大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

私本東海道五十三次道中記 第31回 第1日目 井田川駅前から亀山宿をぬけて関宿へ

2015年11月10日 10時22分08秒 | 私本東海道五十三次道中記


31回目を迎える今回はここ鈴鹿市の関西本線の井田川駅前から旅が始まります。比較的新しい駅舎は街道の風情を漂わす造りになっています。駅前は小奇麗なロータリーになっていますが、商店街らしきものはありません。地方の田舎の駅といった雰囲気が漂っています。

第一日目はここ井田川駅前を出立して、46番目の亀山宿をぬけて東海道中で最も宿場の雰囲気を残している47番目の関宿の道の駅まで11.2kmを歩きます。

そして第2日目は関宿内を散策した後、いよいよ私たちは鈴鹿の山並みの中へと足を踏み入れます。久しぶりの峠越えが待っています。徐々に標高を上げながら進む道筋は箱根以来の峠越えですが、箱根よりは体に負担がないなだらかな勾配がつづきます。そして峠を越えると伊勢の国から近江の国へと入っていきます。近江の国に入って最初の宿場が土山宿です。
関宿から土山宿までは15.8キロです。

第3日目は関宿ほどではありませんが、古い家並みが残る静かな土山の宿を散策し、次の水口宿へと歩を進めていきますが、水口まではちょっと距離があるので、土山大野の三好赤甫旧跡までの7.2キロを歩きます。

新しい年を迎え、本格的な寒さがやってくるそんな季節の中での街道歩きが始まります。

駅前のロータリーに面して「日本武尊」の像が置かれています。
前回、私たちは「日本武尊」にまつわる「杖衝坂(つえつきざか)」を登りました。
杖衝坂は日本武尊が東国からの帰路に、伊吹山(いぶきやま)に住まう荒ぶる神を倒すために向かうのですが、逆に神の怒りに触れて病となり下山します。

※伊吹山(いぶきやま):滋賀県米原市、岐阜県揖斐郡揖斐川町、不破郡関ケ原町にまたがる山で標高1377m。東海道新幹線は伊吹山の麓を走ります。

そして病身のまま故郷大和の地へと向かうのですが、途中、傷ついた身体を引きずり、喘ぎながら山道を登ったと言われ、その時に自らの剣を杖の代わりにしたという伝説が残っています。そんなことから杖衝坂と呼ばれるようになったのです。

『吾足如三重勾而甚疲』(わがあしは みえのまがりのごとくして はなはだつかれたり)と日本武尊は詠んでいます。この歌の中に現れる「三重」から三重県の名の由来と言われています。

そして病が癒えぬ体を引きずりながら、日本武尊は大和国へと向かうのですが、結局は故郷に辿りつくことができず、この近くの能褒野(のぼの)で亡くなったと伝えられています。
能褒野には「景行天皇王子日本武尊墓」が置かれています。この地方にはこんな伝承が残り、墓まであることで駅前に像が置かれているのです。



井田川駅前を後にして旧街道を進んで行きましょう。街道右側には物流センターがありますが、この場所には以前、井田川小学校がありました。昭和54年(1979)に廃校になりました。そんな名残なのでしょうか、1本の門柱と二宮金次郎像が寂しげに置かれています。

井田川小学校跡

物流センターに沿って進んで行くと、道筋は大きく右へカーブを切るとすぐに国道1号を跨ぐ歩道橋下へと出てきます。私たちはこの歩道橋を渡って、その先へとつづく旧街道へと進んでいきます。

本日の道筋はほとんどの部分が旧街道です。無粋な国道1号線に沿ってあるく行程はまったくありません。
歩道橋を渡って旧街道を進むと、すぎに道は2又に分かれます。私たちは左へ折れてつづく旧街道へと入っていきます。

街道の右側に真宗高田派の西信寺が堂宇を構えています。西信寺を過ぎて進んで行くと、ほんの少し古い家が現れます。そしてこの先で椋川(むくかわ)に架かる川合椋川橋に出てきます。川合の地名はこの椋川(むくかわ)と鈴鹿川が合流する土地であることに由来しています。

その昔、この川は度々氾濫をくりかえし、河岸の家屋が浸水したため、江戸時代の安永年間(1624~1644)、亀山藩士「生田現左衛門」が私財を投げうって、川の流れを南に変え、橋を架け替えたので「現左衛門橋」と呼ばれたことがあったようです。現在は川合椋川橋と呼ばれています。



亀山市川合町に入って間もなくすると、国道1号の亀山バイパスの下をくぐります。バイパスの下をくぐり、200mほど行くと「谷口法悦題目塔(たにぐちほうえつ)」と呼ばれる大きな石碑が現れます。

