大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

私本東海道五十三次道中記 第28回 第1日目 赤坂宿から本宿を経て藤川宿

2015年09月03日 08時53分16秒 | 私本東海道五十三次道中記


さあ!3回目の2泊3日での行程が始まります。
第一日目の行程は東名高速の音羽蒲郡インター至近の「えびせん共和国」から37番目の藤川宿の道の駅までの9.6㎞です。
第二日目は藤川の道の駅からいよいよ家康公の生誕地「岡崎(38番目)」へと足を踏み入れ、立派な天守を持つ岡崎城を訪ね、その後岡崎八丁味噌の郷(カクキュウ)までのおよそ12㎞を歩きます。
第三日目は八丁味噌のカクキュウ前を出発地点として知立宿手前の來迎寺公園までの9.5㎞です。
そして3日間の総歩行距離は31.1㎞を予定しています。



赤坂宿の京口見附からおよそ1.5㎞進んだ場所に位置するのが「蒲さえびせん共和国」です。
赤坂宿を出ると旧東海道の道筋は左右に連なる低い山並みの間を縫うように続いています。左右の山並みに挟まれた谷間の幅は600mほど。そんな狭い谷間に穿かれた旧東海道筋を辿り、前回はここ「えびせん共和国」が終着地点でした。
赤坂宿からここえびせん共和国までの道程には家並みが続いていましたが、この先の街道筋は家並みが疎らになってきます。

旧街道筋へ入ると、ほんのわずかな距離を歩くと旧街道の路傍に「長沢の一里塚跡」が現れます。お江戸から77番目の一里塚です。因みに御油の一里塚から長沢の一里塚までは4236mです。

長沢一里塚跡

この辺りの道筋には昭和50年頃まで見事な松並木が残っていたようですが、その面影はほとんど残っていません。長沢の一里塚からほんの少し進むと、右手に長沢小学校の校舎が見えてきます。



私達は前回の旅で、かつての三河の国へと足を踏み入れました。長かった静岡県内の旅を終えて、やっと愛知県へと入ってきました。

街道時代の頃、東側の隣国である遠州・吉田藩との国境は白須賀宿を抜けたところに流れている「境川」でした。現在でも静岡県と愛知県の県境になっています。江戸時代にはここ三河の国は東西に区分され、吉田川(現在の豊川)流域を東三河、そして矢作川流域を西三河と呼んでいました。

そんな三河の国には江戸時代には多くの藩が存在していました。いわゆる国持大名としては1万石以上が19もありました。
代表的な藩としては三河吉田藩(3万石~7万石)、西尾藩(2万石~6万石)、岡崎藩(5万石)、刈谷藩(2万石~3万石)、挙母藩(ころもはん・豊田市)(1万石~2万石)、大給(おぎゅう)・奥殿藩(おくとのはん)(1万6千石)、田原藩・渥美半島(1万2千石)をはじめ、その他1万石クラスの藩が13藩も乱立していました。
尚、幕末まで存続した藩は6藩しかありません。

現在でも豊川寄りの豊橋市、豊川市、蒲郡市、新城市、田原市は東三河に属しています。
尚、西三河地域には岡崎市、豊田市、刈谷市、知立市、安城市、碧南市、高浜市、西尾市、みよし市があります。

長沢小学校のグランド脇に「長沢城址」の案内板が置かれています。
この城は長沢松平氏の初代親則が長禄2年(1458)頃に城を築き、岡崎の岩津から移り住み、居城として使用されていたと言われています。

7代政忠は「桶狭間の戦い」で討死。8代康忠は家康の妹矢田姫を妻とし、その後「長篠の戦い」「小牧、長久手の戦い」「小田原城攻め」に参戦し、家康関東移封に伴い、武蔵国へ下っています。

長沢松平氏は三河松平の嫡流で「十八松平」の一つで由緒正しき血筋をもっていました。この十八松平とは、松平氏の一族で家康公の時代までに分家したルーツを持つ松平家の俗称です。
この十八松平の中に家康公を含める場合もあるようですが、家康公の祖父である松平信康までの庶家に限定する場合もあります。

