徳川将軍家ゆかりの天下長久山・国土安穏寺から距離にして約2キロ弱に、またしても奇怪な山号を持つ寺があるのをご存知でしょうか?
炎天寺(左奥)と八幡神社(右)
その名も「炎天寺」といいます。その名前から「火」、「日」と何らかの由緒があるものと思いつつ期待しながら辿りつきました。
炎天寺山門
炎天寺本堂
そもそも当寺の創建は古く平安末期に遡ります。ちょうどこの頃、奥州安倍一族の反乱平定に趣くあの源頼義と八幡太郎義家父子の軍勢がこの地で野武士と戦い、苦戦を強いられることになったらしいのです。この苦境を脱するがために、頼義、義家父子はこの地から京の岩清水の八幡宮に戦勝を祈願したところ、そのご利益のためかようやく勝利を得ることができたと伝えられています。まあ~こんな話は関東には掃いて捨てるほど転がっていますが…。
八幡神社参道と枝をのばす松
そんなことで頼義、義家父子はすでに堂を構えていた寺の隣に八幡宮を建立し、併せてその時期が旧暦六月だったのでこの地を六月村と名付け、寺の名を源氏の白旗(幡)が勝ったので「幡勝山」そして戦勝祈願が成就したので「成就院」、さらにはこの時期の気候が「炎天」続きであったことから寺名を「炎天寺」に改めたという「嘘」のような「本当」の話が残っているのです。ということは炎天寺は頼義、義家父子が創建した「六月八幡神社」の別当寺としての寺格を有していたわけです。もちろん今でも炎天寺と八幡神社は同じ敷地内にあり「お隣さん」といった具合に寄り添っています。尚、現在でもこの炎天寺がある地名は「六月」と表示されています。
旗掛け松
そしてこの八幡神社入口には八幡神社縁の頼義、義家父子が源氏の白旗を立て掛けたと伝わるまるで臥竜のように枝を伸ばした松の木が残っています。この松を「旗掛け松」といい、その傍らにその由緒が立てかけられています。
何が本題かわからなくなってきましたが、ここ炎天寺はなんと江戸時代を代表する俳諧師の一人である「小林一茶」と浅からぬ関係があるのです。時は、あの浮かれきった文化が花開いた「文化」の頃、一茶はここ六月の地の炎天寺にやってきたのです。そしてこんな記述を残しています。「武蔵の国、竹の塚というに蛙たたかいありけるに見にまかる」と。炎天寺境内で「蛙たたかいありける」の様子を詠ったのが「痩蛙まけるな一茶是に有」の有名な句だというのです。
小林一茶像
この「痩蛙」の句に登場する二匹の蛙が相撲をとっている姿を表した小さな像が池の中に置かれ、まるで鳥獣戯画の中に登場する蛙のような風情を漂わせています。
蛙像
痩蛙…」の句碑
また炎天寺を詠った句には
「夏 蝉鳴くや六月村の炎天寺」
「むら雨や六月村の炎天寺」
などがあり、境内にはこれらの句を刻んだ句碑が置かれています。
まあ俳句、特に小林一茶がお好きな方であれば、ここ炎天寺は聖地みたいな場所なのでしょう。俳句音痴である私があれこれと言うのもはばかりますので、炎天寺についてはこのくらいにして筆を置かせていただきます。
日光街道脇に残る江戸民家の長屋門
東海道五十三次を描いた絵師「初代安藤広重」が眠る寺・東岳寺
天下長久山・国土安穏寺~旧日光道中脇の徳川家ゆかりの名刹~
お江戸庶民の厄除け祈願大師・西新井大師総持寺
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その名も「炎天寺」といいます。その名前から「火」、「日」と何らかの由緒があるものと思いつつ期待しながら辿りつきました。
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そもそも当寺の創建は古く平安末期に遡ります。ちょうどこの頃、奥州安倍一族の反乱平定に趣くあの源頼義と八幡太郎義家父子の軍勢がこの地で野武士と戦い、苦戦を強いられることになったらしいのです。この苦境を脱するがために、頼義、義家父子はこの地から京の岩清水の八幡宮に戦勝を祈願したところ、そのご利益のためかようやく勝利を得ることができたと伝えられています。まあ~こんな話は関東には掃いて捨てるほど転がっていますが…。
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そんなことで頼義、義家父子はすでに堂を構えていた寺の隣に八幡宮を建立し、併せてその時期が旧暦六月だったのでこの地を六月村と名付け、寺の名を源氏の白旗(幡)が勝ったので「幡勝山」そして戦勝祈願が成就したので「成就院」、さらにはこの時期の気候が「炎天」続きであったことから寺名を「炎天寺」に改めたという「嘘」のような「本当」の話が残っているのです。ということは炎天寺は頼義、義家父子が創建した「六月八幡神社」の別当寺としての寺格を有していたわけです。もちろん今でも炎天寺と八幡神社は同じ敷地内にあり「お隣さん」といった具合に寄り添っています。尚、現在でもこの炎天寺がある地名は「六月」と表示されています。
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そしてこの八幡神社入口には八幡神社縁の頼義、義家父子が源氏の白旗を立て掛けたと伝わるまるで臥竜のように枝を伸ばした松の木が残っています。この松を「旗掛け松」といい、その傍らにその由緒が立てかけられています。
何が本題かわからなくなってきましたが、ここ炎天寺はなんと江戸時代を代表する俳諧師の一人である「小林一茶」と浅からぬ関係があるのです。時は、あの浮かれきった文化が花開いた「文化」の頃、一茶はここ六月の地の炎天寺にやってきたのです。そしてこんな記述を残しています。「武蔵の国、竹の塚というに蛙たたかいありけるに見にまかる」と。炎天寺境内で「蛙たたかいありける」の様子を詠ったのが「痩蛙まけるな一茶是に有」の有名な句だというのです。
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この「痩蛙」の句に登場する二匹の蛙が相撲をとっている姿を表した小さな像が池の中に置かれ、まるで鳥獣戯画の中に登場する蛙のような風情を漂わせています。
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また炎天寺を詠った句には
「夏 蝉鳴くや六月村の炎天寺」
「むら雨や六月村の炎天寺」
などがあり、境内にはこれらの句を刻んだ句碑が置かれています。
まあ俳句、特に小林一茶がお好きな方であれば、ここ炎天寺は聖地みたいな場所なのでしょう。俳句音痴である私があれこれと言うのもはばかりますので、炎天寺についてはこのくらいにして筆を置かせていただきます。
日光街道脇に残る江戸民家の長屋門
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