谷口法悦題目塔

この供養塔は東海道の川合と和田の境にあり、昔から川合の「焼け地蔵さん」、「法界坊さん」と呼ばれ親しまれてきました。南無妙法蓮華経と書かれた2.59mの大きな石碑は江戸時代中期の貞享から元禄年間の頃、京都の日蓮宗の篤信者である谷口法悦によって、日蓮宗の布教と国家安泰を願いつつ、各地の刑場跡や主要街道の分岐点などに建立された題目塔の一つです。

その先の交差点を渡り、細い道を進んで行くと、細い路地に入る角の左の歩道上に鉄枠で補強された「和田道標」が置かれています。この道標は東海道と神戸道の分岐点(追分)に建っているもので、市内最古の道標です。正面に「従是神戸白子若松道」、脇に「元禄三庚午正月吉辰」とあり、元禄3年(1690)に建てられたことが分かります。 
江戸時代には神戸白子若松道は亀山城下から亀山藩下の若松港へ通じる重要道路だったのです。

※白子という地名について、藤枝宿にあった白子町と関係がありますが覚えていますか?
時は天正10年(1582)、あの本能寺の変で信長公が光秀に討たれた時、家康公はわずかな供を連れて、堺の見物をしていたのですが、身の危険を感じて堺から伊賀越えで伊勢の白子の浜に逃れたのです。
そして白子の浜師「小川孫三」の助けで家康一行を船に乗せて対岸の知多半島へと運んだのです。
その後、家康公は孫三の恩に報いる為、孫三に藤枝宿の一画に土地を与え、諸役御免(伝馬役などの宿場の業務を免除すること)の特権を与えたのです。
孫三は藤枝宿に居住し、町名を故郷の名と同じ白子町としました。現在、藤枝市の白子町は本町と名を変えていますが、ご子孫は小川医院を経営しています。

和田道標からほんの僅かな距離で県道28号と合流しますが、すぐに旧街道は大きく北方向へ曲がります。

旧街道は緩やかな登り坂となりますが、坂が始まってすぐの左側に「井尻道」の道標が置かれています。この道標は明治中期に亀山で製糸業を始めた実業家田中音吉の寄付によって建立されたものです。

そして街道の右側に福善寺が堂宇を構えています。坂道は少し傾斜がきつくなると右側に石垣があり、幟がひらめく石上寺(せきじょうじ)が山門を構えています。石上寺は高野山真言宗の寺で本尊は子安延命地蔵菩薩です。

石上寺
石上寺ご本堂
石上寺前の街道

石上寺は延暦15年(796)に紀真龍(きのまたつ)が石上神宮(いそのかみじんぐう)の神告により、この地へ那智山熊野権現を勧請し、新熊野三社として祀ったのが、新熊野権現社の起源で、同年8月弘法大師が真龍の元を訪れ、地蔵菩薩を刻み一宇を建立して、那智山石上寺と名付けたのが、当山の始まりとされています。

鎌倉時代に将軍家の祈祷所となり広大な寺領と伽藍からなる大寺院でしたが、織田信長の伊勢侵攻により焼失して寺勢は衰えたといいます。鎌倉から室町期にかけての古文書20通が残り、三重県有形文化財に指定されています。現在の建物は明和三年(1766)に再建されたものです。尚、和泉式部が参籠したという言い伝えもあり、付近には式部の梅や式部の井戸が残っています。



石上寺を辞して、旧街道へ戻りましょう。だらだらとした坂道はまだ続きますが、それほど長くはありません。坂を登りきると、街道右側に江戸から104番目、京都三条大橋から21番目(87㎞)の「和田一里塚」が置かれています。
といっても、一里塚があった東側に近接する場所に平成5年に復元された一里塚です。昭和59年に道路が拡張されるまでは一里塚の一部が残されていたようですが、区画整理で消えてしまいました。

和田一里塚
和田一里塚

旧東海道筋は次の栄町交差点までは道幅も広く歩きやすいのですが、栄町交差点を過ぎると狭い道筋へと変ります。栄町交差点から先の道筋は旧東海道でもあり、別名「巡見街道」と呼ばれています。尚、この先に東海道と巡見街道の分岐点があるので、そこで詳しく説明しましょう。

巡見街道に入ると、すぐ左側には私たちが日ごろお世話になっている「亀山ローソク」の工場があります。亀山ローソクは現代の亀山の特産品です。

亀山ローソクの工場が途切れ、少し行くと右側に大きな能褒野(のぼの)神社二の鳥居があり、鳥居の下には地元の人が書いた「従是西亀山宿」木札が置かれています。ただし正式な亀山宿の江戸口門はもう少し先にあります。

能褒野神社二の鳥居
能褒野神社二の鳥居

能褒野神社は「日本武尊墓陵」とされる塚の傍らに建てられた日本武尊を主祭神とする神社で、社殿はここから約5キロ北東の亀山市田村町の能褒野橋北側の森の中にあります。
明治12年(1879)、当時の内務省が森の中にある全長約90m、後円径54m、 高さ約9mの王塚とか、丁字塚と呼ばれていた三重県北部最大の前方後円墳を日本武尊の墓であると認定し、以後宮内庁が能褒野陵として管理しています。