そんな血筋正しき長沢松平家ですが、二代将軍秀忠公の時代(元和2年/1616)に改易となり、家名は断絶してしまいます。

改易後、長沢松平家の血統は存続するのですが、幕府はこの家系を認めませんでした。しかし享保の時代に再び長沢松平家を認知したのですが、禄は与えられませんでした。そして天保の時代になってようやく十人扶持となり、幕臣としての禄を下されました。幕末期の当主・松平忠敏(主税助)は新選組の前身である浪士組の取締役になりました。

尚、開幕後の江戸十八松平は大名の中で将軍家から特に「松平」の称号を許された家格で、その代表的な大名は松平加賀、松平土佐、松平薩摩、松平陸奥があげられます。

寛永11年(1634)の三代将軍家光公が上洛の際に長沢小学校のグランド付近に御殿が建てられ、将軍の休息場所として使われたといいます。せっかく造った御殿も延宝8年(1680)には廃止されています。

この先で道筋は右手にカーブします。カーブした右側に誓林寺が山門を構えています。
当寺は親鸞の弟子、誓海坊が建てた草庵が始まりで、応仁年間(1467~1469)に信海が寺にしたと伝えられています。山門前に大きな鬼瓦が置かれています。

旧街道はこの先2キロ地点で国道1号線と合流しますが、それまでは街道歩きの目を楽しませてくれるような古い家が点在しています。音羽川の流れを左手に見ながら進むと、右側に安政10年(1798)の秋葉常夜燈と村社巓神社の石柱が建っています。巓神社は北方400メートルの山の中に社殿を構えています。



山口バス停のところまでくると、道幅は狭くなり、街道の左側に漆喰壁に連子格子が美しい立派な家が現れます。 
少し先の右側の石垣の上に「磯丸 みほとけ 歌碑」と書かれた石柱と観世音菩薩と刻まれた石碑、そして三頭馬頭観音像が祀られています。

>磯丸 みほとけ 歌碑

磯丸とは糟谷磯丸(かすやいそまる)のことで、彼は渥美半島の伊良子村に生まれた漁師で漁夫歌人と呼ばれた人物です。この碑はかつてここにあった観音堂の庵主「妙香尼」が弘化3年(1846)に落馬して亡くなった旅人の供養のために糟谷磯丸 に歌を依頼して建てたものといわれています。
「おふげ人 衆生さいどに たちたまう このみほとけの かかるみかげを 八十二翁磯丸」

◇糟谷磯丸(かすやいそまる)
明和元年(1764)~嘉永元年(1848)
一般的に磯丸様と呼ばれている人物で、前述のように伊良子の漁師です。漁師であるが故に文字を書くことができなかったのですが、ある時、地元伊良子の神社に参拝に訪れた時、参詣人が奉納額を見上げて和歌を口ずさむのを聞いて、その響きに魅かれて自身も歌を詠むようになったそうです。

やがて無筆の歌詠みとして世間に知られるようになっていくのですが、磯丸は生涯を通じて数万首の歌を詠んだと言われています。中でも「まじない歌」(呪禁歌:じゅごんうた)は当時の人々の暮らし向きを織り込んだものとして知られています。
この「まじない歌」は呪術的なものではなく、家内安全、無病息災、商売繁盛など民衆の願い事や困りごとなどを歌にしたものです。

それでは千束川に架かる大榎橋と千両橋を渡ると道筋は少し上り坂になり、関屋の交差点で国道 1号と合流します。
旧東海道の道筋はここで国道一号と合流し、ここから2キロ弱は車の往来が激しい国道に沿って進みますが、この区間は左側を歩いて行きましょう。

この合流地点から左手へのびる道筋を進んだ森の中に「赤石神社」があります。
延暦年間(782~805)に信濃国の諏訪大明神の分霊を勧請したのが始まりと言われている古社です。
その創建にまつわるのが「坂上田村麻呂と大うなぎ」の話です。

その昔、長沢の西の外れにあった沼には大うなぎの化け物が住みつき、地域の人を悩ませていました。
そしてこの地に立ち寄った坂上田村麻呂がその化け物を退治しましたが、その後、沼の水を汲んだ者が次々と病にかかってしまい、人々は祟りだと恐れ、祠を建てその霊を慰めたのが今の赤石神社だと言います。



