時代の歌舞伎役者が集い眠る聖地~市村座・中村座の名だたる歌舞伎役者が眠る役者寺~

2012年03月26日 15時11分26秒 | 江戸川区・歴史散策
江戸川の西瑞江にお堂を構える大雲寺の開基は江戸時代、二大将軍秀忠公の御世の元和6年(1620)に浅草森田町(台東区・前蔵前国技館付近)に寺領3000坪を拝領して、寺院を建立したのが始まりです。

大雲寺仁王門

その後、寛文2年(1668)の江戸の大火で本所押上(墨田区業平3丁目)に移転し、江戸時代を通じて押上に堂宇を構えていました。しかし関東大震災で甚大な被害を被り、昭和6年に現在の瑞江に移転してきた歴史をもっています。

そんな歴史をもつ大雲寺は別名「役者寺」と呼ばれているのですが、なんと江戸歌舞伎の三座のうち、市村座と中村座の名だたる歌舞伎役者が眠っているのです。もともと江戸時代を通じて隅田川の流れに近い本所押上にお堂を構えていたわけですから、ご府内にも近く当時芝居小屋があった日本橋堺町からは両国橋を渡ればさほど離れていない場所に大雲寺はあったわけです。

どうして大雲寺が市村座と中村座の歌舞伎役者の檀家寺になったのかはわかりませんが、一つ寺にこれほどの歌舞伎役者が眠っていることに驚きと感動を覚えます。

境内の入口に立派な仁王門を構え、門をくぐるとすぐに鐘楼堂、そして真正面にご本堂が配置されています。

鐘楼堂
本堂

ご本堂の右脇の墓地へ通じる細い道を進むと、目指す歌舞伎役者の墓が一区画にまとまって現れます。

墓地見取り図
左から④③②①
①市村羽左衛門累代墓

① 市村羽左衛門累代墓(初代~17代、残菊物語の2代尾上菊之助、13代=5代尾上菊五郎) 
② 坂東彦三郎累代墓(3代~7代)
③ 3代坂東彦三郎墓 
④ 尾上菊五郎供養碑 
⑤ 寺嶋家門弟一同建立碑
⑥ 寺嶋家門弟代々墓

左から⑪⑩⑨⑧
⑦瀬川菊之丞累代墓

⑦ 瀬川菊之丞累代墓(初代~6代、歌舞伎狂言作者・初代瀬川如皐) 
⑧ 松本幸四郎累代墓(4代~6代) 
⑨ 中村勘三郎累代墓(初代~13代) 
⑩ 3代中村勘三郎 
⑪ 福地家(茶屋、版元) 

一番左が⑫坂東彦三郎墓累代墓

⑫ 坂東彦三郎墓累代墓(初代~2代)

この他にも花火師として有名な「鍵屋」の墓もあります。江戸歌舞伎の歴史を造った名優が一同に会する大雲寺は紛れもなくお江戸の名刹・古刹としての風格を感じます。

大雲寺
住所:江戸川区西瑞江2丁目38番7号
都営新宿線「瑞江駅」北口から徒歩10分(約850メートル)

かつて行徳の塩を運んだ水路・古川ほとりの名刹「妙勝寺」の佇まい
もう一つの目黄不動~江戸川・平井「最勝寺」~
関東三聖天・天空に座する平井聖天燈明寺の本堂の姿
神が宿り、仏が座する善養寺の「影向の松」はさすが日本一





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