そして、ほんの僅か進んで打田釣具店の斜め向かいにあるのが「露心庵跡」です。

露心庵跡

本能寺の変から2年後の天正12年(1584)、明智光秀や柴田勝家を滅ぼし勢力を拡大する羽柴秀吉に対し、織田信長の次男信雄と徳川家康が手を組み対立を深めていた時代の頃のお話です。
ちょうどその頃、信雄方の神戸正武が秀吉方の関万鉄が守る亀山城を急襲、関万鉄は蒲生氏郷や堀秀政の支援を受けて神戸の軍勢を退けました。この合戦での戦死者を供養するために関氏一門の露心が仏庵を開いたのがこの場所です。元々は友松庵の名でしたが、人々は建立者の名から露心庵と呼んだといます。明治期に廃寺とってしまいました。

露心庵跡を過ぎると街道右側に「橘屋跡」の民家が現れます。実は亀山と隣のでは「東海道のおひなさまin亀山宿・関宿」という催しを行っているのですが、この橘屋跡がお雛様飾りをする最初のお家です。

さあ!道筋を進んで行きましょう。前方に比較的大きな信号交差点が現れます。ここで東海道から巡見道が分岐していました。この旧巡見道は菰野を経て濃州道と合流し、関ヶ原で中山道に繋がる約60kmの道程で、江戸時代に幕府の巡見使が通ったことから巡見道の名で呼ばれていました。巡見使は江戸時代の寛永10年(1631)に始まった制度です。

巡見道

《巡見使》
江戸幕府が諸国の大名・旗本の監視と情勢調査のために派遣した上使のこと。大きく分けると、公儀御料(天領)及び旗本知行所を監察する御料巡見使と諸藩の大名を監察する諸国巡見使がありました。

尚、関東には関東取締出役(八州廻り・八州取締役)なるお役目がありましたが、これも天領・私領内を巡回し、治安の維持、犯罪の取締り、風俗取締りを行っていました。但し、関東内の水戸藩は御三家のため取締りから除外されていました。


亀山宿の入口にあたる江戸口までは目と鼻の先です。江戸口跡に至る道筋の民家には過ぎ去った時代の屋号が掲げられています。そんな道筋を歩いていると、街道右手になにやら堂々とした「城の天守?」「櫓?」らしきものが……。亀山城まではちょっと距離があるのですが?実は呉服屋さんのランドマークです。屋号もなんと「衣城しもむら」というそうです。
この辺りから街道筋は商店街らしい雰囲気が出てきますが、商店が軒を連ねているわけではありません。

衣城しもむら

旧街道はこの先の「後藤米穀」で大きく左にカーブし、亀山城下の東側出入口にあたる「江戸口門跡」へと進んでいきます。
往時は東西120m、南北70mの敷地に水堀や土塁・土塀を巡らし、門と番所を据えて通行人を監視していました。そんな江戸口門跡は鉤手のように鋭角的に折れ曲がる旧街道の角にそれらしいモニュメントが置かれているだけです。



かつての江戸口門を入ると亀山宿に入ります。宿の入口でもあり、城下町への入口でもあったところです。
天保14年の東海道宿村大概帳によると、亀山宿は家数567軒、宿内人口は1549人、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠21軒の規模です。 
もちろん亀山藩の城下町でもあったので、参勤交代の大名も旅人はこうした城下町の堅苦しさを嫌って亀山宿に泊まるのを敬遠していたといいます。東町は亀山宿の中心で旅籠や本陣、脇本陣、東問屋場があったところですが、今は商店街になっていて、古い家はほとんど残っていません。賑やかな商店街といった雰囲気はありませんが、一応、メインストリートかな、といったところです。東町商店街はちょっとしたアーケード造りになっています。

商店街に入って右手に折れる細い路地の奥に黒い板塀で囲まれた「福泉寺」「法因寺」が堂宇を構えています。

福泉寺山門
福泉寺山門前

福泉寺の創建は不詳ですが15世紀半ばに天台宗から真宗高田派に改宗した古刹です。山門は寛政7年(1795)に建てられたもので、入母屋、本瓦葺、一間一戸、楼門形式、格式が高く屋根正面には唐破風、軒の両側には鯱が設えられています。亀山市内に残る数少ない寺院楼門建築の遺構として貴重なことから平成8年に亀山市指定文化財に指定されています。