旧街道が国道1号と合流してから2キロ弱の距離を歩いてきました。歩き始めて3.5キロ弱で本宿町深田の信号交差点にさしかかります。この信号手前で豊川市から岡崎市へと入ります。信号交差点を過ぎると「自然と歴史を育む町本宿」と刻まれた立場本宿の大きな石碑が置かれています。

立場本宿碑

街道時代の頃、赤坂宿から長沢そして本宿村にいたる道筋は山沿いの急坂で、街道松がつづく昼なお暗く、多くの旅人たちは盗賊や渡世人に悩まされた場所で、婦女子はこの区間は馬による旅をしたそうです。
そしてここ本宿村東境の立場村で馬を降りて、500m先に堂宇を構える法蔵寺門前町まで歩いて進んでいきました。

本宿の石碑の先には、かつてここが立場であったことを示す冠木門が置かれています。
この冠木門をくぐると本宿の中心の法蔵寺まではほんの僅かな距離です。

冠木門



本宿(もとじゅく)は東三河と西三河が接するところで、古くは駅家郷、山中郷に属し、奈良古道、鎌倉街道の要地として中世以降は法蔵寺の門前町として栄えた所です。 
江戸時代には赤坂宿と藤川宿の間宿になっていました。旧街道は新箱根入口の信号交差点の先の分岐点を左に入っていきます。

分岐点

「新箱根」とは?ちょっと不思議な名前ですね。
実は昭和9年(1834)、鉢地坂トンネルが開通し、本宿と蒲郡を結ぶ県道が完成し、最新型の流線型のバスが走ったといいます。風光明媚な景色が箱根に似ていることから、「新箱根観光道路」と命名され、これを記念し、本宿音頭なるものまでつくられたようです。

国道一号から分岐するように旧街道筋は左手に延びています。旧街道筋に入ると、かつて間の宿として賑わいをみせていたかのように住宅街へと変貌します。この辺りが歩き始めて4キロ地点にさしかかります。

本宿家並

街道を進んで行くと右手に古めかしい建物が1軒現れます。そして街道を挟んで左側に法蔵寺の参道がまっすぐにのびています。さあ!三河本宿の中心寺院の法蔵寺の参道入口に到着です。

本宿の古い家

その参道入口の左側に玉垣で囲まれた場所に1本の松が植えられています。この松が御草紙掛松(おんそうしかけまつ)(4代目)です。

御草紙掛松

家康公がまだ竹千代の時代に当寺で手習いを受けていたころ、竹千代が自らの手で境内に植えた松と言われています。そしてこの松に手習いの草紙を掛けて乾かしたことから御草紙掛松(おんそうしかけまつ)と呼ばれています。
そして10数年後に法蔵寺を訪れた家康は松の成長ぶりに感激して門前に移植したそうです。
その後も家康公は寺の前を通る時に「いつもの茶を」と頼んで、この松の下でお茶を飲みながら団子を食べたそうです。

総門(三門)へとつづく参道(寺らしくない参道ですが)を進んでいきましょう。擬宝珠を付けた赤い橋を渡ると総門が構え、急な石段をのぼると鐘楼門が現れ、その向こうにご本堂が置かれています。

この総門は江戸時代の万治元年(1660)に造られたもののようです。三門とも呼ばれ、知恵の門「少しでも前進の生活を」、慈悲の門「やさしい心で生活を」、方便の門「仏に正直な生活を」を意味しています。

石段を上りつめると鐘楼門が私たちを迎えてくれます。この鐘楼門は境内に現存する建造物の中で最も古いものです。伽藍は街道の左手にある小高い山の緩やかな斜面に配置されています。境内からは遥か彼方に連なる三河の山並みを眺めることができます。

鐘楼門

法蔵寺は大宝元年(701)に行基上人が開き、時の天皇から出生寺(しゅしょうじ)の寺号を賜って勅願寺となったという古刹で、松平氏の初代「松平親氏」が嘉吉元年(1441)に堂宇を建立し、寺号を法蔵寺と改めました。

