大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

家康公の故郷・三河岡崎~家康公誕生の城・岡崎城~(愛知県岡崎市)

2011年06月08日 17時36分13秒 | 地方の歴史散策・愛知県岡崎市
名鉄東岡崎駅から徒歩15分ほどの距離に位置する岡崎のシンボル「岡崎城」はそれこそお江戸の基礎をつくり上げた家康公の生まれ故郷です。

>岡崎城天守閣

乙川に架かる「殿橋」を渡り、右岸の堤をを歩くこと数分で岡崎城を囲む緑豊かな林が目に飛び込んできます。ゆったりと流れる乙川の姿は家康が生まれたはるか昔とおそらく変わっていない素朴さを醸し出しています。

乙川に架かる殿橋

現在、岡崎城の天守が聳える一帯は岡崎公園と呼ばれ、堀割、大手門をはじめ幼少の家康公を偲ぶ旧蹟や石碑などが点在している歴史的名所となっています。

岡崎城大手門
龍城濠

家康公の生涯はここ岡崎が出発点なのですが、史実によると家康公が生まれたのは天文11年(1542)の12月26日、八代当主松平広忠公を父、於大を母に松平家九代目となる長男として岡崎城内の坂谷の産屋で誕生しました。この年が寅年で、生まれた時刻も寅の刻(午前4時頃)であったため、幼名竹千代とあわせて「寅童子」とも呼ばれています。

竹千代3歳の時、母於大の実家である刈谷城主水野忠政の跡目を継いだ於大の兄信元が今川家を見切り、織田方に身を転じたことで、竹千代の父広忠は今川家から疑念をもたれることを恐れ、信元と絶縁し妻於大と離縁してしまいます。

そして竹千代4際の時、父広忠は今川方の有力大名である田原城主の戸田康光の娘、真喜姫と再婚し織田方勢力に対峙することになります。ここで竹千代に継母ができたのです。竹千代が幼少の頃、ここ岡崎城では日常の生活が営まれ、学問の場であり、遊びの場であったのです。

竹千代の身に劇的な変化が訪れたのは竹千代6歳の時。三河岡崎に織田方の勢力が及ぶや、父広忠は今川義元に援助を請うこととなります。その見返りに義元から竹千代を人質に求められ、いよいよ駿府の今川へ送られることとなるのですが、その道すがら、義理の祖父戸田康光の裏切りにより竹千代は尾張の織田へ送られてしまいます。

織田の下で2年の歳月を過ごした竹千代は8歳になっています。この年、天文18年(1549)の3月に竹千代の父広忠は織田方の間者によって暗殺されてしまいます。そして同年11月、今川方は織田方の安祥城を守る織田信秀の長子信弘を捕虜とします。そして織田方に捉えられている竹千代と人質交換をし、竹千代は再び岡崎に戻ってきます。しかし岡崎にはつかの間で、この年12月には駿府の今川義元のもとへと送られてしまいます。

駿府で元服を向かえた竹千代は14歳で「松平次郎三郎元信」と名乗ることになります。その後、17歳で元康と改名し、今川義元のもとで数々の武勲を立てることとなります。そして19歳となった元康(家康)にとって最大の危機とチャンスが訪れるのです。

永禄3年(1560)5月の「桶狭間の合戦」です。信長の奇襲を受け今川義元が討ち取られたのです。これを聞いた元康(家康)は夜陰に乗じ、織田方の落武者狩りに出逢いながらも、松平家の菩提寺である「大樹寺」へ逃げ込むことができました。そして今川軍が撤退した岡崎城へ同月23日に、元康(家康)はなんと13年ぶりに帰城を果たしたのです。

そんな歴史を刻む岡崎城に家康公が産湯をつかった水を汲み上げた井戸が残っています。木々に覆われた場所に静かに佇んでいます。

家康公の産湯の井戸

そしてひときわ高い場所に聳える天守閣は三層五重の優美な姿を見せています。天守閣からの帰途、龍城掘にかかる朱色の神橋が新緑の木々に一段を映えていました。

岡崎城天守閣
龍城濠に架かる神橋

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