商店街の左側には樋口太郎兵衛が務めた本陣や椿屋弥次郎の脇本陣跡があります。
旧東海道は江ヶ室交番前交差点を左折して狭い道に入ります。カラーモール化された東海道筋は亀山城を大きく迂回するため、鉤の手に曲がるようになっています。
この鉤の手を曲がり、すこし進んだ突き当たりを右折し、そしてすぐに左折して坂を下ると左側に「遍照寺」と「誓昌院」が堂宇を構えています。遍照寺の本堂入口部分は亀山城の二の丸御殿の玄関部分を移築したものと言われています。

その先はなだらかな下り坂です。道が大きく左にカーブするところに大きな古い家が残っています。この辺りの道筋のほんの僅かな部分に宿場町らしい建物が数軒残っています。

宿内の家
宿内の家

そんな道筋にあるのが御菓子司出雲屋です。かつてはこの場所に万屋と大坂屋がありました。出雲屋は昭和5年(1930)創業という老舗の和菓子屋で、三重県産の餅米を使用した生切り餅タガネ餅をはじめ、みたらし団子、五平餅、大判焼き等を製造販売しています。

※タガネ餅:餅米とうるち米をまぜてついた切り餅に時雨のたまり醤油をつけたもの。このタガネ餅の切り餅が「せんべい」に姿を変えていきます。

出雲屋を過ぎると旧街道は302号線で分断されます。旧街道は302号線を渡って先につづいています。私たちはせっかくなので亀山城址へと立ち寄るため、旧街道から逸れて、302号線に沿ってなだらかな坂を上がっていきます。坂の右側には大きな池のような亀山城の濠が広がっています。

亀山城の濠

亀山城の濠に沿って城址へ進んで行くと、前方に亀山城の石垣と多門櫓が見えてきます。

亀山城多門櫓

なだらかな坂道の途中、濠側に石碑が置かれています。碑面には「石井兄弟仇討ち」と刻まれています。



江戸時代初期の延宝(1673-1680)年間に石井源蔵、半蔵兄弟が大坂城代青山家の家臣だった父石井宗春の仇討ちで、亀山城外で本懐を遂げたという話です。江戸三大仇討ちの一つと言われています。

※石井兄弟仇討ち
時は元禄の頃、青山因幡守の家中、石井宇衛門(宗春)が武術の遺恨によって、赤堀源右衛門に討たれました。その時の遺児、半蔵(15歳)、三男の源蔵(3歳)は苦節28年、宿敵である赤堀を亀山城外で討った話です。この話は「元禄曽我」として大評判を博しました。

日本三大仇討は「曽我兄弟の仇討」「荒木又右衛門 鍵屋ノ辻」「赤穂浪士 吉良邸討ち入り」ですが、江戸三代仇討とは「浄瑠璃坂の仇討」」「荒木又右衛門 鍵屋ノ辻」「赤穂浪士 吉良邸討ち入り」のことを指します。

「石井兄弟仇討ち」の石碑を過ぎると、亀山城の多門櫓が大きく迫ってきます。

亀山城多門櫓
亀山城址の石柱

その昔、亀山城の濠から左手は城壁で囲まれていて、西の丸があったといいますが、現在ではその場所は学校や住宅地になっています。道の左側に「亀山城址」の石碑が建っていて、多門櫓と石垣が見えます。

亀山城は文永2年(1265)、関実忠により若山(現亀山市若山町)に築城されましたが、その後、現在地に移されています。天正18年(1590)に入城した岡本宗憲が天守、本丸、二の丸、三の丸などを造ったとされています。江戸時代に入り、城主は目まぐるしく変わります。元和5年(1620)に藩主となった三宅康信の時代だけが1万石でしたが、その他の藩主はおおむね六万石の石高の藩主でした。
そんな1万石の藩主であった三宅康信の時代の頃の話です。寛永9年(1633)に丹波亀山城の天守を解体するよう命じられた松江藩主の堀尾忠晴は、何を間違ったか伊勢亀山城の三層の天守閣のほうを破却してしまいました。間違いでは済まされない失態ですよね。
しかし一説によると、天守の破却は勘違いではなく、わずか1万石の藩主には不釣り合いな天守であったための措置とも言われています。

尚、江戸時代にはいってからの伊勢亀山藩主は明治維新までに15家が入れ替わり、立ち代わり変わっています。

江戸初期に天守を失った伊勢亀山城ですが、本丸や二の丸、三の丸は残りました。そして寛永13年(1636)に城主となった本多俊次による大改修が行われ、天守なき天守台に多門櫓が造られました。当時は粉蝶城(こちょうじょう)とも呼ばれ、その優美さで知られた名城でした。

明治6年(1873)の廃城令により場内の建物は破却されましたが、現在残されている遺構は天守台・多聞櫓・石垣・堀・土塁などのほんの一部です。尚、多聞櫓は原位置のまま残る中核的城郭建築として三重県下では唯一の遺存例で、現存する多聞櫓として全国的にも数少ないものです。