法蔵寺本堂

初代の親氏以来、松平家の帰依を受け、家康も子供のころ、ここで手習いを受けたことで徳川家と縁が深い寺です。 
現在は、浄土宗西山深草派で二村山(にそんざん)法蔵寺といい、本尊は阿弥陀如来です。
ご本堂には徳川家の三つ葉葵が瓦や壁に刻まれ、建物の彫刻も華やか図案で、江戸時代を通じて幕府より知行地を賜り、絶大な権勢を誇った寺院であったことを窺がうことができます。

鐘楼門の奥にご本堂、右手奥には客殿(方丈)、ご本堂の左手には観音堂(六角堂)が配されています。

六角堂

お堂には聖観音、十一面観音、千手観音、不空羂索(ふくうけんじゃく)、馬頭観音、如意輪観音が祀られています。この六角堂は前九年の役で奥州へ向かう源頼義が永承6年(1051)に戦勝祈願をし、自らの甲冑を奉納しています。

また家康公は長篠合戦の出陣に際して必勝祈願し、これ以後開運の観音様と呼ばれ親しまれています。
現在の六角堂は江戸時代の享保13年(1728)に再建されたもので、平成12年に回廊を含め大修理を行っています。

また境内には竹千代が手習いの水として汲んだと言われる「賀勝水(がしょうすい)」が湧く井戸があります。
寺伝では日本武尊(やまとたけるのみこと)がこの地で天照大神ら諸神を勧請して東夷征伐を祈願し、その效験(霊験の徴)を見せ給えと念じ巌を突くと冷泉が湧き出したので、勝利の祥瑞として日本武尊は「賀勝」と三度唱えたと伝わっています。
そして戦で傷つき倒れた兵士たちに、この泉の水を与えたところ、たちどころに傷が癒え立ち上がったと伝えられています。街道時代には旅人たちを癒す水として親しまれていたようですが、現在も湧き出ています。ただし飲むことはできません。

そして六角堂の左手奥の山の中腹には東照宮が置かれています。建立時期は定かではありませんが、おそらく300年前にさかのぼると言われています。
江戸時代の文政年間(1818)には大修理が行われたという記録があります。一般的に見る東照宮とはその煌びやかさ、豪華さに欠ける社殿です。

さて、ここ法蔵寺の境内を歩いていると、やたら「誠」の旗印が目についていたのですが、やっと判明しました。実はここの境内には幕末に活躍したあの新撰組隊長「近藤勇」の胸像と、その脇には彼の首を埋めたとされる「首塚」が置かれているのです。

近藤勇首塚
近藤勇胸像
胸像の台座

なぜこんな場所に近藤勇の首塚があるのか?
近藤勇はあの戊辰戦争の始まりである鳥羽伏見の戦いの後、武蔵の流山で官軍に捕らえられ、慶応4年(1868)に東京の板橋で打ち首になっています。その首は塩漬けにされ京都に送られ、三条大橋に晒されていました。
それを見た新撰組同志によって密かに首が持ち出され、近藤勇が親しくしていた京都新京極裏寺町の宝蔵寺十三世・称空義天上人旭専大和尚に供養してもらうつもりだったのですが、そのとき称空義天上人旭専大和尚がここ本宿の法蔵寺の第三十九世貫主となっていたことがわかり、首は本宿まで運ばれたそうです。

首は目立たぬように土に埋められ隠されていたために、その存在すら忘れ去られていましたが、昭和33年(1958)に発掘されました。現在、その場所には近藤勇の胸像と首塚の石碑そして新撰組の隊旗が置かれています。
(注)慶応4年(1868)4月25日、近藤勇は江戸板橋の平尾一里塚付近の刑場で官軍により斬首処刑されました。首級は京都に送られましたが、胴部分は少し離れた板橋駅前に埋葬されています。また彼の生家の近くの三鷹市の龍源寺にも近藤勇の墓があります。