多門櫓の裏手一帯は公園になっていて、園内には蒸気機関車が展示されています。

蒸気機関車

そして公園に隣接して亀山神社の境内があり、その参道入り口に鳥居が建っています。

亀山神社鳥居

さあ!それでは城址に別れを告げて、再び旧東海道筋へ戻ることにしましょう。高台にある城址から今度は坂道を下っていきます。坂の右手には亀山中学校の広いグランドが見えます。坂の途中から振り返ると、先ほどの多門櫓の漆喰塗の白壁が冬の低い太陽に照らされ、ひときわ輝いて見えます。



多聞櫓からなだらかな坂を下ってきます。池の側橋に戻ってくると、302号線で分断された旧東海道はほんの少し上り坂となって右手の細い道筋へ入っていきます。その細い道筋の坂道を登ると、道は右にカーブし、西町になりますが、坂を登りきったあたりに若林又右衛門が務めた「西問屋」があったといわれています。

坂を登りきると真っ直ぐな道筋となります。この辺りの民家には江戸時代の屋号が掲げられています。街道左手に岡田屋本店が店を構えています。屋号札はやはり「おかだや」。江戸時代からの屋号を引き継ぎ、現在はオーガニック食料品店。「東海道亀山宿」と書かれた立て札の両脇には弥次さんと喜多さんかな?

岡田屋を過ぎると旧西町の四つ角にさしかかります。その角に置かれているのが東海道・停車場道標(左角)左郡役所 右東海道(右角)の道標です。明治23年(1890)西町南側に関西鉄道の亀山停車場(現 JR亀山駅)が設置されて以来、西町は亀山の表玄関として栄えました。この四つ角を右へ入ると二の丸へとつづく道筋に置かれていた「青木門」があったようです。

そして旧西町の西村屋跡飯沼慾斎(いいぬまよくさい)の生家です。飯沼慾斎は天明3年(1783)西村守安の次男として生まれ、12歳の時に美濃大垣の飯沼家へ身を寄せて後、養子に入った。京都で漢方医学と本草学、江戸で蘭学を修めて大垣で医者として開業しました。50歳で引退した後は植物の研究に没頭し、リンネ分類法による植物分類を行って「草木図説前篇」を著しました。その先に蔵造りと立派な旧家が見えてきます。旧舘家住宅(桝屋)です。この旧舘家でも「おひなさまの展示」を行っています。見事な吊るし雛や雛壇飾りが展示されます。

旧舘家住宅の先で道筋はT字路となり、いわゆる鉤型になっています。ここを右折します。そんな道筋に馬持備屋跡(うまもちそなえや)の木札が下がっています。この意味はおそらく上級藩士等の馬を世話する人が住んでいた家か物置だと考えられます。文久3年(1863)作成とみられる”宿内軒別書上帳”により、西之丸外堀に面する旧東海道沿いに6軒の馬持備屋が並んでいたことがわかります。

馬持備屋跡の先ですぐ左折します。左折すると、すぐ右手に亀山城西之丸外堀遺構が現れます。東海道と接する外堀の一部分を保存しています。往時は水堀だったのですが、遺構面を保護するために約1mかさ上げし、往時の水面の高さを表現しています。

外堀遺構
外堀遺構

旧東海道はそのまま直進していきます。西ノ丸外堀遺構からほんのわずかな距離で亀山宿の西の出入り口である「京口門跡」にさしかかります。そして道筋は下り坂となり「梅厳寺」の前に出てきます。梅厳寺の入口には「十一面千手千眼観世音菩薩」の石柱があり、「京口門跡」の説明が置かれています。

京口門は亀山宿の西端の竜川(たつかわ)左岸の崖の上に置かれていました。亀山藩主、板倉重常が寛文12年(1672)、亀山宿の西入口として造らせたもので、石垣に冠木門を設け、亀山城の一部としての機能を備え、棟門と白壁の番所が付いていました。坂道の両側にはカラタチが植えられ、下から見上げると門や番所が聳え立つ姿は壮麗を極め、「亀山に過ぎたるものが二つあり、伊勢屋の蘇鉄と京口御門」と詠われました。

※伊勢屋の蘇鉄
元々、この蘇鉄の木は亀山宿の旅籠「伊勢屋」の庭にあったのですが、昭和59年の道路拡幅工事にため亀山市に寄贈され、市の文化会館の玄関前に植えられました。株回りが約5mの立派なものです。
尚、あの京口御門ができたのが江戸時代の寛文12年(1672)であるので、300年を超える樹齢を誇っています。

広重亀山の景

広重が描いた東海道の浮世絵の「亀山宿」は大名行列が雪の中、急な京口坂を登っていく風景が描かれています。絵の右上には石垣と亀山城の櫓らしきものが見えます。絵の中の大名行列の一行は急坂の雪道をどのように歩いていったのでしょうか? 江戸時代にはこの達(竜)川には橋が架かっていなかったので、坂を下って、いったん川まで降りて、そして再び坂を登って亀山宿へと入って行ったのです。