境内を見下ろす山の中腹に置かれた「近藤勇」の首塚にほぼ隣接して、ちょっとした平坦な場所があります。その場所に家康の祖先である松平家の墓が人知れず置かれています。

松平家の墓

ひときわ大きな五輪塔は松平家八代、そして家康公の父である広忠公の墓です。
法号は慈光院です。寺の言伝えでは岡崎の大樹寺に納められた骨を分骨してここに葬ったとのことです。
この他、松平親氏の父・有親(ありちか。長阿弥/ちょうあみ)の墓もあります。
寺伝では親氏が有親の二十七回忌に、その遺骨をここに葬り位牌を講堂に納めたといいます。

法蔵寺を後にして、小さな川に架かる法蔵寺橋を渡り、150mほど進むと左側に「冨田病院」の看板があります。
緩やかな坂道を上がっていくと、正面には現代的な建物の冨田病院があります。この冨田病院が建っている場所がかつての「本宿陣屋跡」です。この冨田病院に隣接してたつ古い家が「代官屋敷」です。

元禄11年(1698)、旗本柴田出雲守勝門(柴田勝家の子孫)の所領になり、ここに陣屋が置かれ、柴田氏の子孫が明治まで治めていました。陣屋の代官職は富田家が世襲し、現在の居宅は文化10年(1827)の建築です。

※柴田勝家
主君は織田信秀、信勝、信長、秀信。妻は信長の妹君である「お市の方」です。天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れ、お市の方と共に自害しました。残された遺児である茶々、初、江はその後、戦国戦乱の世の中で波乱万丈の人生を送ることになります。

江戸時代の本宿は正式な宿場ではないのですが、家数121軒もありました。そして立場茶屋が長沢村との境の四谷と本宿の法蔵寺の二ヶ所、宿内の距離はなんと19町(2071m)もあったといいます。



静かな佇まいを見せる本宿の町を貫く旧東海道を進んでいきましょう。冨田医院から150mほど進むと、右側に常夜燈が置かれています。ここを右へ進むと名鉄名古屋本線の本宿駅に行くことができます。

本宿家並
本宿家並

本宿は古くから麻縄の産地として知られていたようで、東海道中膝栗毛にも「ここは麻のあみ袋などあきなふれば、北八、みほとけの誓いとみえて、宝蔵寺、なみあみ袋はここの名物」という記述があります。

法蔵寺草履
三河本宿は山間の集落で古来より麻、麻縄の産地として知られていました。
ここで言う法蔵寺草履は農民たちが夜なべをして作っていたもので、街道で売る前に法蔵寺で安全祈願の祈祷をしていたようです。麻と縄で編まれた旅草履は丈夫で長持ち、そして履き心地が良いという評判から、街道を旅する人から人気があったのです。

豊川信用金庫がある交差点の手前の右側にお江戸・日本橋から78番目の一里塚跡の標柱が置かれています。

78番目一里塚跡

そしてこの先の左側に古びた土壁が印象的な「屋敷門」が現れます。この屋敷門は宇都野龍碩(うつのりゅうせき)邸跡です。

宇都野龍碩屋敷門
宇都野龍碩屋敷門

本宿村医学宇都野氏は古部村(現岡崎市古部町)の出といわれ、宝暦年間(1751~1763)三代立碩(りっせき)が当地で病院を開業したのが始まりといわれています。
七代龍碩はシーボルト門人の青木周弼(あおきしゅうすけ)に医学を学んだ蘭方医として知られ、安政年間に当時としては画期的ともいわれる植疱瘡(うえほうそう)(種痘)を施しています。

宇都野龍碩(うつのりゅうせき)邸跡の先に街道松が何本か残っています。

街道松

この先の本宿町沢渡信号の辺りで本宿は終わりです。そして旧東海道筋はここで再び国道1号と合流します。
この本宿町沢渡信号を渡り、約1キロ強の距離ですが国道1号に沿って右側を歩いて行きましょう。
この先6キロ地点で旧街道筋は国道一号から右手に分岐していきます。



東海中学校入口信号を過ぎると旧舞木村に入ります。このあたりから右手の視界が広がり、遥か向こうには低い山並みが連なっています。田園風景が広がる景色を眺めているうちに6キロ地点で旧街道は国道1号から右手に分岐していきます。