京口門跡の解説板(亀山市教育委員会設置)には京口門古写真があります。大正3年(1914)に京口橋が架けられるまで、広重が浮世絵に描いたような風景が残っていたのです。

橋を渡ると右手に「照光寺」が山門を構えています。境内には石井兄弟の仇討の相手である「赤堀水之助(源五右衛門)」の石碑があります。 
彼は京口門外で兄弟の手によって討たれましたが、哀れに思った人達がこの寺に墓を建てたそうです。尚、この石碑は平成に入って造られたものです。

さあ!この照光寺辺りで歩き始めて5.5キロに達します。ちょうど本日の歩行距離の半分を歩いたことになります。それでは亀山宿をあとに、次の宿場である「関宿」を目指すことにしましょう。宿場を抜けたのですが、街道沿いの様子はまだ宿内にいるような趣のある家が点在しています。

街道の家並み
街道の家並み
街道の家並み
街道の家並み



6キロ地点を過ぎると角に焼肉長次郎が店を構える交差点にさしかかります。この交差点を過ぎると街道の右手前方に立派な一里塚が現れます。江戸から数えて105番目、京都三条大橋から20番目(三条大橋から約83㎞)に置かれた「野村一里塚」です。

野村一里塚
野村一里塚

ここの一里塚は榎ではなく椋(むく)の木を植えた珍しいもので、国の史跡に指定されています。現存するのは北塚だけでで、その上に植えられた椋の木は樹齢300年を越し、幹周り5m、 高さ20mの大木です。南塚は大正12年に倒されています。

野村一里塚を過ぎると、道幅は車1台しか通れないような細い道筋へと変ります。そして町名は「布気町」になります。

そんな道筋の空き地に「大庄屋 打田権四郎昌克宅跡」 と書かれた木柱が建っています。
江戸時代初期に近江国から野尻村に土着したという打田家は、亀山藩主本多家の時に代官を任ぜられ、後に大庄屋を務めました。寛永19年(1642)に生まれた権四郎昌克は、打田家17代当主の時に亀山藩領86ヶ村を見聞し、地誌「九々五集」を著しました。

道はこの先で左にカーブしていくと三叉路にさしかかります。旧街道は右手に進んでいきます。ここまで一里塚から700mほどです。



東海道の道筋には道案内があります。右へとつづく道が東海道で「布気皇舘太神社 能古茶屋跡」の標があります。このあたりには江戸時代、立場茶屋があったところで、元禄3年(1690)に開かれた能古(のんこ)茶屋が有名だったそうです。
亭主の禅僧「道心坊能古」は奈良の茶飯や家伝の味噌、煮豆で旅人をもてなし、好評をえたと伝えられています。松尾芭蕉も能古の友人で「枯枝に鳥とまりたるや秋の暮」という句を残しています。

道は緩やかに左にカーブしていますが、すぐ左側の杜の中に「布気皇舘太(ふけこうたつだい)神社」が社殿を構えています。街道に面して石灯籠と鳥居が置かれています。
布気皇舘太神社は延喜式神名帳に小布気神社とある式内社で、祭神は天照皇御神、豊受大神、猿田彦命をはじめ23柱を祀っています。日本の八百万の神を代表する神々が合祀されているというか、神々としてはベストメンバーなので、なんでもかんでも叶えてくれるのではないでしょうか。

布気皇舘太神社の参道入り口

当神社がある場所は雄略天皇(456~479)のころ、豊受大神宮が御饌都神(みけつかみ)として丹波の国から伊勢国に遷座されたとき、鈴鹿郡で一宿した行宮の旧跡とされています。現在当社は布気皇舘太神社と呼ばれています。江戸時代には高野大神宮、高宮、神戸神社などいくつも名があったようですが、江戸時代の享保8年(1723)頃から、皇舘大神宮と呼ばれるようになったと伝えられています。
中世の頃には土地の豪族であった板淵氏や地頭の関氏が守護し、江戸時代にはこの地を治めていた亀山藩から手厚い保護を受けていました。

明治41年に村社に列し近在の鎮守社を合祀したことで、もともと天照大神、豊受大神、伊吹戸主神(いぶきどぬし)の三神が祭神だったのですが、明治の合祀で二十三柱を祀るようになりました。そして能古茶屋はこの神社前にあったようです。

私たちは落針集落へと入って行きます。落針という地名は平家の落武者がこの地に住み着き、落逃村(おちのがれ)等と呼ばれたものが変化したと伝わっています。

観音坂の緩やかな下りの途中、街道の左側に祠を構えるのが「昼寝観音」です。
名の由来は昼寝をしていたがため、三十三観音霊場に入る機会を逸したという伝説が残る観音様です。

観音坂を下りきると、旧街道はこの先で国道565号とJR関西本線によっていったん分断されます。その先の旧街道へは歩道橋で国道とJR関西本線の線路を跨いで行かなければなりません。