田園風景

ほんの僅かな距離ですが、名鉄名古屋本線の線路が間近に迫る細い道筋を進んでいきます。250mほど歩くと右手に「名電山中」の駅があります。
舞木の地名は山中八幡神宮記の一節に「文武天皇(697~707)の頃、雲の中より神樹の一片が神霊をのせて舞い降りる 」とあり、このことから舞木の地名となったといわれています。



1号線から分岐して名鉄名古屋本線の線路に並行して走る旧街道沿いには僅かながらの商店が並び、静かな雰囲気を漂わせています。街道の右手に点在する興円寺、永證寺の甍を眺めつつ、山綱川に架かる舞木橋を渡ると道筋にわずかながら松並木が残っています。

大雄山興円寺の石柱に旧山中村と刻まれていますが、興円寺は宝永7年(1710)に開創された寺です。
旧山中村とありますが、舞木町の説明板には舞木村は古くは山中郷に属していましたが、江戸幕府の三河代官が市場村の一部を藤川宿に移転させた際、残りの市場村と舞木村を合併したことで現在の舞木町になったと記されています。

旧街道筋は舞木西交差点(信号交差点)で再び国道1号と合流します。この辺りはたいへん眺望が良くて、広々とした畑が広がる景色が目の前に現れます。国道1号を挟んで、向う側にちょっと遠目ですが山中八幡宮の赤い鳥居とその背後にあるこんもりと茂った鎮守の森が見えます。そしてその手前には大きな常夜燈が置かれています。

畑の中の常夜灯

旧街道筋から逸れて、畑の中の一本道を歩いてまずは常夜燈へ向かうことにしましょう。近づいてみるとかなり大きな常夜燈で、火屋があるもので階段までついています。八幡宮の氏子達が天保4年(1833)に建立したもので、山中御宮、常夜燈と刻まれています。神社の鳥居から80mほど離れた畑のど真ん中にぽつんと立っている姿は遠目からでもかなり目立つ存在です。

山中八幡宮の鳥居

常夜燈から80mほどさらに進むと、山中八幡宮の鳥居前に到着します。鳥居の右側にはなんと樹齢650年という岡崎市指定天然記念物の大クスノキがあります。幹は二股に分かれ、650年という樹齢を感じさせないくらいに見事な枝ぶりを伸ばしています。

大クスノキ

鳥居をくぐると長い石段(111段)が鬱蒼とした森の中にのびて本社殿がある境内へとつづいています。(その距離180m)

社殿へとつづく石段

祭神は誉田別尊(ほんだわけのみこと)、八幡大神ですが、徳川家康と縁が深い神社なのです。 
弘治4年(1558)、今川義元の命によって家康が初陣の三河寺部城攻めに際し戦勝祈願をしたところです。慶長2年(1597)には石川数正等に命じ衡門を建てて社殿を造営しています。

山中八幡宮本社殿
 
また三代将軍家光は寛永11年(1634)の上洛の途中に、当社に参拝し東照宮合祀、葵の紋の使用を許可された、とも伝えられています。本社の左手前に家康が戦勝のお礼に参拝した際に残したとされる出世竹があります。

また家康公の三代危機といわれる三河一向一揆で門徒たちに追われた家康が身を隠しその難を逃れたと伝えられる「鳩ヶ窟(はとがくつ)」あります。

長い石段を上り終えたら、社殿へ向かう石段を右に見ながら、そのまま直進していきます。そして細い道筋を進むと「鳩ヶ窟(はとがくつ)」の石碑が置かれています。

鳩ヶ窟石碑
鳩ヶ窟

三河一向一揆は永禄6年(1563)に家康の家臣が一向宗寺院の不入権を無視して、兵糧米を徴収しようとしたことに対し、一向宗門徒が反発したために起こったといわれています。その一揆方の追っ手が家康の潜んでいた洞窟を探そうとすると、中から二羽の鳩が飛び立ち、人のいる所に鳩がいるはずがないと追っ手は立ち去ったという逸話が残っています。 

鳩ヶ窟は本社に入る手前で、左折すると両脇は藪のようになっている道を行くと、注連縄が張られていて、洞窟は神聖な場となっていますが、人がひとり入れるかどうかという大きさです。
それにしても家康公、どこでもピンチに遭遇しているんですね!