JR関西本線の線路を渡ると、周りの景色は一変します。民家はほとんどなくなり、街道左手に流れる鈴鹿川を間近に眺めながら進んでいきます。前方に見えてくるのは名阪国道と東名阪道の高架です。田園の中に突如として現れる巨大建造物は真下にさしかかると橋脚の大きさ、高さもさることながら、湾曲して延びていくその姿に恐ろしいほどの威厳を感じます。

名阪国道と東名阪道の高架
名阪国道と東名阪道の高架

JR関西本線の線路を越えて700mほど進むと、「大岡寺畷(たいこうじなわて)」と書いた木標が置かれています。

大岡寺畷

畷とは直線道のことで、大岡寺畷は鈴鹿川の北堤で1946間(約3.5㎞)にわたる東海道一の長い畷だったと言われています。江戸時代には18町(約2㎞)にも及ぶ松並木の直線道だった大岡寺、里謡に「わしが思いは太岡寺 ほかにき(気)はない 松(待つ)ばかり」と謡われたというところです。

芭蕉はここでは珍しく和歌を詠んでいます。 
「から風の 太岡寺縄手 ふき通し 連もちからも みな坐頭なり」

尚、現在は松に代わって桜が植えられています。

鈴鹿川の流れ

畷の左側は鈴鹿川の流れと牧歌的な景色が広がり、街道時代と変わらぬ長閑な風景が残っています。



長かった畷道はJR関西本線の踏切で終わります。旧街道は踏切を越えると国道1号線に合流します。国道1号線を渡るために歩道橋を使います。歩道橋を渡った後、ほんの少し国道1号線に沿って歩きます。小野川橋を渡って250mほど行くと右に入る細い道があり、「関宿」と書いた大きな看板が建っていて、左側に「関の小萬のもたれ松」の説明板と最近植えたと思われる松があります。

関宿の看板

関の小萬は父の仇討を遂げた女性です。
江戸時代中期、九州久留米藩に牧藤左衛門という藩士がおり、遺恨あって同輩の小林軍太夫という者に殺されました。藤左衛門の妻は身重の体だったが、仇討ちを志して旅に出ます。鈴鹿峠を越え関宿に着いたところで行き倒れとなり、山田屋(現 会津屋)に保護されましたが、女子を生んで後に病没。この女子が小万です。
成長した小万は母の遺志を継ぎ、亀山城下で三年程武術を修行、天明3年(1783)に見事、仇敵小林軍太夫を討ち果たします。この一事によって「関の小万」の名は世間に知れ渡りました。
「小万のもたれ松」は亀山城下通いの小万が、若者の戯れを避けるため、ここの松にもたれ姿を隠していたとの言い伝えから。尚、小万は仇討成就後も山田屋に留まり、36歳で亡くなりました。墓は関宿内の福蔵寺にあります。

ここから400mほど歩くと左側に大きな木の鳥居が現れます。ここが関宿の江戸側の入口です。

伊勢神宮の大鳥居

さあ!関宿に到着です。関宿の入り口に立つ大鳥居は東海道を歩いてきた旅人で、伊勢神宮に立ち寄ることができない時に伊勢神宮に向かって遙拝するためのものです。20年に一度行われる伊勢神宮の式年遷宮の都度、伊勢神宮内宮の宇治橋南詰で使われていた鳥居をここに移築し建て替えられてきました。
現在見る大鳥居は平成7年(1995)に移築されたものです。2013年10月に伊勢神宮式年遷宮の遷御の儀が行われ、大きな話題となったことは記憶に新しいのですが、この時の大鳥居も平成27年中には建て替え予定とのことです。

鳥居の左側の小高いところは関一里塚の跡で、右側奥にそれを示す小さな「関一里塚跡」の石碑が建っています。

関一里塚跡

関宿はこの鳥居から西の追分まで、東西に1800mの帯状に伸びていた宿場町です。また東海道と伊勢詣での旅人が向う伊勢別街道との追分(分岐点)でもありました。伊勢別街道はいせみち、参宮道、山田道と呼ばれていました。ここから伊勢神宮まで4里26町の距離です。右側の一里塚は既になく、左側も原形は留めていませんが、常夜燈は置かれています。

伊勢神宮の鳥居が建つ場所から前方を眺めると、宿場内を貫く細い街道の両側に途切れなく家並みがつづいています。まるで時代劇のオープンセットが目の前に現れたような光景です。さあ!街道時代の世界へ入っていきましょう。



鳥居前の石垣上の家は「岩間家住宅」です。

岩間家住宅

説明には「岩間家は当時の屋号を白木屋といい、東追分で稼ぐ人足や人力車登場後は車夫の常宿だった。連子格子が素晴らしい建物は200年以上経っていて、むくり屋根が特徴である。屋根の曲面形状はそり(反り)とむくり(起り)に分類される。そり(反り)は下方に凸となったもの、むくり(起り)は上方に凸となったものである。 むくりは使われることが少ないが、数奇屋建築にはむくり屋根が好んで使われ、桂離宮などはその好例である。」

関宿は天保十四年の東海道宿村大概帳に総戸数が632戸、人口は約2000人、本陣が2軒、脇本陣2軒、旅籠が42軒とあり、かなり大きな宿場でした。今も380軒もの古い家が残り、軒を連ねている様は壮観です。

関宿の家並み
関宿の家並み
関宿の家並み
関宿の家並み
関宿の家並み

これらの貴重な建物は昭和59年に旧東海道の宿場町の町並みを留める地区として、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されました。宿内で最も古い建物は18世紀中期のもので、江戸から明治のものが全体の約45パーセントを占めています。更に昭和戦前までのものを加えると実に全体の約7割を占めるといいます。
このように野外博物館のような町並みを残す関宿では貴重な建物の保全にはかなり力を入れており、街道から10m入った部分まで建物を勝手に手直しすることは禁止されています。例えば、家の戸に敷居すべりを貼ることも禁止されているようです。

さらに家々のクーラーの室外機は見栄えが悪いということで、ほとんどが木製のカバーで覆われ、ゴミの集積所も木製、郵便の投函ポストも「書状集箱」、また床屋さんの赤、白、青の看板もレトロ調と景観保全は徹底しています。

さて宿内は木崎町(こさき)、中町、新所町(しんじょ)の三つの町で構成されていますが、東木戸の鳥居に近いのが木崎町です。ここから先は道幅が狭くなり、車が1台だけ通れるだけの巾しかありません。また、宿内の街道には電信柱がまったくなく、古い家並みが途切れなく街道に沿ってつづく様子は、これまで歩いてきた東海道筋では初めてではないでしょうか。
とはいえ、街道に沿って多くのお土産屋さんや一般の商店が並んでいるかというと、そのほとんどが民家のようで、観光客相手のお店はあまり見かけません。時間帯によっても宿内の様子も違ってくるのかもしれませんが、暮れなずむ冬の夕刻時、宿内を歩く人もなく、ひっそりとした雰囲気が漂っています。

少し歩くと「御馳走場」と書かれたところにでてきます。ここは宿役人が関宿に出入りする大名や高僧、公家などを出迎えたり見送ったりしたところで、大名行列ではここから本陣まで行列を組んで進んだといいます。

御馳走場

御馳走場の前には「開雲楼」と「松鶴楼」という関を代表する芸妓置屋の建物が残されています。

開雲楼・松鶴楼
開雲楼・松鶴楼
開雲楼・松鶴楼

開雲楼・松鶴楼が建つ場所から上にのびる路地は関神社の参道の入口で、奥に関神社の社殿が構えています。関神社は関氏の始祖が紀伊国の熊野坐神社の分霊を勧請し、江戸時代には熊野三所権現と呼ばれていましたが、 明治時代に笛吹大神社や大井神社などを合祀して、関神社と名を改めました。境内のナギの木は熊野に縁があるといわれています。

静かな、静かな宿内を歩きながら、過ぎ去った時代の宿場の光景を頭に浮かべることができるひとときです。
その昔には夕暮どきともなると、旅籠の軒先には屋号を記した常夜燈が置かれ、淡くゆらめく灯が宿内の道筋を飾っていたのではと想像します。そして処々から「留女」の声が聞こえてきたのではないでしょうか?
そんな宿場の光景が蘇ってくる関宿は街道時代へタイムトリップしているかのような雰囲気を漂わせています。旧東海道筋に残る宿場町の中で、ほぼ完全な形で家並みが残っているのが「関宿」です。

街道に面して「百五銀行」が現れます。町並みの景観を損なわない配慮がなされた店舗です。周囲の景色に完全に溶け込んでいます。

百五銀行の建物
関宿の家並み
関宿の家並み
関宿の家並み
関宿の家並み

冬の関宿の夕暮はあっという間にやってきます。日は西に傾き、日没前の淡い夕焼けに宿内は徐々に染まっていきます。人通りが途絶えた宿内は間もなく帳が下りて静かな夜を迎えることでしょう。
第1日目は宿内の木崎地区で見学を終え、「道の駅・関宿」へ向かうことにします。明日もまた関宿内を散策します。

第3ステージの目次へ

私本東海道五十三次道中記 第31回 第2日目 関宿から坂下宿、鈴鹿を越えて土山宿へ(その一)
私本東海道五十三次道中記 第31回 第2日目 関宿から坂下宿、鈴鹿を越えて土山宿へ(その二)
私本東海道五十三次道中記 第31回 第3日目 静かな土山宿をぬけて土山大野の三好赤甫旧跡まで





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