山中八幡宮を後にして再び国道1号線に戻りましょう。その道筋の脇には「枝豆」の畑が広がっています。
国道1号に戻ると右手上の方に名古屋鉄道の舞木検査場が見えます。名鉄の車両が並んでいます。

やがて道が右にカーブすると、市場町の交差点に出てきます。そしてその先の左側に入る道が東海道で藤川宿の東見附は目と鼻の先に迫っています。



市場町の交差点を渡り、50mほど先の細い道に入ると、すぐに「従是西藤川宿」と書かれた標柱があり正面にモニュメントが見えてきます。

旧街道への分岐点

ここは藤川宿の江戸方の入口の棒鼻があった所で「東棒鼻」と呼ばれています。棒鼻とは土塁に石垣、その上に竹矢来や木を植えたもので、そこに番人がいて宿場の出入りを監視していました。ここにあるのは平成4年に復元されたものです。

東棒鼻

藤川宿は安藤広重が描いた大名行列が棒鼻を通る風景で知られています。藤川宿は日本橋から37番目の宿場です。宿内には本陣1、脇本陣1、旅籠数36軒、家数は302軒があり、宿内人口は1213人です。 

慶長6年(1601)に伝馬朱印状が発給されて宿場になったものの、村の規模が小さいためやっていけなくなり、慶安元年(1648)に藤川宿の東側に500メートル程道を伸ばし、隣村の市場村から68戸を移転させて加宿市場村を作ったという歴史があります。

藤川宿のむらさき麦
東海道名所図会に、「藤川、この辺に紫麦を作る。これを高野麦という。」という記述もあることから、藤川宿のこの辺りではかつて、むらさき色の麦「紺屋麦(高野麦)」を栽培していました。穂が紫色をしており、かつては藤川宿の名産でした。しかし、いつしか作られなくなり、ついに「むらさき麦」は幻の麦となってしまいました。

むらさき麦の看板

この「むらさき麦」を芭蕉句碑にちなんで、藤川に再現したいと願って、原田市郎氏と野田正夫氏が奔走し、念願かなって、平成6年に愛知県農業総合試験場の協力で復活し、藤川宿内の数箇所で「むらさき麦」の栽培が行われており、毎年5月中旬頃から赤紫色に色づいた麦を見ることができます。

※「ここも三河 むらさき麦の かきつばた 芭蕉」かきつばたで有名な知立も三河なら、この藤川も三河。ここ藤川には知立のかきつばたに劣らないむらさき麦がありますよ!

むらさき麦は大麦の栽培品種で、食用というよりはむしろ鑑賞・染物などに使われました。「紺屋麦」または「高野麦」といわれ、茎や穂が紫色になる美しい麦です。

棒鼻に入ると曲がりくねった道になっており、ここ藤川では曲手(かねんて)と呼んでいますが、一般的には枡形とか鉤型といわれるものです。

細い道を入って行くと三叉路に突き当たるので、これを右折して進みます。そしてその先がT字路になっているのでこれを左折します。この角には道中記に書かれて有名になった「茶屋かどや佐七」があったと案内があります。 

東海道中膝栗毛の中でも「かくて藤川にいたる。 棒鼻の茶屋、軒毎に生肴をつるし、大平瓶、鉢、店先に並べたてて、旅人の足をとどむ。」弥次郎兵衛の「ゆで蛸で たこのむらさきいろは 軒毎に ぶらりと下がる 藤川の宿 これより宿 をうちつぎ、出はなれのあやしげなる店で休みて………」とあるので、江戸時代には道の両側に茶屋が並び、客引きが凄かったように思われます。 

かつての旧東海道はT字路を左折して進んでいきます。その先の右側に一対の常夜燈と鳥居があり、傍らの石柱には津島神社と書かれていて、路地の奥の方に社殿が見えます。

藤川宿の家並

さあ!宿内を貫く旧街道を進んでいきましょう。市営駐車場前を過ぎて、最初の信号を渡ると左手に「片目不動」と染め抜かれた幟がはためいています。

片目不動入口
片目不動

真言宗醍醐派の法弘山明星院という寺で、堂宇も敷地も小さく、見栄えのしない寺なのですが、寺の本尊である「不動明王」が徳川家康の窮地を救ったということで、たいへん有名なのです。

桶狭間以後、岡崎に戻った家康は家臣団を集め、三河平定へと乗り出すのですが、その過程の永禄5年(1562)、扇子山の戦いで家康に放たれた矢を見知らぬ武士が身代わりになり片目を潰し姿を消しました。

その後、家康が明星院を訪れた際、祀られていた不動尊の姿形があの時の武士にそっくりで片目が潰れていたことから、不動尊の化身に助けられたと悟り深く感謝したと伝えられています。
ここでも家康公はピンチに遭遇していたのですね。尚、本尊の不動明王立像は秘仏なので見ることはできません。 

旧街道はこの先で小さな川を渡ります。渡ると江戸時代の藤川村です。ここから東へ500mが藤川宿の加宿であった市場村だったのです。



旧街道は小さな川を渡ります。渡るとすぐ右手の小さな駐車場の脇に高札場跡が現れます。高札場は高さ一丈、長さは二間半、横は一間の大きさで、八枚の高札が掲示されていたといいます。その内、三枚はこの先の資料館に展示されています。

旧街道を挟んで、高札場の反対側に堂宇を構えるのが称名寺です。当寺には代官だった烏山牛之助の位牌があります。武田成信や雷電と争ったという力士の江戸さき(山の下に大その下に可という字)の墓もあります。 なお武田成信は藤堂家の家臣で武田信玄の弟の信実の八世にあたります。

そしてその先の米屋が問屋場です。米屋の生垣前に問屋場跡の石柱と案内板がります。

問屋場跡

江戸時代の東海道宿村大概帳には藤川宿には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠は36軒あったとあります。銭屋のはす向かいにあったのが本陣だった森川家で、現在は第二資料館になっています。

藤川宿
藤川宿
本陣跡
本陣跡

藤川宿の本陣は2軒ありましたが、その後、退転(おちぶれること)を繰り返し、江戸時代後期には森川久左衛門が本陣を勤め、建坪は194坪だったといいます。
宇中町の右側に立派な門がある家がありますが、この場所は脇本陣を務めた大西喜太夫の橘屋です。

脇本陣の門

当時の家は現在の130坪ほどの敷地の4倍で、明治天皇御小休所の坐所があり、昭和30年の岡崎市との合併前は藤川村役場にもなっていました。

現在は藤川宿資料館(入館無料、9時~17時、月曜休)になっています。
門は当時のままで、庭には脇本陣跡の石碑もあり、館内には宿場街道の模型や古文書、古地図が展示されていて、江戸時代の藤川宿の様子を知ることができます。

脇本陣の石柱

脇本陣の裏手には本陣の建物の土台として築かれた石垣がその名残をとどめています。
そして石垣周辺にも「むらさき麦」の栽培地が広がっています。

脇本陣裏手の石垣跡
むらさき麦の栽培地看板

宿内を進んで行くと左手に伝誓寺が山門を構えています。その先にも「むらさき麦」の表示が置かれています。

本陣、脇本陣などがある宿場の中心を過ぎて、少し歩くと右手に藤川小学校が現れます。この小学校の前が藤川宿の西の棒鼻が置かれていた場所で、藤川宿もここで終わります。
その一角に、広重の師匠の浮世絵師、歌川豊広の歌碑があります。
「藤川の 宿の棒鼻 みわたせば 杉のうるしと うで蛸のあし」と刻まれています。

西棒鼻
西棒鼻

さあ!それでは本日の終着地点である藤川の道の駅へと向かうことにしましょう。藤川小学校の角を右へ曲がり、名鉄名古屋本線の藤川駅へ向かいます。

線路を跨ぐ陸橋を渡って反対側へ移動します。たいへんお疲れ様でした。道の駅藤川に到着です。

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